中印国境紛争(読み)ちゅういんこっきょうふんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中印国境紛争」の意味・わかりやすい解説

中印国境紛争
ちゅういんこっきょうふんそう


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中印国境紛争」の意味・わかりやすい解説

中印国境紛争
ちゅういんこっきょうふんそう
SinoIndian border dispute

1962年の大衝突を中心とする中国,インド間の国境紛争。西部のチベット,カシミール間にあるラダック地域と東部のチベット,インド国境地域は,13年以来イギリスがインド帝国の領土であると主張し,47年以降はインドがその領有を主張していた。 50年中国軍がチベットに進駐して以来,54年の中印条約でインドは中国のチベットに対する宗主権を認めたが,中国は前述の2地域はチベットに属すると主張し,両国間に紛争が頻発。チベットに反中国暴動が起ってダライ・ラマがインドに亡命したことにより,両国間の緊張が高まり,59年8月東部のマクマホン・ライン地区で衝突が起った。 62年インドの J.ネルー首相はラダックに幹線自動車道路を建設した中国側に撤退を要求,中国はラダックの中国領有をインドが認めれば,その代りに東部地域に対する中国側の主張を放棄すると提案したが,インドはこれを拒絶。 10月 20日には東と西の両国境で大規模な武力衝突となり,中国軍はインド軍を撃破したのち 11月 21日一方的に停戦を声明し,63年2月 28日当初のラインに撤退するとともに,獲得したインド側の武器および捕虜を返還した。なお 63年1月にはセイロンほか5ヵ国より調停のための「コロンボ提案」が提示されたが,その解釈をめぐって話合いは進展せず,その後も 65,67年にチベット,シッキム国境で発砲事件が続発した。 1970年代に入ってからはきわだった事件はないものの,根本的解決はみていない。 92年7月,30年ぶりに中印国境貿易が再開された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「中印国境紛争」の解説

中印国境紛争
ちゅういんこっきょうふんそう

中国とインドの国境紛争
ヒマラヤ山系の国境について双方の主張する国境線が大きく違い,インド側の主張するマクマホン−ライン(1914)を中国側は承認せず,清朝当時からの国境線はインドのアッサム州のヒマラヤ南麓と,カシミール州ラダク地区でインドの主張する領内深くはいっている。この紛争は1959年以来表面化し,62年に武力衝突に発展した。中国は両地を占領後ただちに大部分の地域から撤退し,周恩来・ネルーの首脳会談となったが,未解決に終わった。こののち,インドの対ソ接近,パキスタンの対中接近,中ソ関係悪化が始まった。

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