もっとも早く開けたのは綾羅木川下流平野で、弥生(やよい)時代の大集落跡である郷遺跡(国史跡)や長門(ながと)地方最大の前方後円墳の仁馬山(じんばやま)古墳(国史跡)などの遺跡が集中する。豊北町地域にある弥生時代の土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)(国史跡)からは多数の人骨が出土している。歴史時代に入って内海沿岸の長府が国府の所在地となり、海峡一帯は海関として重視され、長門城が築かれ、鎌倉時代には元寇(げんこう)に備えて長門探題が置かれた。室町時代の赤間関は大内氏の勘合船貿易の港町として栄え、近世には西海、内海の諸航路が集まり、長崎と並ぶ商港として「西の浪華(なにわ)」とよばれた。関門海峡は平安時代に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した地であり、また幕末には長州藩と外国艦隊の戦闘の場となった。
[三浦 肇]
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…現在の山口県下関市大字豊浦町を中心とした地域の地名。〈長府〉の名は律令制の〈長門国府〉をちぢめた呼称で,中世後期から使用されたと思われる。…
…弥生時代人骨を出土した土井ヶ浜遺跡,西日本最大級の弥生時代集落址として有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の存在も,この地域の文化が先進的であったことを示している。《日本書紀》に見える仲哀天皇の穴門豊浦(あなととよら)宮は,大和朝廷による九州経略の基地となったところで,下関市長府の忌宮(いみのみや)神社境内がその故地と伝えられている。さらに古代の終焉を告げた源平最後の壇ノ浦合戦の舞台となったのも,下関市の関門海峡であった。…
※「下関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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