精選版 日本国語大辞典 「二の丸」の意味・読み・例文・類語 に【二】 の 丸(まる) 城郭で、本丸の外がわの郭。[初出の実例]「城とり之第一は馬出之取様肝要に候、たとへ三の丸二の丸へおしこみ候共、そのくるわの内にても持かへすやうに致す物也」(出典:上杉家文書‐(年月日未詳)(近世か)馬場信房伝授軍法并城取法覚) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「二の丸」の解説 二の丸にのまる 鳥取県:鳥取市鳥取城下鳥取城跡二の丸 山上の丸天守台の下正面︵西側︶にあった中(なか)坂(さか)口(ぐち)御門を下ると、南西側に天(てん)球(きゆう)丸、北東側やや低いところに二の丸がある。慶長五年関ヶ原合戦の後、城明渡しを拒否して籠城した宮部氏遺臣のうち、宮部半左衛門・長崎某が中坂口を固めた︵因幡民談記︶。この中坂口がのちの二の丸の地にあたるかと推定される︵鳥府志︶。池田長吉が城郭の大拡張を行った際、久松山北西に偏していた山(さん)下(げ)の丸を大きく南東に移し、当地に城主の居館を建てた。﹁鳥府志﹂は、初め当丸は天守のある山上の丸と、山下の丸の中ほどにあったので中(なか)の丸と称され、のちに当時の二の丸︵現在の三の丸︶の地を中の丸と称したので当地を御(ごほ)本(ん)丸と唱えたという伝承を引く。また享保五年の石黒火事以降は山上の丸を御天守、御本丸は御(おさ)三(んが)階(い)、二の丸は御(おし)城(ろ)と一般によばれていると記している。しかし石垣修理などのため幕府に差出した絵図類では、享保以後当地はすべて二の丸と記されており、山頂の御天守を本丸として、公の名称は二の丸であったとされる︵藩史︶。 ﹁因幡民談記﹂によれば、池田長吉時代の二の丸︵常の御住所︶には、式台・中門・遠侍、宝検の櫓、広間・書院・常の御殿・御料理所・台所・竈の屋・風呂屋・宝蔵・番所・温館・涼亭・作り庭・花木の苑が建てられていたという。 二の丸にのまる 秋田県:秋田市久保田城下久保田城跡二の丸 宝暦九年の御城下絵図によれば、二の丸の高さは平地より二の丸まで三丈六尺、東西は三九間、南北は二〇四間、西は急崖に接し、東に広く本丸を包み、本丸からは表裏二門を下って二の丸に通ずる。周囲の土塁は高さ一間半、東西の両隅に二層の角矢倉があった。その外周は内堀で囲まれ、その幅九―二三間、深さ一―二間半という︵正保の出羽国秋田郡久保田城画図︶。内堀内部の城地本体の総面積は一七万六千七〇〇坪余︵﹁秋田旧城之図﹂県立秋田図書館蔵︶、一の曲輪として竪固に構築されていた。 二の丸の東南部に突出したところ角櫓の北に時鐘楼が、その西に城内祈祷寺安(あん)楽(らく)院︵真言宗︶があった。享保︵一七一六―三六︶頃の御城下絵図にみると、安楽院の東南に隣接して﹁御勘定処﹂﹁御境目方﹂役所があるが、﹁梅津政景日記﹂によれば、元和年間︵一六一五―二四︶の頃、安楽院に﹁算用場﹂を設けているから、御勘定処などはそれ以後のものであろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
世界大百科事典(旧版)内の二の丸の言及 【曲輪】より …単なる屋敷地や畑の段と異なって防御された平場とするために,壁面を急傾斜の切岸状にするほか,縁辺に土塁を盛り上げたり,外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。近世城郭では天守を備えた中心の郭を本丸,その外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭を二の丸,さらに外側の家臣屋敷などの並ぶ郭を三の丸と呼ぶのが普通で,その他の諸郭に西の丸などの方角,あるいは人名を冠した呼称が用いられる。中世城郭では本丸に相当する主郭を本城・実城︵みじよう︶・根城︵ねじろ︶・一の城などと呼び,副次的な郭を外城・二の城,あるいは誰某屋敷などと呼んだ。… ※「二の丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」