精選版 日本国語大辞典 「佐保」の意味・読み・例文・類語 さおさほ【佐保】 (一)奈良市の地名。旧大和国添上郡佐保村。奈良時代は高官の邸宅地。 (一)[初出の実例]﹁佐保(サホ)過ぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ﹂(出典‥万葉集︵8C後︶三・三〇〇) さほ【佐保】 ⇒さお(佐保) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「佐保」の解説 佐保さほ 奈良県:奈良市佐保・佐紀地区佐保 奈良市中央部北方、佐保川上流域一帯の総称。佐(さ)︵﹁日本書紀﹂武烈天皇即位前紀︶、匝(さ)布(ほ)︵同書継体天皇八年︶、沙(さ)本(ほ)︵﹁古事記﹂開化天皇段︶などの表記がみえる。 佐保川は宝亀四年︵七七三︶二月三〇日の太政官符案︵九条家所蔵文書︶に﹁応修理佐保川堤六処、築堤二処、堀四処、応役単功三百七十六人﹂とあり、﹁経覚私要鈔﹂宝徳元年︵一四四九︶六月一九日の条に﹁佐保川橋質((賃カ))、善勝寺前関東南院取之﹂と記す。佐保川の架橋において通行賃を徴収したことが知られる。源を春日山と芳(ほ)山との間に発し、鶯の滝となり、市内北部︵旧添上郡・添下郡︶を西南に貫流、大和郡山市内を経て大和川に合流する。 佐保さほ 長崎県:南松浦郡若松町桐古里郷佐保[現在地名]若松町桐古里郷 桐(きり)古(ふる)里(さと)郷の南にあり、西に入(いる)鹿(か)鼻と銅(どう)切(ぎり)崎がつくる深い入江がある。中世は五島浦(うら)部(べ)島のうち。棹とも。青方氏一族の白魚氏が白(しろ)魚(いお)浦とともに地頭の峰氏との間で相論となることで知られる。弘安九年︵一二八六︶一〇月二日の白魚弘高避状案︵青方文書、以下断りのない限り同文書︶に﹁さをのさき﹂とみえ、弘高から白魚盛高に譲られた中浦部白魚の境として記される。同一〇年に青方覚尋︵能高︶が子の高家に青方の地頭職を譲っており、四至の南境にはやはり当地が記される︵同年正月一五日青方覚尋譲状案︶。小(お)値(ち)賀(か)島の地頭である峰氏と、その代官︵下沙汰職︶の青方氏の間で実質の支配権をめぐって相論が続き、峰貞の主張では青方氏を下沙汰職に任じたのは家高・能高の二代に限るもので、家高のもう一人の子の弘高は佐保・白魚の代官としたが、公私無沙汰であったので、貞の祖父の湛の代に改易し、その折に怠状を受取っているという︵年月日未詳峰貞陳状案︶。これに対して弘高の子の白魚行覚︵時高︶は家高から自分まで四〇余年にわたって知行してきたもので、それを貞が濫妨したものと反論している︵年月日未詳白魚行覚申状案︶。 この相論に対して幕府は嘉元二年︵一三〇四︶などに参決すべきことを命じたが、貞は応じず︵同年六月二五日鎮西御教書案︶、時高は貞を悪口・狼藉などの罪科に処すべきことを訴えるなかで、貞が数次の召文に応じないのはその罪科を認めているからであるとしている︵年月日未詳白魚行覚申状案︶。 佐保さほ 長崎県:下県郡豊玉町佐保 中世、仁(に)位(い)郡内にみえる地名。小尾・左尾とも記す。康応元年︵一三八九︶高麗軍が対馬を攻撃した際︵﹁高麗史節要﹂恭譲王元年二月条︶、島主の宗澄茂が当地で防戦に努めたと伝える。﹁朝鮮王朝実録﹂世宗二五年︵一四四三︶七月辛未条にみえる﹁沙応浦﹂は当地に比定され、この年四月に中国沿海を侵し、さらに済州島の船を襲って殺人および財物略奪を行った倭寇船団のなかに、当浦人の時羅沙也文︵四郎左衛門︶の船一隻が含まれていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
改訂新版 世界大百科事典 「佐保」の意味・わかりやすい解説 佐保 (さほ) 奈良市中央部北方,佐保川上流一帯の総称。︽日本書紀︾に狭裒,匝布などとしてみえ,︽万葉集︾にはこの地を詠んだ歌が多い。このあたりには佐保大納言と呼ばれた大伴安麻呂の宅や長屋王の佐保宅︵作宝楼ともいう︶などがあり,奈良時代高官の邸宅のあったところと考えられる。また,奈良市街北方の丘陵地を佐保山というが,元正・聖武天皇,光明皇后や藤原不比等・武智麻呂,大伴氏一族などが葬られており,奈良時代の葬地としては一等地であったらしい。なお,平城京一条大路は佐保大路とも呼ばれ,その東端に当たる東大寺転害︵てがい︶門は佐保路門と呼ばれていた。中世には,条里の里名に佐保里がみえ,これは現在の多門町付近に相当する。また,興福寺一乗院領として佐保田荘がおかれていた。一方,戦国時代には佐保山に松永久秀が多聞山城を築いた。 執筆者‥櫛木 謙周 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報