デジタル大辞泉
「修道院」の意味・読み・例文・類語
しゅうどう‐いん〔シウダウヰン〕【修道院】
キリスト教で、修道士や修道女が一定の戒律のもとに共同生活を営む場所。 [類語]僧院
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しゅうどう‐いんシウダウヰン 【修道院】
〘 名詞 〙 一定の戒律のもとに、共同生活を営んで修行を積むキリスト教の修道士または修道女の団体。また、その僧院。[初出の実例]「マシウ・パリスの編纂したセント・アルバンスの修道院(シフダウヰン) の年代記に出てゐる記事であらう」(出典:さまよへる猶太人(1917)〈芥川龍之介〉)
出典 精選版 日本国語大辞典 精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
修道院 しゅうどういん monastery
キ リ ス ト 教 に お い て 、 神 の 教 え に も っ と も か な っ た 生 活 を す る べ く 、 特 別 な 誓 い ︵ 誓 願 ︶ を た て 、 一 定 の 戒 律 に の っ と っ た 生 活 を 実 践 す る 者 を 修 道 士 ま た は 修 道 女 と よ び 、 彼 ら の 集 ま っ て 生 活 す る 場 を 修 道 院 と い う 。 修 道 生 活 は カ ト リ ッ ク 教 会 や 東 方 正 教 会 で 行 わ れ る も の で 、 プ ロ テ ス タ ン ト 諸 教 会 で は ほ と ん ど み ら れ な い 。 修 道 者 の 生 活 ぶ り は 各 修 道 会 に よ り さ ま ざ ま だ が 、 清 貧 ︵ 私 有 財 産 の 放 棄 ︶ 、 貞 潔 ︵ 独 身 生 活 ︶ 、 服 従 ︵ 会 の 上 長 者 へ の 絶 対 的 服 従 ︶ の 三 つ の 原 則 的 な 徳 目 は 共 通 で あ る 。 古 代 に は 1 人 で 隠 者 の 生 活 を 送 る 隠 修 士 も 多 く 、 東 方 正 教 会 に は い ま も そ の 伝 統 は 残 っ て い る が 、 現 代 で は ほ と ん ど の 修 道 者 は 修 道 院 で 共 住 の 形 を と る 。
修 道 院 は 男 女 別 住 で あ り 、 祈 り と 労 働 が そ の 生 活 原 理 で あ る 。 戒 律 の 厳 し い 修 道 院 で は 毎 日 の 日 課 が 克 明 に 定 め ら れ て お り 、 女 子 修 道 院 で は 外 部 と の 交 流 を 厳 し く 制 限 す る 禁 入 制 を と る と こ ろ も 少 な く な い 。 た だ し 第 二 バ チ カ ン 公 会 議 ︵ 1 9 6 2 ~ 65 ︶ 以 降 、 修 道 院 の 生 活 規 則 も 、 時 代 に 適 応 す る べ く 変 更 な い し 緩 和 さ れ る 傾 向 に あ る 。
﹇ 鶴 岡 賀 雄 ﹈
1 9 4 7 年 、 死 海 の 北 西 岸 の 洞 窟 ( ど う く つ ) で 多 く の 文 書 が 発 見 さ れ ︵ 死 海 文 書 ︶ 、 こ の 文 書 の 旧 所 有 者 た る ク ム ラ ン 教 団 に ユ ダ ヤ 教 修 道 制 が 存 在 し て い た こ と が 想 定 さ れ た 。 こ れ と 、 従 来 か ら 知 ら れ て い た エ ジ プ ト の テ ラ ペ ウ タ イ の 集 団 や パ レ ス チ ナ の エ ッ セ ネ 派 、 エ ル サ レ ム の 使 徒 集 団 と の 関 係 が 問 題 に さ れ る よ う に な っ た 現 在 で は 、 キ リ ス ト 教 修 道 院 の 起 源 も こ の 時 代 ま で さ か の ぼ っ て 論 じ ら れ な け れ ば な ら な い か も し れ な い が 、 通 常 は 、 3 世 紀 後 半 期 に 中 部 エ ジ プ ト の テ ー ベ で 隠 者 パ ウ ロ や ア ン ト ニ ウ ス に よ っ て 創 設 さ れ た と さ れ て い る 。 と く に ア ン ト ニ ウ ス は 、 ア レ ク サ ン ド リ ア の 主 教 ア タ ナ シ ウ ス の 筆 に な る ﹃ ア ン ト ニ ウ ス の 生 涯 ﹄ V i t a S . A n t o n i i ︵ 3 5 6 以 後 ︶ が 早 く か ら 西 ヨ ー ロ ッ パ に 伝 え ら れ た こ と も あ り 、 修 道 制 の 父 と し て 尊 敬 さ れ 、 そ の 苦 行 ぶ り は 、 中 世 末 、 近 世 初 頭 の 画 家 た ち に 絶 好 の 画 題 を 提 供 し て き た 。 彼 は 、 m o n k の 語 源 ﹁ ひ と り 住 む 者 ﹂ の と お り に 、 砂 漠 や 山 中 で 1 人 で 修 行 し た 。 こ の 隠 修 士 的 修 道 制 は 、 彼 の 弟 子 ヒ ラ リ オ ン H i l a r i o n ︵ 2 9 1 こ ろ ― 3 7 1 ︶ に よ っ て パ レ ス チ ナ に 、 ま た 同 じ く マ カ リ オ ス M a k a r i o s ︵ 3 0 0 こ ろ ― 3 9 0 こ ろ ︶ に よ っ て ナ イ ル 川 デ ル タ 地 帯 に 伝 え ら れ た が 、 こ の 形 式 は 瞑 想 ( め い そ う ) 的 な 東 方 教 会 の 修 道 士 に と く に 好 ま れ て 根 強 く 続 い て い っ た 。
ア ン ト ニ ウ ス と ほ ぼ 同 じ こ ろ 、 同 じ エ ジ プ ト の テ ー ベ で 修 道 生 活 を 始 め た パ コ ミ ウ ス P a c h o m i u s ︵ 2 9 2 / 2 9 4 ― 3 4 6 ︶ は 、 独 住 の も た ら す 日 常 的 な 不 便 と 精 神 的 危 険 を 避 け る た め に 共 同 生 活 の 修 道 院 を 建 て た 。 高 い 塀 を 巡 ら し た 敷 地 内 に い く つ か の 建 物 が あ り 、 そ れ ぞ れ に 20 ~ 40 人 の 修 道 士 が 1 人 の 指 導 者 と 起 居 を と も に す る 。 食 事 や 祈 り は 共 同 で 行 い 、 服 装 も 同 一 で あ る 。 共 同 生 活 の た め 清 貧 、 服 従 の 徳 目 は 重 視 さ れ た が 、 労 働 の 義 務 は と く に 強 調 さ れ た 。 こ れ は 多 数 の 修 道 士 の 自 活 上 不 可 欠 で あ っ た か ら で 、 彼 ら は 農 耕 の ほ か 、 ナ イ ル の イ グ サ で 籠 ( か ご ) を 編 み 、 シ ュ ロ の 葉 で 細 工 物 を つ く っ て 売 り 物 に し た 。 労 働 を 軽 視 し た 古 代 世 界 の な か で 、 労 働 尊 重 の 倫 理 を 後 代 に 残 し た の は 、 コ プ ト 人 修 道 士 の 際 だ っ た 貢 献 で あ る 。
パ コ ミ ウ ス が コ プ ト 語 で 記 し た 修 道 規 定 は 、 早 く か ら ギ リ シ ア 語 、 ラ テ ン 語 に 訳 さ れ て 広 く 流 布 し 、 共 同 生 活 様 式 の 修 道 院 は 彼 の 弟 子 エ ウ ゲ ニ ウ ス E u g e n i u s に よ っ て 遠 く メ ソ ポ タ ミ ア に ま で 伝 え ら れ た 。
﹇ 今 野 國 雄 ﹈
エ ジ プ ト の 修 道 院 が 外 部 に 広 ま っ て ゆ く の は 、 多 数 の 修 道 士 が こ の 地 を 去 っ て 他 に 移 住 し た た め と も い わ れ る 。 確 か に 、 4 0 0 年 ご ろ ア レ ク サ ン ド リ ア の テ オ フ ィ ロ ス と オ リ ゲ ネ ス を 支 持 す る 4 人 の 修 道 士 と の 間 で お こ っ た ﹁ オ リ ゲ ネ ス 論 争 ﹂ に 関 連 し て 、 ア レ ク サ ン ド リ ア 近 辺 の 修 道 士 は 大 量 に エ ジ プ ト か ら 追 放 さ れ た し 、 4 0 7 ~ 4 0 8 年 に は ナ イ ル 川 の デ ル タ 地 帯 が マ ツ ィ カ エ 地 方 の 蛮 族 の 侵 入 を 受 け 、 数 千 人 の 修 道 士 の 集 落 た る ス ケ テ ィ ス に 壊 滅 的 な 打 撃 を 与 え た 。 そ の こ と を 、 隠 修 士 ア ル セ ニ オ ス A r s e n i o s ︵ 生 没 年 不 詳 、 5 世 紀 前 半 の 人 ︶ は 西 ゴ ー ト 人 に よ る 4 1 0 年 の ロ ー マ 略 奪 に な ぞ ら え て 、 ﹁ 世 界 は ロ ー マ を 失 い 、 修 道 士 は ス ケ テ ィ ス を 失 っ た ﹂ と 語 っ た か ら 、 こ れ も 原 因 の 一 つ に 数 え ら れ よ う が 、 修 道 院 の 東 西 へ の 拡 大 は 5 世 紀 に 入 る 前 に す で に か な り 進 捗 ( し ん ち ょ く ) し て い た 。 ヒ ラ リ オ ン と カ リ ト ン が パ レ ス チ ナ に ラ ウ ラ l a u r a と よ ば れ る 散 居 型 の 修 道 院 を 開 い た の は 、 4 世 紀 の 前 期 で あ っ た し 、 シ リ ア の ア ン テ ィ オ キ ア 、 ベ ロ イ ア 、 カ ル キ ス の 荒 野 に 多 数 の 隠 者 が い る こ と を ヒ エ ロ ニ ム ス が 報 告 し た の は 、 3 7 4 年 の こ と で あ る 。 も っ と も 、 ア ン テ ィ オ キ ア の 近 く で シ メ オ ン S y m e o n ( S i m e o n ) ︵ 3 9 0 こ ろ ― 4 5 9 ︶ が 10 メ ー ト ル 以 上 も あ る 柱 の 上 で 、 30 年 も の 間 修 行 し て 上 下 の 崇 敬 を 集 め た の は 5 世 紀 に 入 っ て の こ と で あ る が 、 こ れ は エ ジ プ ト か ら 入 っ た も の で は な か っ た 。 カ ッ パ ド キ ア 地 方 に 修 道 院 が 広 ま る の も 4 世 紀 中 の こ と で 、 こ こ で は と く に カ エ サ レ ア の 司 教 バ シ レ イ オ ス の 果 た し た 役 割 が 抜 群 で 、 彼 の 著 し た ﹃ 聖 バ シ レ イ オ ス 会 則 ﹄ は 、 カ ト リ ッ ク 教 会 が 認 め る 四 大 修 道 会 則 の 筆 頭 に あ げ ら れ て い る 。
修 道 院 を 西 方 に 広 め る う え で 大 き な 貢 献 を し た の は 、 ル フ ィ ヌ ス L u f i n u s ︵ 3 4 5 ― 4 1 0 ︶ 、 ヒ エ ロ ニ ム ス 、 カ ッ シ ア ヌ ス C a s s i a n u s ︵ 3 6 0 こ ろ ― 4 3 5 こ ろ ︶ で あ る 。 ル フ ィ ヌ ス が エ ル サ レ ム で の 12 年 間 の 修 道 生 活 の の ち 修 道 士 と と も に ロ ー マ に 帰 っ た の は 3 9 6 年 こ ろ で 、 ブ ル ガ ー タ 聖 書 の 翻 訳 者 ヒ エ ロ ニ ム ス は 、 3 7 4 ~ 3 7 9 年 に ﹃ テ ー ベ の パ ウ ロ 伝 ﹄ を 、 3 9 0 ~ 3 9 1 年 に ﹃ マ ル ク ス 伝 ﹄ ﹃ ヒ ラ リ オ ン 伝 ﹄ を 著 し 、 4 0 4 年 に は ﹃ パ コ ミ ウ ス 修 道 会 則 ﹄ を ラ テ ン 語 に 訳 し 、 エ ジ プ ト 修 道 院 の 人 と 制 度 を 西 方 に 伝 え た 。
カ ッ シ ア ヌ ス が ス ケ テ ィ ス で 7 年 間 修 行 し た の は 4 世 紀 の 3 9 0 年 代 で あ る が 、 そ の 後 オ リ ゲ ネ ス 論 争 に 巻 き 込 ま れ て コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 、 ロ ー マ と 旅 を し 、 4 0 6 年 マ ル セ イ ユ に 男 女 二 つ の 修 道 院 を 建 て 、 以 後 こ こ で 30 年 に わ た っ て 修 道 生 活 を 指 導 し た が 、 エ ジ プ ト を 手 本 に し た 彼 の ﹃ 共 住 修 道 掟 則 ( て い そ く ) ﹄ は 、 南 フ ラ ン ス や イ タ リ ア だ け で な く 、 バ ン ダ ル 人 支 配 下 の ア フ リ カ で も 広 く 読 ま れ た 。
﹇ 今 野 國 雄 ﹈
ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス が イ タ リ ア で 見 聞 し て ヒ ッ ポ に 伝 え た 修 道 院 が 、 彼 の 死 ︵ 4 3 0 ︶ 後 ど う な っ た か は わ か ら な い が 、 彼 が 編 纂 ( へ ん さ ん ) し た と い わ れ る ﹃ 聖 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス 会 則 ﹄ は 、 と く に 12 世 紀 以 後 、 西 ヨ ー ロ ッ パ の 聖 堂 参 事 会 の 準 則 と し て 普 及 し た 。 し か し 、 西 方 に お け る 修 道 院 拡 大 の 主 た る 出 発 点 と な っ た の は 、 南 フ ラ ン ス の レ ラ ン ス 島 、 ロ ア ー ル 川 に 臨 む ト ゥ ー ル の マ ル ム ー テ ィ エ 、 お よ び 聖 パ ト リ ッ ク に よ っ て キ リ ス ト 教 化 し た ア イ ル ラ ン ド で あ る 。 ロ ー マ の コ ン ス ル の 家 柄 で あ っ た ホ ノ ラ ト ゥ ス に よ っ て 5 世 紀 初 頭 開 か れ た レ ラ ン ス 島 の 散 居 修 道 院 は 、 ロ ー マ の 没 落 貴 族 を 修 道 士 と し て 再 生 さ せ 、 ロ ー ヌ 川 流 域 一 帯 の 教 会 、 修 道 院 の 発 展 に と っ て の 一 大 根 拠 地 と な っ た し 、 ト ゥ ー ル の マ ル テ ィ ヌ ス は 新 興 の メ ロ ビ ン グ 朝 フ ラ ン ク 王 国 の 守 護 聖 人 と し て 、 ガ リ ア と イ タ リ ア に お け る 多 数 の 新 設 修 道 院 の 被 奉 献 人 と な る 。 ま た 、 ア イ ル ラ ン ド は 東 方 か ら 伝 え ら れ た 古 代 の 文 化 遺 産 を た い せ つ に 保 存 し 、 ﹁ 知 恵 の 乳 房 ﹂ u b e r s o p h i a e と よ ば れ て 好 学 の 者 を 集 め た が 、 修 道 士 た ち は ガ リ ア に リ ュ ク ス ー ユ を は じ め と す る 50 以 上 の 修 道 院 を 建 設 し て 不 滅 の 功 績 を 残 し た 。 し か し 、 好 学 の 修 道 士 と い う 点 で は 、 カ ッ シ オ ド ル ス C a s s i o d o r u s ︵ 4 8 7 ― 5 8 3 ︶ も こ れ に 劣 ら な い 。 彼 は 東 ゴ ー ト 王 国 の 高 官 に な っ た ロ ー マ 人 貴 族 で あ る が 、 ゴ ー ト 戦 役 中 に 政 界 を 退 き 、 南 イ タ リ ア の ウ ィ ワ リ ウ ム V i v a r i u m に 修 道 院 を 建 て た ︵ 5 4 0 こ ろ ︶ が 、 そ の 整 備 さ れ た 図 書 館 は 以 後 西 欧 の 修 道 院 図 書 館 の 手 本 と な っ た 。
中 世 前 期 の 修 道 院 拡 大 の 最 後 の 仕 上 げ を す る の は ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 修 道 士 た ち で あ る 。 7 世 紀 か ら 8 世 紀 に か け て の ビ リ ブ ロ ー ド W i l l i b r o r d ︵ 6 5 8 こ ろ ― 7 3 9 ︶ お よ び ボ ニ フ ァ テ ィ ウ ス B o n i f a t i u s ︵ 6 7 5 こ ろ ― 7 5 4 ︶ の 仕 事 が そ れ で あ る 。 も っ と も 、 こ の 2 人 は と も に 修 道 士 で は あ っ た が 、 修 道 院 の 建 設 や 修 道 士 の 教 育 よ り も 異 教 徒 へ の 伝 道 や 教 会 組 織 の 整 備 に 努 め 、 2 人 と も ロ ー マ 教 皇 か ら 大 司 教 に 任 じ ら れ て い る 。 し た が っ て そ の 意 味 で は 前 者 が ﹁ フ リ ー ス ラ ン ト の 使 徒 ﹂ 、 後 者 が ﹁ ド イ ツ 人 の 使 徒 ﹂ と よ ば れ る の は 正 し い が 、 彼 ら の 仕 事 に は 多 く の 修 道 士 が 協 力 し て い る し 、 前 者 が 8 世 紀 初 め ご ろ 建 て た エ ヒ テ ル ナ ハ 修 道 院 、 と く に 後 者 が 7 7 4 年 建 て た フ ル ダ 修 道 院 は ド イ ツ の モ ン テ ・ カ ッ シ ー ノ と よ ば れ て 、 と も に 修 道 院 の 歴 史 に 消 え ざ る 足 跡 を 残 し て い る か ら 、 や は り 忘 れ る こ と の で き な い 人 物 で あ る 。
﹇ 今 野 國 雄 ﹈
西 欧 に 修 道 院 が 拡 大 し て ゆ く う え で 実 に 多 く の 人 々 の 協 力 が あ っ た が 、 そ の 重 要 性 と い う 点 で は ヌ ル シ ア の ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス が モ ン テ ・ カ ッ シ ー ノ 修 道 院 で 執 筆 し た ﹃ 聖 ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 会 則 ﹄ に 勝 る も の は な い 。 こ れ は ﹁ 西 欧 修 道 制 の マ グ ナ ・ カ ル タ ﹂ と よ ば れ る ほ ど 、 後 の 西 欧 の ほ と ん ど の 観 想 修 道 院 で 遵 奉 さ れ た か ら で あ る 。 こ の 会 則 は 、 古 来 の 多 く の 修 道 規 定 を 参 照 し て い る が 、 オ リ エ ン ト 修 道 制 の よ う に 厳 格 な 苦 行 を 要 求 せ ず 、 中 庸 の 精 神 を も っ て 一 貫 し 、 労 働 を 重 視 し て 修 道 院 の 経 済 的 自 立 を 確 保 し 、 お り か ら 形 成 さ れ つ つ あ っ た 農 業 社 会 に 修 道 院 を 適 応 さ せ る な ど 、 西 欧 独 自 の 修 道 精 神 が 至 る 所 に 発 揮 さ れ て お り 、 修 道 院 は こ の 会 則 に よ っ て 初 め て そ の 西 欧 的 形 態 を 確 立 し た と い え よ う 。 も ち ろ ん こ の 会 則 が 西 欧 に 広 く 行 き 渡 る ま で に は 、 作 成 後 少 な く と も 2 世 紀 は か か っ た か ら 、 そ の 緩 慢 な 普 及 の 過 程 に 西 欧 の 修 道 院 の も う 一 つ の 歴 史 が 潜 ん で い る こ と に も 注 意 し な け れ ば な ら な い し 、 ま た 最 近 で は 、 こ の 会 則 の か な り の 部 分 が ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 以 外 の 者 の 作 と い う 説 も 多 い か ら 、 こ の 会 則 の 評 価 は そ れ だ け 慎 重 を 要 す る こ と に な る 。
﹇ 今 野 國 雄 ﹈
修道院は、カロリング帝国が崩壊してから神聖ローマ帝国の成立するまでに、ノルマン人、マジャール人 、イスラム教徒 の攻撃を受けて至る所で破壊され、衰微したが、10世紀初頭クリュニー修道院 の出現によって西欧の修道院は新しい段階を迎えた。修道規律が回復し、典礼が整備され、修道精神は高揚し、信者と修道院の精神的紐帯(ちゅうたい)が強化されたばかりでなく、とくに11世紀に入るや、ローマ教皇の直接保護下に司教権を排除し、修道院の人事・財産の管理・運営を含む「クリュニーの自由」が確立され、「修道会」の概念と実体が西洋史上初めて出現したことはとくに注目に値する。12世紀に最盛期を迎えたとき、所属の修道院は約1500を数えたから、その影響はヨーロッパ中至る所にみられた。「キリストの貧者」をモットーに1098年建設されたシトー修道院は、クリュニーに比べるとはるかに禁欲主義に徹底していたが、組織の面ではクリュニーの中央集権とは対照的に民主的であった。この修道会はその経済活動の活発さと広範さにおいて前例をみなかった。12世紀末までに傘下に530修道院を数える成功を収めた。しかし、12世紀後半から異端が激発するや、修道士は托鉢(たくはつ)修道会という新しい形態をもってこれに対応する。ドミニコ会、フランシスコ会が、これである。これらの修道会は、いずれも女子の第二修道会、一般男女信者の第三修道会をもって広く福音(ふくいん)伝道を行った点に共通の特色をもっている。しかし、以後修道士は多く修道院に一所定住の誓願を行わなくなったという点では、修道院そのものの機能と性格が変わってしまったと考えなければならない。
[今野國雄]
13世紀の托鉢修道会の出現以降、修道生活は修道院の禁域内にとどまらず、世俗社会のただ中での布教や慈善事業などにも多くかかわるようになった。しかし16世紀に起こった宗教改革に基づくプロテスタント諸教会は、修道院という特殊な生活形態や修道者という身分自体を否定するものであり、プロテスタントが支配する地域では修道院の廃止、財産の没収なども行われた。こうして中世から近世へとキリスト教社会の全体が大きく転換してゆくなかで、修道院のあり方にも大きな変化がもたらされた。すでに宗教改革に並行ないし対応して、カトリック教会内にも種々の改革運動が生まれており、既成の修道会内部でも多くの運動が発生した。
当時の修道会改革運動が目ざした方向は、一つには、緩和化され、堕落しつつあった修道生活の規律を、古来の会則を忠実に厳守することによって引き締め、祈りと労働という修道生活本来の理想に帰ることであった。この方向の運動としては、フランシスコ会から分離したカプチン会、カルメル会から分かれた跣足(せんそく)カルメル会の設立、シトー会内でのフィヤン派の運動などがあり、ドミニコ会、プレモントレ会などでも同様の改革が試みられている。
いま一つの方向は、宗教改革勢力に対する失地回復、また、いわゆる大航海時代になって急速に視野に入ってきた非キリスト教地域への積極的な進出、布教であった。16、17世紀にかけて、日本を含む東洋やアフリカ、アメリカ大陸の各地に赴いて宣教し、西欧のキリスト教を全世界に広めたのは、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティヌス会 など托鉢修道会の人々、そしてなによりも、1540年イグナティウス・デ・ロヨラによって新たに設立されたイエズス会の人々であった。イエズス会は軍隊的組織とそれに基づく高い機動性、活動性を特色とし、従来の修道生活の理想であった一所定住とは反対に、「神のより大いなる栄光」(イエズス会のモットー)を地上に実現するため、全世界に派遣され、あらゆる分野で実践的活動を行おうとするものであった。また同じころ、一般民衆の教化宣導を目的としたバルナバ会、病人看護を目的としたカミロ会、神の聖ヨハネ病院修士会なども創設され、教育、慈善事業など、社会的活動が修道生活の中心目的の一つとなるに至った。
以後、各時代ごと、地域ごとに、それぞれの社会状況に見合った活動的修道会が続々と設立されるが、それらは大筋では、このイエズス会的なあり方に倣ったものである。とりわけ、17世紀フランスのウィンケンティウス・ア・パウロVincentius a Paulo(1581―1660)らの活動は禁域内にとどまらない女子の活動的修道会を生み出し、以後、1000を超える数の女子修道会が設立されるに至っている。こうして近代の修道院活動は、啓蒙(けいもう)主義時代におけるイエズス会の一時解散(1773~1814)、フランス革命下での修道生活の禁止などの退潮はあったが、中世の観想的生活から活動的生活へとその比重を移しつつ、存続、発展してきた。
[鶴岡賀雄]
し か し 20 世 紀 に 入 る と 、 欧 米 社 会 全 体 の 世 俗 化 、 教 会 離 れ が 大 き な 潮 流 と な り 、 そ れ に 伴 い と く に 規 律 の 厳 し い 観 想 修 道 会 な ど で は 修 道 者 数 の か な り の 減 少 が み ら れ た 。 現 代 で は 、 か つ て の 人 里 離 れ た 山 中 の 大 修 道 院 で は な く 、 大 都 会 の ア パ ー ト の 一 室 に 数 人 で 共 同 生 活 を 営 む よ う な ﹁ 修 道 院 ﹂ も ま れ で は な い 。 た だ し 近 年 で は こ の 退 潮 傾 向 に も ブ レ ー キ が か か り つ つ あ る か に も み え る 。 1 9 8 1 年 の 資 料 で は 、 ロ ー マ ・ カ ト リ ッ ク 教 会 公 認 の 男 子 修 道 会 数 は 全 部 で 2 2 5 ︵ う ち 厳 律 修 道 ( オ ル ド ) 会 83 ︶ 、 修 道 院 数 ︵ あ ら ゆ る 形 態 の も の を 含 む ︶ 3 万 1 1 3 9 ︵ 同 1 万 2 1 1 2 ︶ 、 修 道 士 数 23 万 8 7 9 8 ︵ 同 10 万 5 2 5 5 ︶ で 、 修 道 士 数 は 年 間 1 % 程 度 の 減 少 率 と な っ て い る 。 同 じ く 女 子 修 道 会 は 、 大 小 あ わ せ て 1 2 1 7 の 会 が 存 在 し 、 全 修 道 女 数 は 73 万 7 7 2 9 と な っ て い る 。
﹇ 鶴 岡 賀 雄 ﹈
日 本 に お け る 修 道 院 の 歴 史 は 16 世 紀 の キ リ シ タ ン 時 代 に ま で さ か の ぼ る 。 布 教 の た め 来 日 し た イ エ ズ ス 会 士 ら が 共 同 生 活 を し た 住 居 、 ま た 、 日 本 人 聖 職 者 、 修 道 士 育 成 の た め 府 内 ︵ 大 分 ︶ は じ め 各 地 に 建 て た 大 学 ( コ レ ジ オ ) 、 修 道 士 養 成 校 ( ノ ビ シ ア ー ド ) な ど が 広 義 の 修 道 院 の 初 め で あ ろ う 。 ま た 、 こ の 時 代 す で に 日 本 人 に よ る 女 子 修 道 会 ︵ い わ ゆ る ﹁ み や こ の 比 丘 尼 ( び く に ) た ち ﹂ ︶ が あ っ た と も い わ れ る 。 し か し 、 わ が 国 に お け る 本 格 的 な 修 道 院 設 立 は 、 明 治 に 入 り キ リ シ タ ン 禁 制 が 解 か れ て か ら の こ と で 、 1 8 7 2 年 ︵ 明 治 5 ︶ フ ラ ン ス の サ ン ・ モ ー ル 会 ︵ 聖 嬰 イ エ ズ ス 愛 徳 教 育 修 道 会 ︶ の 修 道 女 5 人 が 来 日 し 、 横 浜 の 山 手 居 留 地 英 国 兵 屯 地 跡 に 修 道 院 を 開 い た の が 最 初 と さ れ て い る 。 中 世 以 来 の 伝 統 的 修 道 会 ( オ ル ド ) と し て は 、 1 8 9 6 年 に フ ラ ン ス の 厳 律 シ ト ー 会 ︵ ト ラ ッ プ 派 ︶ が 北 海 道 上 磯 ( か み い そ ) 郡 茂 別 ( も べ つ ) 村 石 倉 番 外 地 ︵ 北 斗 ( ほ く と ) 市 ︶ に 有 名 な 灯 台 の 聖 母 ( ノ ー ト ル ・ ダ ム ・ デ ュ ・ フ ア ー ル ) ト ラ ピ ス ト 修 道 院 を 開 き 、 続 い て 同 会 の 女 子 部 、 厳 律 シ ト ー 修 道 女 会 も 、 98 年 に 函 館 ( は こ だ て ) 郊 外 上 湯 ノ 川 ︵ 現 函 館 市 上 湯 ノ 川 町 ︶ に 天 使 の 聖 母 ( ノ ー ト ル ・ ダ ム ・ デ ・ ザ ン ジ ュ ) ト ラ ピ ス チ ヌ 修 道 院 を 開 設 し た 。 以 後 、 ド ミ ニ コ 会 ︵ 1 9 0 4 ︶ 、 フ ラ ン シ ス コ 会 ︵ 1 9 0 7 ︶ 、 神 言 会 ︵ 1 9 0 7 ︶ な ど 有 力 な 修 道 会 が 次 々 に 来 日 し 、 イ エ ズ ス 会 も 1 9 0 8 年 ︵ 明 治 41 ︶ に は 再 来 日 し て い る 。 現 状 で は 、 わ が 国 で 生 ま れ た も の も 含 め て 、 男 子 47 、 女 子 94 の 各 種 修 道 会 が 活 動 し て い る 。 な お 、 修 道 院 の 基 本 構 造 や 生 活 の 原 則 は 全 世 界 で 共 通 で あ る が 、 そ れ は 各 地 域 の 文 化 的 伝 統 を ま っ た く 無 視 し た も の で は な い 。 わ が 国 に お い て も 、 日 本 の 建 築 様 式 を 取 り 入 れ た 板 敷 き の 聖 堂 な ど も つ く ら れ て い る 。
﹇ 鶴 岡 賀 雄 ﹈
キ リ ス ト 教 修 道 院 の 正 確 な 起 源 は 不 明 で あ る が 、 そ の 制 度 の 確 立 が は っ き り 認 め ら れ る の は 3 世 紀 の エ ジ プ ト で あ る 。 上 エ ジ プ ト 出 身 の パ コ ミ ウ ス は テ ー ベ の タ ベ ニ ス に 修 道 院 を 建 て 、 共 同 生 活 に よ る 修 道 院 制 度 の 基 礎 を 築 い た の で あ る が 、 彼 に よ る 修 道 院 建 築 は 、 四 囲 に 塀 を 巡 ら し た 構 内 に 建 て ら れ た 5 棟 な い し 6 棟 の 建 物 か ら な り 、 20 人 か ら 40 人 の 修 道 士 が そ れ ぞ れ 居 住 し た 。 構 内 に は そ の ほ か 聖 堂 、 食 堂 、 図 書 室 、 外 来 者 の 宿 泊 施 設 も 建 て ら れ た 。
5 世 紀 以 降 ヨ ー ロ ッ パ 各 地 に 、 東 方 の 宗 教 的 伝 統 を 継 承 し た 修 道 院 制 度 が 勃 興 ( ぼ っ こ う ) す る が 、 5 2 9 年 に ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス が 南 イ タ リ ア の モ ン テ カ ッ シ ー ノ に 開 設 し た 修 道 院 は 、 外 界 と の 無 益 な 接 触 を 避 け る た め 、 生 活 に 必 要 な い っ さ い の も の を 備 え る よ う に な っ た 。 そ の た め 、 広 い 構 内 に は 聖 堂 を 中 心 に 、 食 堂 、 図 書 室 な ど 東 方 の 修 道 院 に み ら れ た 施 設 の ほ か に 、 農 園 や 収 穫 物 の 処 理 に 必 要 な 付 属 建 造 物 ま で 併 設 さ れ た が 、 そ れ ら の 正 確 な 配 置 に つ い て は 知 る 手 だ て が 失 わ れ て い る 。 ま た 8 2 0 年 ご ろ に 作 成 さ れ 現 在 に 伝 え ら れ て い る ス イ ス の 有 名 な ザ ン ク ト ・ ガ レ ン 修 道 院 所 蔵 の 設 計 図 は 、 当 時 の 修 道 院 建 築 一 般 の 手 引 書 と し て つ く ら れ た も の で あ り 、 こ の 修 道 院 の 往 時 の 実 態 を 示 す も の で は な い 。 し か し こ れ は 中 世 に お け る 修 道 院 建 築 の 理 想 的 設 計 が ど の よ う な も の で あ っ た か を 知 ら せ る 貴 重 な 資 料 で あ る 。 聖 堂 と そ れ に 隣 接 す る 中 庭 を 囲 む 回 廊 に 沿 っ て 配 置 さ れ る 修 道 士 た ち の 居 室 は 、 修 道 院 の 中 核 を な す 伝 統 的 施 設 で あ る が 、 こ こ に は そ の ほ か に 農 奴 の 住 居 、 家 畜 小 屋 、 食 糧 品 の 加 工 設 備 か ら 建 築 用 の 石 灰 炉 ま で が 備 え ら れ て お り 、 完 全 な 自 給 自 足 が 志 向 さ れ て い る 。
中 世 末 期 に な る と 、 フ ラ ン シ ス コ 会 や ド ミ ニ コ 会 が 、 い わ ゆ る ﹁ 托 鉢 ( た く は つ ) 修 道 士 ﹂ に よ る 新 時 代 を 修 道 院 の 歴 史 に 画 す る こ と に な る 。 清 貧 ・ 簡 素 を 修 道 生 活 の 理 想 と す る こ れ ら の 修 道 士 た ち が 、 在 来 の も の よ り 小 規 模 か つ 質 素 な 修 道 院 設 計 を 必 要 視 し た の は 当 然 で あ る 。 こ れ に 対 し 、 い わ ゆ る 教 職 修 道 会 ︵ な か で も 16 世 紀 に 創 設 さ れ た イ エ ズ ス 会 ︶ の 修 道 院 は 学 校 や 寄 宿 舎 と 併 合 さ れ て お り 、 そ の 規 模 は 同 時 代 の 宮 廷 建 築 と 大 差 が な い 。 そ し て 中 庭 を 囲 む 回 廊 を 重 視 す る 中 世 以 来 の 修 道 院 建 築 の 伝 統 は バ ロ ッ ク 時 代 に 廃 止 さ れ 、 院 内 に 豪 華 な 大 広 間 が 設 け ら れ る よ う に な っ た 。
﹇ 濱 谷 勝 也 ﹈
﹃ 今 野 国 雄 著 ﹃ 修 道 院 ﹄ ︵ 1 9 7 1 ・ 近 藤 出 版 社 ︶ ﹄ ▽ ﹃ D ・ ノ ウ ル ズ 著 、 朝 倉 文 市 訳 ﹃ 修 道 院 ﹄ ︵ 1 9 7 2 ・ 平 凡 社 ︶ ﹄ ▽ ﹃ 今 野 國 雄 著 ﹃ 西 欧 中 世 の 社 会 と 教 会 ﹄ ︵ 1 9 7 3 ・ 岩 波 書 店 ︶ ﹄ ▽ ﹃ 今 野 國 雄 著 ﹃ 修 道 院 ﹄ ︵ 岩 波 新 書 ︶ ﹄ ▽ ﹃ 半 田 元 夫 ・ 今 野 國 雄 著 ﹃ キ リ ス ト 教 史 Ⅰ ・ Ⅱ ﹄ ︵ 1 9 7 7 ・ 山 川 出 版 社 ︶ ﹄ ▽ ﹃ 森 安 達 也 著 ﹃ キ リ ス ト 教 史 Ⅲ ﹄ ︵ 1 9 7 8 ・ 山 川 出 版 社 ︶ ﹄
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
修道院 (しゅうどういん) monastery
目次 修道院の起源 東方の修道院 東西交流と西欧型修道院の発展 修道院の生活 シトー会とフランシスコ会による革新 近代における修道理念 修道院建築 東方 西方
キ リ ス ト 教 の 修 道 士 m o n k や 修 道 女 s i s t e r が 一 定 の 戒 律 に 基 づ き 清 貧 , 貞 潔 , 服 従 の 誓 願 を 立 て て 共 同 生 活 を 営 む 場 所 。 ア ベ ー a b b e y は 大 修 道 院 , プ ラ イ ア リ ー p r i o r y は 小 修 道 院 , コ ン ベ ン ト c o n v e n t は 托 鉢 修 道 士 ま た は 近 代 以 降 の 修 道 女 会 の 修 道 女 の 居 所 , ド ム ス ・ レ リ ギ オ サ d o m u s r e l i g i o s a は 近 代 の 海 外 宣 教 会 ま た は 活 動 的 修 道 会 の 会 員 の 居 所 を 指 す の が 一 般 的 で あ る 。 キ リ ス ト 教 の 修 道 院 は 従 来 3 世 紀 の 後 半 期 に エ ジ プ ト の テ ー ベ で 隠 者 パ ウ ロ や ア ン ト ニ ウ ス に よ っ て 創 設 さ れ た と 考 え ら れ て き た が , 1 9 4 7 年 発 見 さ れ た ︿ 死 海 写 本 ﹀ が 契 機 と な っ て ク ム ラ ン や テ ラ ペ ウ タ イ の ユ ダ ヤ 教 修 道 院 の 存 在 が 確 認 さ れ , そ れ と イ エ ス 復 活 後 の エ ル サ レ ム の 使 徒 小 集 団 と の 系 譜 関 係 も 問 題 と さ れ , 修 道 院 の 起 源 も そ れ だ け 時 代 を さ か の ぼ っ て 論 じ ら れ る よ う に な っ た 。 も ち ろ ん , キ リ ス ト 教 修 道 士 に と っ て は ︽ 使 徒 行 伝 ︾ ︵ 2 ‥ 44 ~ 47 , 4 ‥ 32 ~ 35 ︶ の 伝 え る エ ル サ レ ム の 使 徒 小 集 団 の 共 同 生 活 や ︽ マ タ イ に よ る 福 音 書 ︾ ︵ 10 ‥ 9 , 10 ‥ 10 , 19 ‥ 21 ︶ , ︽ マ ル コ に よ る 福 音 書 ︾ ︵ 8 ‥ 34 ︶ が 述 べ て い る イ エ ス の 十 二 使 徒 へ の 訓 戒 が 絶 え ず 帰 る べ き 原 点 で あ っ た と い え よ う 。
修 道 院 の 起 源
ア ン ト ニ ウ ス は m o n k の 原 義 ど お り ︿ ひ と り 住 む 者 ﹀ ︵ 隠 修 士 ︶ と し て 荒 野 で 長 い 苦 行 の 生 活 を 続 け た が , そ の 禁 欲 ぶ り は ア レ ク サ ン ド リ ア の 主 教 ア タ ナ シ オ ス の 筆 に な る ︽ 聖 ア ン ト ニ ウ ス 伝 ︾ ︵ 3 5 6 ︶ に よ っ て 西 方 の ガ リ ア の 奥 深 く ま で 伝 え ら れ た 。 彼 の 弟 子 ヒ ラ リ オ ン H i l a r i o n ︵ 2 9 1 こ ろ - 3 7 1 ︶ は そ れ を パ レ ス テ ィ ナ に , 別 の 弟 子 マ カ リ オ ス M a k a r i o s ︵ 3 0 0 こ ろ - 3 9 0 こ ろ ︶ は ナ イ ル 川 の デ ル タ 地 帯 に 拡 大 し た 。 東 方 教 会 に い ま も 根 強 い 隠 修 士 的 傾 向 は こ の と き に 始 ま る 。 ア ン ト ニ ウ ス と 同 じ こ ろ 同 じ テ ー ベ で 修 道 生 活 を 始 め た パ コ ミ ウ ス は 独 住 の 日 常 的 不 便 と 精 神 的 危 険 と を 克 服 す る た め に 共 同 生 活 ︵ コ イ ノ ビ オ ン ︶ の 修 道 院 を 建 て た 。 そ れ は そ れ ぞ れ 20 ~ 40 人 の 修 道 士 が 1 人 の 監 督 の も と に 共 同 生 活 を 営 む 五 つ か 六 つ の 建 物 か ら な り , 敷 地 内 に は 別 に 聖 堂 ︵ 教 会 堂 ︶ , 食 堂 , 外 来 者 用 宿 舎 , 庭 園 が 設 け ら れ て い た 。 修 道 士 は 清 貧 , 貞 潔 , 服 従 の 徳 目 の ほ か に 労 働 を 義 務 づ け ら れ , 農 耕 や イ グ サ , シ ュ ロ の 細 工 物 に よ っ て 自 活 の 道 を 講 じ た 。 彼 が コ プ ト 語 で 書 い た 戒 律 は 早 く か ら ギ リ シ ア 語 や ラ テ ン 語 に 訳 さ れ て , 東 西 ヨ ー ロ ッ パ に 広 く 流 布 し た し , 彼 の 弟 子 エ ウ ゲ ニ ウ ス E u g e n i u s と 70 人 の 修 道 士 と は こ の 方 式 を 遠 く メ ソ ポ タ ミ ア の ニ シ ビ ス に ま で 伝 え た 。
東 方 の 修 道 院
オ リ エ ン ト 諸 地 方 の 修 道 形 態 は 多 様 で あ っ て , パ レ ス テ ィ ナ の ガ ザ や ユ ダ イ ア で は ラ ウ ラ l a u r a と 呼 ば れ る 散 居 修 道 院 の 形 式 が 多 か っ た し , シ リ ア で は 高 い 柱 の 上 で 苦 行 す る 柱 頭 行 者 が 多 く , ︿ シ メ オ ン の 城 ﹀ と 名 付 け ら れ た 修 道 院 遺 跡 ︵ カ ラ ト ・ セ マ ー ン 修 道 院 ︶ は そ の 一 端 を 今 日 に ま で 伝 え て い る 。 シ リ ア の 北 方 の 荒 涼 た る カ ッ パ ド キ ア 地 方 に 修 道 制 を 広 め た の は ア ル メ ニ ア の 主 教 エ ウ ス タ テ ィ オ ス E u s t a t h i o s ︵ 3 0 0 こ ろ - 3 7 7 こ ろ ︶ で あ る が , こ こ で は 彼 の 勧 め で 修 道 士 と な っ た バ シ レ イ オ ス の 方 が 歴 史 上 著 名 で あ る 。 バ シ レ イ オ ス は パ コ ミ ウ ス と 同 様 に 集 団 的 な 共 住 主 義 と 財 産 共 有 主 義 を 修 道 生 活 の 基 盤 と し , 修 道 士 の 服 従 と 従 順 お よ び 労 働 を 重 視 し , そ れ を 戒 律 と し て 書 き 残 し た が , こ の ︿ バ シ レ イ オ ス 会 則 ﹀ こ そ 東 方 正 教 会 所 属 の 修 道 院 に お け る 基 本 準 則 と な っ た も の で あ る 。 も ち ろ ん ︿ ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス 法 典 ﹀ の ︿ 新 勅 令 ︵ ノ ウ ェ ラ エ ︶ ﹀ の 関 係 条 文 も ビ ザ ン テ ィ ン 帝 国 の 修 道 院 を 性 格 づ け る の に 大 き な 役 割 を 果 た し た 。 し か し 東 方 で 修 道 院 が 最 も 精 彩 あ る 姿 を 示 す の は イ コ ノ ク ラ ス ム の 時 代 で あ っ た と い わ れ る か ら , 8 世 紀 後 半 期 に お け る 修 道 院 へ の 迫 害 と そ れ に 対 す る 修 道 士 の 抵 抗 , 特 に こ の 抵 抗 運 動 で 主 役 を 演 ず る コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル の ス ト ゥ デ ィ オ ス 修 道 院 の 院 長 テ オ ド ロ ス T h e o d ō r o s ︵ 7 5 9 - 8 2 6 ︶ の 活 動 と 彼 が 行 っ た 修 道 院 改 革 と は 東 方 修 道 制 の 再 生 の 泉 と な っ た 。 も っ と も , 東 方 の 修 道 士 の 仕 事 が 多 く 修 道 院 内 で で き る も の に 限 定 さ れ た 点 は 西 欧 の 修 道 院 と の 大 き な 違 い で あ る が , そ の な か で は 絵 画 , 装 飾 挿 画 , 写 字 が 重 要 な 地 位 を 占 め た 。 ま た た い て い の 修 道 院 は 宿 坊 , 救 貧 院 , 病 院 を 備 え て お り , 例 え ば コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル の パ ン ト ク ラ ト ル 修 道 院 の 付 属 病 院 は 50 の ベ ッ ド を 有 し , そ こ に 60 人 の 修 道 士 が 配 置 さ れ て い た が , て ん か ん と 老 人 病 と の 病 舎 と は そ れ ぞ れ 別 に 設 け ら れ て い た 。 医 療 部 門 は 同 時 代 の 西 欧 よ り は る か に 進 ん で い た 。 テ オ ド ロ ス の 改 革 と 並 ん で ビ ザ ン テ ィ ン 修 道 制 に 広 範 な 影 響 を 与 え た の は 初 め は 皇 帝 ニ ケ フ ォ ロ ス 2 世 の 支 援 で 建 設 さ れ た ア ト ス 山 の 修 道 院 群 で あ る 。 こ こ は 11 世 紀 に 最 盛 期 を 迎 え , ︿ 聖 山 ︵ ア ギ オ ン ・ オ ロ ス ︶ ﹀ と 呼 ば れ て 東 方 正 教 徒 の 崇 敬 を 集 め , 以 来 今 日 ま で 幾 星 霜 に わ た る 歴 史 の 激 し い 浮 沈 に も 耐 え て 奇 跡 の よ う に 生 き 続 け て い る 。
東 西 交 流 と 西 欧 型 修 道 院 の 発 展
西 ヨ ー ロ ッ パ に 修 道 生 活 の 手 本 を 提 供 し た の も エ ジ プ ト と パ レ ス テ ィ ナ で あ っ た 。 イ タ リ ア で は ロ ー マ と ミ ラ ノ , 南 フ ラ ン ス で は ト ゥ ー ロ ン の 南 東 の イ エ ー ル 島 や そ の 東 方 の レ ラ ン ス 島 , ロ ア ー ル 川 中 流 の ト ゥ ー ル 付 近 , そ れ に は る か 遠 く の ア イ ル ラ ン ド , こ れ ら が 最 も 早 く 修 道 集 落 の で き た 所 で あ る 。 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス は ロ ー マ と ミ ラ ノ で 見 聞 し た 修 道 生 活 を ア フ リ カ の ヒ ッ ポ に 持 ち 帰 り , こ こ に 建 て た 修 道 院 の た め に ︿ ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス 会 則 ﹀ を 作 成 し た と い わ れ る 。 レ ラ ン ス 島 は ロ ー ヌ 川 流 域 の 修 道 院 の 源 と な り , ト ゥ ー ル に 修 道 院 を 開 い た マ ル テ ィ ヌ ス は フ ラ ン ク 王 国 の 守 護 聖 人 と さ れ , イ タ リ ア や ガ リ ア に 新 設 さ れ た 多 数 の 修 道 院 も 彼 の 名 を 冠 し た 。 ア イ ル ラ ン ド の 修 道 院 は 東 方 か ら 伝 え ら れ た 文 化 遺 産 を た い せ つ に 保 存 し , ︿ 学 者 の 島 ﹀ と 賞 賛 さ れ る と と も に , そ の 修 道 士 た ち は 6 世 紀 末 か ら ガ リ ア に リ ュ ク ス イ ー ユ を 初 め と す る 多 数 の 修 道 院 を 建 設 し た 。 ス イ ス の 有 名 な ザ ン ク ト ・ ガ レ ン 修 道 院 も そ の 一 つ で あ る が , ア ル プ ス 以 北 で は 一 時 こ の ケ ル ト 系 修 道 院 が 一 世 を 風 靡 ︵ ふ う び ︶ し た 。 し か し 学 問 を 愛 し た 修 道 士 は 彼 ら だ け で は な い 。 ゴ ー ト 戦 役 ︵ 5 3 5 - 5 5 3 ︶ の さ な か の 5 4 0 年 こ ろ 東 ゴ ー ト 王 国 の 高 官 の 地 位 を 捨 て た ロ ー マ 人 カ ッ シ オ ド ル ス が 南 イ タ リ ア に 建 て た ウ ィ ウ ァ リ ウ ム V i v a r i u m 修 道 院 は そ の 豊 富 な 図 書 と 整 備 さ れ た 図 書 管 理 に よ っ て , 以 後 の 西 欧 に お け る 修 道 院 図 書 館 の 手 本 と な り , 文 化 の 保 存 と 伝 承 に 大 き な 役 割 を 果 た し た 。 イ タ リ ア で は そ れ 以 上 に 後 々 ま で 強 い 影 響 力 を 及 ぼ す 修 道 院 が そ の 少 し 前 の 4 2 9 年 こ ろ に 建 て ら れ た 。 モ ン テ ・ カ ッ シ ノ 修 道 院 で あ る 。 そ れ を 開 設 し た ヌ ル シ ア の ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス が こ こ で 執 筆 し た ︿ ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 会 則 ﹀ は 後 の 西 欧 の ほ と ん ど の 観 想 修 道 院 で 遵 奉 さ れ る こ と に な っ た の で , ︿ 西 欧 修 道 制 の マ グ ナ ・ カ ル タ ﹀ と 別 称 さ れ る ほ ど で あ る 。 も ち ろ ん こ の 会 則 は 古 来 の 多 く の 修 道 規 定 を 参 照 し て は い る が , い た ず ら に 厳 格 な 苦 行 を 要 求 せ ず , 中 庸 の 精 神 で 一 貫 し , 労 働 を 重 視 し て 経 済 的 自 立 を 確 保 さ せ , 修 道 院 の 運 営 を 機 能 化 し , 当 時 の 農 業 社 会 に そ れ を 適 応 さ せ る な ど , 西 欧 独 自 の 修 道 精 神 が い た る と こ ろ に 発 揮 さ れ て お り , 東 方 起 源 の 修 道 院 は こ の 会 則 に よ っ て 初 め て 西 欧 的 形 態 を 確 立 し た と い え よ う 。
修 道 院 の 生 活
こ の 会 則 に よ っ て 当 時 の 修 道 院 の 生 活 を 再 現 し て み る と 次 の よ う で あ る 。 1 年 は 夏 期 と 冬 期 に 分 け ら れ , 夏 期 は 復 活 祭 か ら ロ ー マ 暦 10 月 1 日 前 日 , す な わ ち 9 月 14 日 ま で , 冬 期 は そ れ 以 後 四 旬 節 ま で で あ る 。 夏 期 と 冬 期 の 間 に は 四 旬 節 と い う キ リ ス ト の 荒 野 に お け る 40 日 間 の 苦 行 を 記 念 す る 特 別 期 間 が 置 か れ て い る 。 1 日 の 生 活 は , 昼 と 夜 を そ れ ぞ れ 12 区 分 し た 時 間 に も と づ き , 1 日 8 回 の 聖 務 日 課 ︵ 時 課 ︶ , す な わ ち 暁 課 , 朝 課 , 一 時 課 , 三 時 課 , 六 時 課 , 九 時 課 , 晩 課 , 終 課 が 定 め ら れ て い る 。 一 時 課 と は 昼 の 第 一 時 に 始 ま る 日 課 を い う 。 聖 務 日 課 は 1 年 を 通 じ て 変 わ ら な い が , 修 道 士 の 1 日 は 冬 と 夏 と で は 起 床 か ら 就 寝 ま で の 実 際 の 時 刻 に か な り の 相 違 が あ っ た 。 昼 の 長 い 6 月 半 ば で は 午 前 1 時 こ ろ , そ の 他 の 時 期 で も 午 前 2 時 半 こ ろ に は 起 床 し , 最 初 の 聖 務 日 課 で あ る 暁 課 を 勤 め る 。 ︽ 詩 篇 ︾ や 聖 書 お よ び 教 父 の 著 作 か ら の 聖 句 が 読 み 上 げ ら れ る 。 暁 課 と 朝 課 と の 間 は 読 書 に 当 て ら れ る が , 夏 期 に は 短 い 休 息 が 与 え ら れ る 。 朝 課 は 6 月 で あ れ ば 2 時 15 分 こ ろ , 12 月 で あ れ ば 5 時 45 分 こ ろ か ら 始 ま る 。 朝 課 の 後 は 集 会 ︵ カ ピ ト ゥ ル ム ︶ が 行 わ れ , 殉 教 者 伝 や ︿ ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 会 則 ﹀ の 一 部 が 読 み 上 げ ら れ る 。 こ の 集 会 で は そ の 日 の 行 事 が 修 道 院 か ら 伝 達 さ れ た り , 規 則 違 反 の 修 道 士 が 処 罰 さ れ た り す る 。 一 時 課 に は 三 つ の ︽ 詩 篇 ︾ , 賛 美 歌 , 唱 和 用 聖 句 を 歌 う が , こ れ は 三 , 六 , 九 時 課 に も 共 通 し て い る 。 一 時 課 か ら 第 四 時 ま で 労 働 , 以 後 第 六 時 ま で 読 書 を す る 。 第 六 時 ︵ 夏 期 は 正 午 ︶ に そ の 日 最 初 の 食 事 を と る 。 食 事 は 2 皿 で , 果 物 か 野 菜 が あ れ ば そ れ を 加 え て 3 皿 と な る 。 そ れ に パ ン 1 ポ ン ド , ブ ド ウ 酒 1 / 4 リ ッ ト ル と い う た い へ ん 質 素 な も の で あ る 。 食 後 , 夏 期 に は 午 睡 の 時 間 が 設 け ら れ , 各 自 ベ ッ ド で 休 息 す る 。 第 九 時 か ら 晩 課 ま で 再 び 労 働 す る 。 夏 期 に は 晩 課 の 直 前 に 第 2 回 目 の 食 事 が 出 る が , 冬 期 の 食 事 は 第 六 時 ︵ 冬 期 は 14 時 40 分 こ ろ ︶ の 1 回 だ け で あ る 。 晩 課 に は 四 つ の ︽ 詩 篇 ︾ , 終 課 に は 三 つ の ︽ 詩 篇 ︾ が 歌 わ れ , そ の 後 修 道 士 た ち は 修 道 院 長 の 祝 福 を 受 け 共 同 の 寝 室 へ 向 か い , す ぐ 床 に つ く 。 着 の み 着 の ま ま で あ る 。 労 働 時 間 は 1 日 6 ~ 8 時 間 で 農 耕 , 植 物 栽 培 の よ う な 戸 外 作 業 だ け で な く , 製 粉 , パ ン 焼 き , 台 所 作 業 , 筆 耕 , 掃 除 , 病 人 看 護 な ど も あ っ た 。
シ ト ー 会 と フ ラ ン シ ス コ 会 に よ る 革 新
︿ ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 会 則 ﹀ は カ ロ リ ン グ 時 代 に は 広 く 普 及 し た が , 当 時 の 修 道 院 は 西 欧 最 初 の 文 化 創 造 運 動 で あ る カ ロ リ ン グ ・ ル ネ サ ン ス に も 促 進 的 役 割 を 果 た し た 。 9 世 紀 か ら 10 世 紀 に ノ ル マ ン 人 ︵ バ イ キ ン グ ︶ , マ ジ ャ ー ル 人 , イ ス ラ ム 教 徒 の 攻 撃 で 荒 廃 し た 修 道 院 は , ク リ ュ ニ ー 修 道 院 や ロ ー ト リ ン ゲ ン 地 方 の 修 道 院 改 革 に よ っ て 再 び 活 性 化 し , 11 世 紀 後 半 の グ レ ゴ リ ウ ス 改 革 に も 貢 献 し た が , 12 世 紀 以 降 は 修 道 形 態 そ の も の を 革 新 す る 。 い わ ゆ る ︿ 新 修 道 会 ﹀ の 誕 生 で あ る 。 各 修 道 院 の 自 律 性 を 尊 重 し な が ら も 修 道 会 を 有 機 的 に 組 織 化 し , 経 済 活 動 に も 抜 群 の 能 力 と 成 果 を 発 揮 し た シ ト ー 会 修 道 院 , 異 端 の 激 発 す る な か で 民 衆 説 教 の な か に 新 し い 活 動 領 域 を 求 め た プ レ モ ン ト レ 会 , ド ミ ニ コ 会 , フ ラ ン シ ス コ 会 の 修 道 院 が そ れ で あ る 。 シ ト ー 会 修 道 院 は , 建 築 様 式 に お い て も そ の 厳 し い 禁 欲 的 修 道 精 神 を そ の ま ま 形 象 化 し て 建 築 史 に 一 時 代 を 画 し た が , フ ラ ン シ ス コ 会 の 清 貧 ぶ り は さ ら に 徹 底 し て い た 。 フ ラ ン シ ス コ 会 と ド ミ ニ コ 会 と は 托 鉢 修 道 会 と も 呼 ば れ る が , そ れ は , も っ ぱ ら 信 者 の 喜 捨 に よ っ て 使 徒 的 生 活 を 旨 と し て い た こ と に よ る 。 フ ラ ン シ ス コ 会 の 創 設 者 ア ッ シ ジ の フ ラ ン チ ェ ス コ が , そ の ︿ 遺 言 書 ﹀ の な か で ︿ 修 道 士 の 家 は す べ て 木 と 泥 で 建 て ら れ ね ば な ら な い ﹀ と い っ た よ う に , 当 初 彼 ら の 修 道 院 は こ の 通 り の 小 屋 で あ っ た 。
近 代 に お け る 修 道 理 念
中 世 末 か ら 近 代 に か け て 修 道 精 神 は 激 変 の う ち に 転 生 す る 。 ト マ ス ・ ア ・ ケ ン ピ ス の い た ア グ ネ テ ン ベ ル ク 修 道 院 と 同 様 , フ ロ ー テ の 創 設 し た ︿ 共 同 生 活 兄 弟 会 ﹀ に 属 し た 約 50 の 修 道 院 は , ネ ー デ ル ラ ン ト と ド イ ツ に ︿ 新 し い 信 仰 D e v o t i o m o d e r n a ﹀ と 呼 ば れ る 敬 虔 主 義 的 運 動 を 民 衆 の 間 に も 広 め る し , イ タ リ ア で は , 従 来 の 観 想 修 道 院 が 托 鉢 修 道 会 の 組 織 を 採 り 入 れ た ︿ 修 族 c o n g r e g a t i o m o n a s t i c a ﹀ と い う 新 し い 修 道 組 織 に よ っ て 新 生 す る 。 15 世 紀 か ら 16 世 紀 に か け て イ タ リ ア に は た く さ ん の 兄 弟 会 が 結 成 さ れ , そ の な か か ら 1 5 2 4 年 に は テ ア テ ィ ノ 修 道 会 が 生 ま れ , そ の 4 年 後 に は フ ラ ン シ ス コ 会 の 改 革 を 目 ざ し た カ プ チ ン 会 も 創 設 さ れ た 。 ︿ 信 仰 の み に よ っ て 義 と さ れ る ﹀ と い う ル タ ー の 宗 教 改 革 は , 清 貧 や 貞 節 に よ っ て 義 と さ れ る 修 道 院 の 存 在 を 無 意 味 と し た た め に , ド イ ツ で も イ ン グ ラ ン ド で も プ ロ テ ス タ ン ト 諸 国 の 修 道 院 は ほ と ん ど 解 散 さ せ ら れ た が , こ れ ら の 諸 国 で も 修 道 士 の 倫 理 は ︿ 世 俗 内 禁 欲 ﹀ の 精 神 と し て 生 き 続 け た 。 そ れ ば か り で な く , 16 世 紀 は イ エ ズ ス 会 と い う 新 し い 形 の 伝 道 の 修 道 会 を 生 み , 他 の 托 鉢 修 道 士 と と も に 世 界 各 地 に 修 道 理 念 を 再 生 し た 。 わ れ わ れ が キ リ シ タ ン ・ バ テ レ ン と 呼 ぶ 彼 ら の 活 動 は 東 洋 や 日 本 の 歴 史 に も 深 い 刻 印 を 残 し た 。 ベ ル ギ ー の イ エ ズ ス 会 士 ボ ラ ン ド ゥ ス J . B o l l a n d u s ︵ 1 5 9 6 - 1 6 6 5 ︶ が 17 世 紀 中 期 に 始 め た 古 文 書 編 纂 事 業 は , 同 じ こ ろ パ リ の サ ン ・ ジ ェ ル マ ン ・ デ ・ プ レ 修 道 院 を 中 心 と す る サ ン ・ モ ー ル 修 道 会 と そ の 代 表 者 マ ビ ヨ ン の 古 文 書 の 収 集 と 批 判 と 並 ん で , 史 料 批 判 の 方 法 を 確 立 し て 近 代 歴 史 学 の 基 礎 を 築 く と い う 偉 大 な 役 割 を も 果 た し た 。 こ れ も 諸 修 族 の 学 問 研 究 熱 の 伝 統 を 継 承 し た 結 果 で あ ろ う 。
19 世 紀 の カ ト リ シ ズ ム 復 興 の な か で , プ ロ テ ス タ ン ト の 国 イ ン グ ラ ン ド で 起 こ っ た オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 は 結 果 的 に は 国 教 徒 に 修 道 生 活 へ の 関 心 を 呼 び 起 こ し , こ の 世 紀 の 半 ば か ら 特 に 女 子 修 道 会 を 続 々 と 誕 生 さ せ た し , 男 子 の 観 想 修 道 院 も 数 は 少 な い が , 20 世 紀 に 入 っ て か ら 国 教 会 内 で 公 認 さ れ る に い た っ た 。 ま た フ ラ ン ス の テ ゼ ー の 修 道 院 は プ ロ テ ス タ ン ト の 修 道 集 落 と し て 特 に 注 目 を 引 い て い る 。 カ ト リ ッ ク 側 で も ピ ウ ス 12 世 以 後 , 特 に 第 2 バ チ カ ン 公 会 議 を 通 じ て , 修 道 生 活 の 現 代 化 に 努 力 を 重 ね て い る が , フ ー コ ー C . E . d e F o u c a u l d ︵ 1 8 5 8 - 1 9 1 6 ︶ の 衣 鉢 を 継 い だ ︿ イ エ ズ ス の 小 さ き 兄 弟 ・ 姉 妹 会 ﹀ の 会 員 た ち は 観 想 と 福 音 伝 道 と 労 働 と を 混 然 と 一 体 化 し て 活 動 し な が ら , 世 界 中 で 共 鳴 者 を 得 つ つ , 現 代 に お け る 修 道 生 活 再 生 の た め の 最 上 の 証 ︵ あ か し ︶ を 示 し 続 け て い る 。 修 道 に よ る 霊 性 の よ み が え り は 砂 漠 の よ う な 現 代 に と っ て , 人 々 の 大 き な 救 い と 希 望 と な り つ つ あ る 。
執 筆 者 ‥ 今 野 國 雄
修 道 院 建 築
修 道 院 建 築 m o n a s t i c a r c h i t e c t u r e と は , 修 道 院 長 の も と で 共 同 生 活 を 営 む 修 道 士 の た め の 建 築 を い い , 聖 堂 ︵ 教 会 堂 ︶ , 集 会 室 , 大 食 堂 , 回 廊 , 寝 室 な ど か ら な る 修 道 生 活 の 基 本 区 域 と , 院 長 室 , 応 接 室 , 客 室 な ど 半 ば 開 放 さ れ た 準 基 本 区 域 で 構 成 さ れ る 。 18 世 紀 ま で は し ば し ば 修 道 士 の 物 的 生 活 を 支 え る た め の 業 務 を 行 う 大 き な 世 俗 区 域 ︵ 菜 園 な ど ︶ を 伴 っ て い た 。
東 方
修 道 院 は エ ジ プ ト と シ リ ア で 始 ま り , 4 世 紀 末 に ロ ー マ 帝 国 東 部 全 土 に 設 け ら れ た 。 初 期 の 形 式 は 地 域 に よ り 多 様 だ が , 各 地 域 内 で は 共 通 す る 形 式 が あ っ た と い わ れ る 。 エ ジ プ ト で は 聖 堂 に 接 し て 食 堂 , 厨 房 , 居 室 な ど を 連 続 的 に 配 置 し , 全 体 を 強 大 な 周 壁 で か こ む 。 シ リ ア 北 部 で は 修 道 院 の 入 口 付 近 に 聖 堂 と 二 階 建 て の 大 広 間 , 奥 ま っ た と こ ろ に 修 道 士 の 居 室 を お き , 全 体 と し て ほ ぼ 回 廊 を か こ む 形 と す る 。 北 ア フ リ カ に は 敷 地 中 央 に 聖 堂 , そ の 外 壁 に そ っ て 修 道 士 の 居 室 , 別 棟 で 大 食 堂 を 造 り , 庭 園 , 墓 地 を 含 む 敷 地 全 体 を 周 壁 で か こ ん だ 廃 墟 が の こ る 。 東 方 正 教 会 の 修 道 院 は 周 壁 を め ぐ ら し た 敷 地 の 中 央 に 聖 堂 を お き , そ の 正 面 側 の 周 壁 に よ せ か け て 大 食 堂 と 厨 房 , そ の ほ か の 周 壁 に よ せ か け て 集 会 室 , 居 室 , 作 業 室 な ど を 造 る 。 こ の 形 式 は 6 世 紀 に さ か の ぼ る と い わ れ る が , 19 世 紀 の 修 道 院 で も 採 用 さ れ て い る 。
西 方
東 方 と 北 ア フ リ カ か ら 導 入 さ れ て 4 世 紀 末 に す で に 修 道 院 が 造 ら れ た ら し い が , 活 発 に 建 設 さ れ た の は 7 世 紀 か ら で , カ ロ リ ン グ 朝 期 に は か な り の 規 模 の も の が 1 2 0 0 以 上 も あ っ た と い わ れ る 。 当 時 の 修 道 院 の よ う す を 全 体 と し て 伝 え る 遺 構 は な い が , 8 2 0 年 こ ろ の 修 道 院 計 画 図 が ザ ン ク ト ・ ガ レ ン 修 道 院 図 書 館 に の こ る 。 数 十 名 か ら 数 百 名 に 及 ぶ 多 数 の 人 々 が 自 給 生 活 を 営 む 修 道 院 は 困 難 な 設 計 課 題 だ が , 当 時 す で に 合 理 的 に 解 決 さ れ て い た こ と が こ の 計 画 図 か ら 知 ら れ る 。 回 廊 を 核 と す る 基 本 区 域 を 中 央 に お き , そ の 外 側 に 聖 堂 に 近 接 し て 院 長 居 館 , 客 舎 , 学 校 , 施 療 院 , 修 練 士 居 室 な ど の 準 基 本 区 域 , 聖 堂 か ら 遠 い 外 周 に 鶏 舎 , 粉 挽 所 , 製 パ ン 室 , 菜 園 な ど の 世 俗 区 域 を 配 置 す る こ の 計 画 方 法 は , そ の 後 の 修 道 院 の 基 本 と な っ た 。 し か し 都 市 に 住 み , 主 と し て 民 衆 教 化 の 説 教 と 学 術 研 究 を 行 う 托 鉢 修 道 会 は , 市 民 の 協 力 で 修 道 院 を 造 っ た の で 世 俗 区 域 を ほ と ん ど 設 け ず , ま た 従 来 の 大 寝 室 に 代 わ っ て 個 室 を 用 い た 。 托 鉢 修 道 会 は 信 徒 に よ る 一 部 の 基 本 区 域 や 図 書 室 , 病 院 の 利 用 , 修 道 院 で の 短 期 間 の 生 活 を 認 め た の で , 新 し い 用 途 の 部 屋 が 必 要 と な り , 複 数 の 回 廊 を 設 け て こ れ を 配 置 し た 。 イ エ ズ ス 会 を 中 心 と し て 近 世 の 修 道 院 は , 聖 堂 を 新 し い 様 式 に 改 装 し , 回 廊 の 三 方 を め ぐ る 建 物 を 邸 宅 風 に 整 備 し た が , 政 治 的 介 入 が 強 ま っ た た め 17 ~ 18 世 紀 の 修 道 院 建 築 は 振 る わ な か っ た 。 し か し 中 世 以 来 の 体 制 を 保 っ て い た オ ー ス ト リ ア , ス イ ス , 南 ド イ ツ な ど の 修 道 院 で は , 基 本 区 域 , 準 基 本 区 域 を 中 心 に 全 体 を 構 成 し , 院 長 を 君 主 と す る 修 道 院 都 市 の 統 治 の 象 徴 と し て , 壮 麗 な バ ロ ッ ク 修 道 院 を 完 成 し た 。 啓 蒙 主 義 と フ ラ ン ス 革 命 に よ り , 18 世 紀 後 半 か ら 19 世 紀 に 大 部 分 の 修 道 院 が 一 時 閉 鎖 さ れ た が , 現 在 で は 多 数 が 再 開 。 し か し 新 築 は 少 な く , ま た 修 道 会 の 別 に よ る 建 築 形 式 の 相 違 も な く な っ た と い わ れ る 。
執 筆 者 ‥ 飯 田 喜 四 郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」 改訂新版 世界大百科事典について 情報
修道院(しゅうどういん) monastery
共 同 生 活 に よ っ て 修 行 す る 修 道 士 , 修 道 女 の 集 ま り 。 自 己 の 救 霊 と 完 徳 を 願 う 者 の 修 道 の 場 と い う 広 い 意 味 で は , 仏 教 , ヒ ン ド ゥ ー 教 , ユ ダ ヤ 教 に も 存 在 す る が , キ リ ス ト 教 で は エ ジ プ ト の ア ン ト ニ ウ ス ( 2 5 1 ~ 3 5 6 ) や パ コ ミ ウ ス ( 2 9 0 ~ 3 4 6 ) が 創 始 者 と さ れ る 。 東 方 で は バ シ レ イ オ ス ( 3 2 9 ~ 3 7 9 ) や テ オ ド ル ス ( 7 6 9 ~ 8 2 6 ) の 戒 律 が 基 準 と な り , 西 欧 で は ア タ ナ シ ウ ス , マ ル テ ィ ヌ ス , コ ル ン バ ヌ ス ら が 各 地 に 伝 え る が , 西 ヨ ー ロ ッ パ 独 自 の 永 続 的 な 基 本 形 態 を 確 立 す る の は モ ン テ ・ カ ッ シ ー ノ の 修 道 院 長 ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス で あ る 。 清 貧 , 貞 潔 , 服 従 の 3 徳 目 を 誓 願 し , 定 め ら れ た 聖 務 日 課 を 遵 守 し つ つ 自 活 す る 修 道 士 は こ こ で , ヴ ィ ヴ ァ リ ウ ス 修 道 院 , ザ ン ク ト ・ ガ レ ン 修 道 院 , フ ル ダ 修 道 院 に み ら れ る よ う に , 伝 道 , 芸 文 , 経 済 活 動 の 第 一 級 の 担 い 手 と な る 。 10 世 紀 の 政 治 的 混 迷 の な か で , ゴ ル ツ ェ や ク リ ュ ニ ー 修 道 院 運 動 は 聖 俗 両 界 を 刷 新 し て 西 ヨ ー ロ ッ パ 社 会 を 覚 醒 さ せ る が , 11 世 紀 末 か ら シ ト ー 修 道 会 は ほ ぼ 全 ヨ ー ロ ッ パ に 盛 ん な 農 業 活 動 を 展 開 し て , つ づ く プ レ モ ン ト レ 修 道 会 な ど の 模 範 と な る 。 13 世 紀 に 出 現 す る フ ラ ン チ ェ ス コ 修 道 会 , ド ミ ニ コ 修 道 会 で は , 托 鉢 ( た く は つ ) 修 道 会 の 移 動 説 教 活 動 の た め 修 道 院 の 意 義 は 後 退 す る が , 異 端 と の 闘 い や 学 問 研 究 に 長 く 消 え ざ る 功 績 を 残 し た 。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」 山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
大学事典
「修道院」の解説
修道院 しゅうどういん
キ リ ス ト 教 に お い て 修 道 者 ︵ 修 道 士 ・ 修 道 女 ︶ が 共 同 生 活 を 営 む 場 。 修 道 者 と は , 神 の み に 従 う 生 涯 を 実 践 す る た め に ﹁ 清 貧 ・ 貞 潔 ・ 従 順 ﹂ の 三 つ の 誓 い を 立 て , 世 俗 を 離 れ た 生 活 を 送 る 者 で あ り , そ の 共 同 体 が 修 道 会 と 呼 ば れ る 。 西 欧 で は 古 代 末 期 か ら 中 世 前 半 に か け て , 人 里 離 れ た 山 野 に 居 住 し , 農 耕 や 手 作 業 を 行 っ て 自 給 自 足 の 共 同 生 活 を 送 る 大 修 道 院 制 が 発 達 し た ︵ ベ ネ デ ィ ク ト 会 な ど ︶ 。 ま た , 西 ロ ー マ 帝 国 の 崩 壊 後 は , 学 問 教 育 や 生 活 技 術 を 中 世 に 伝 え る 役 割 も 果 た し た 。 大 学 誕 生 以 前 の 11 ~ 12 世 紀 に は , 修 道 院 は 学 問 の 重 要 な 拠 点 の 一 つ で あ っ た ︵ ベ ッ ク , サ ン ・ ヴ ィ ク ト ー ル な ど ︶ 。 13 世 紀 に 誕 生 し た フ ラ ン シ ス コ 会 や ド ミ ニ コ 会 な ど の 托 鉢 修 道 会 は 宣 教 活 動 や 学 問 の 拠 点 と し て 都 市 に 修 道 院 を 設 け た 。 そ の 学 問 的 生 活 共 同 体 は 欧 米 の 大 学 の 学 寮 ︵ c o l l e g e ︶ の 伝 統 の 一 つ の 起 源 と な っ て い る 。 欧 米 の 伝 統 的 な 大 学 が 回 廊 式 の 建 築 を 有 す る の も , 修 道 院 建 築 に 起 源 が あ る 。
著 者 : 加 藤 和 哉
出典 平凡社「大学事典」 大学事典について 情報
修道院 しゅうどういん monasterium; monastery
公認されたキリスト教の修道生活を共同でおくる人々の住居,またはそのなかでの生活をさす日本での総称。いわゆる修道生活は 1000年以上の歴史を通じて多様に発展したものであるから,もともと全部の居住形態を総括する語はない。ローマ教会法では monasterium (ベネディクト会など) と domus religiosa (monasterium以外) との区別がある。一般の名称としては abbatia (司教から独立した自治権をもつ大修道院長をいただくもの) ,claustrum (回廊のあるもの) ,conventum (フランシスコ会など 13世紀頃以降のもの) ,communitas (マリア会など現代のもの) などが用いられ,すべて修道院と訳される。ときに monasteryは男子の修道院についてのみ用いられ,女子修道院は conventと呼ぶことがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
修道院【しゅうどういん】
キリスト教会において修道士,修道女が共同生活をする場所。英語でmonastery。abbey(大修道院),priory(小修道院),convent(托鉢修道士または近代以降の修道女の居所)などの別がある。修道会 によって共同生活等に関する会則が異なる。アントニウスの独住を経て,4世紀初頭にエジプトのパコミウス〔290ころ-346〕が共住の修道生活を始めたのが起源とされる。〈祈りと労働〉がその生活の基本。東方,西方ともに長い歴史を有し,学術文化上の貢献のみならず,時に政治的勢力として史上に果たした役割は計り知れない。
出典 株式会社平凡社 百科事典マイペディアについて 情報
修道院 しゅうどういん monastery
厳格な戒律の下に,信仰修行と労働に励む修道僧が共同生活を営む場所 修道会によって会則は異なる。東方に起源をもつといわれ,特にカトリック教会において発達した。西欧では6世紀初めのモンテ−カシノのベネディクト修道会が最初。クリュニー修道院・シトー派修道会・フランチェスコ修道会・ドミニコ修道会などが名高く,教会刷新・民衆教化・古典文化保存などに大きな役割を果たした。
出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の 修道院の言及
【学校建築】より
… 近 代 以 前 の 学 校 は , 大 学 を 除 け ば , 多 く は 他 施 設 ( 教 会 や 修 道 院 , 王 宮 , 兵 営 な ど ) に 付 随 し , 独 立 し た 場 合 で も , 他 用 途 の 建 物 を 転 用 す る か そ の 形 式 や 手 法 を 借 用 し て 造 ら れ た も の が 多 か っ た 。
︻ ヨ ー ロ ッ パ に お け る 変 遷 ︼
古 代 の 建 築 で 学 校 と し て 用 い ら れ た も の に は , ギ リ シ ア や ロ ー マ な ど で パ ラ エ ス ト ラ p a l a e s t r a あ る い は ギ ュ ム ナ シ ウ ム g y m n a s i u m ( と も に ラ テ ン 語 ) と 呼 ば れ た も の が あ る 。 …
【教会堂建築】より
…キリスト教建築は,教会堂(聖堂),洗礼堂,記念堂(マルティリウム),墓廟,修道院,学校などからなるが,教会堂建築はその中核をなすものである。本項ではローマ・カトリック教会とギリシア正教会の教会堂を中心に,その変遷を概観する。…
【刑務所】より
…この懲治場は各地に広がったが,やがて軽罪者をも収容し,上述の牢獄とも融合しつつ刑事施設化していった。一方,刑罰としての拘禁は,13世紀ごろから,教会裁判での有罪者に対して用いられており,宗教裁判の隆盛とともに拡大していったが,修道院を拘禁場所とするものも多かった。また,ロンドン塔やバスティーユなど城塞を使っての国事犯拘禁もみられた。…
【酒】より
…後世,ケルト人の酒としてわれわれが享受するのはスコットランドの辺境に伝承されたウィスキーで,これはまた大麦の酒を蒸留するという技術において,イベリア半島を通じて伝播したイスラム文化の恩恵を受けている。 ゲルマン人の大移動が始まる4世紀後半までに,ヨーロッパのブドウ栽培は今日の北限をはるかに越える地域に及んだが,ここにゲルマン人が定住すると,古代ローマの文化は各地の修道院に継承,温存され,それを取り囲むようにしてゲルマン的有畜農耕文化が展開する。中世農業革命とも称される[三圃制](さんぽせい)農業の成立が,醸造原料としての大麦の調達を容易にした。…
【都市】より
… そ し て そ う し た 都 市 の 成 立 に は , 集 落 史 的 に み て , お よ そ 次 の 三 つ の 異 な っ た 機 能 を も つ 先 駆 的 形 態 に 依 存 し た も の が 圧 倒 的 に 多 い 。 そ の 一 つ は 防 備 の 施 設 で あ る 城 砦 ( ブ ル ク ) で あ り , 次 は 宗 教 の 中 心 で あ る 教 会 , 修 道 院 あ る い は 北 欧 古 来 の 神 殿 で あ り , い ま 一 つ は ラ テ ン 語 で エ ン ポ リ ウ ム e m p o r i u m と 呼 ば れ た 市 ︵ い ち ︶ の 開 催 地 で あ る 。 こ の 三 つ は 西 ヨ ー ロ ッ パ の 全 域 に す で に 初 期 中 世 か ら 存 在 し た も の で あ る が , そ れ が 11 世 紀 以 降 の 中 世 都 市 の 成 立 に よ り , 都 市 そ の も の が 具 備 す る 3 機 能 と し て 合 体 し た と 考 え て よ い 。 …
【ビザンティン帝国】より
…それに代わって,ビザンティン帝国最後の300年には,西ヨーロッパの封建制の特色と類似した次のような,政治的,社会的,経済的現象が現れ,それをめぐって学界ではビザンティン封建制論争が起こった。その現象とは,(1)特定区域の徴税権を移譲された[プロノイア]保有者,大行政地域をそこでの国家高権と一括して下賜された地方行政長官,その所領について不輸不入の特権を与えられた修道院,(2)皇帝に特別の私的誓約を行い,奉仕の代償として,皇帝からの一定の反対給付にあずかる家人(オイケイオイ)団,(3)大所領の隷属農民(パロイコイ),の登場である。これらの類似点は,しかしながら,歴史における合流現象convergenceではあっても,ビザンティン帝国と西ヨーロッパとが〈発展段階説〉上の同一発展段階に所属したことの表れと解釈することは,両者の歴史上の出発点,そしてまた帰着点の基本的差異にかんがみ,おそらく成り立たないであろう。…
【もてなし】より
…これらの施設は12世紀のアングロ・ノルマンの侵入とともに衰退した。アイルランド,スコットランドは教会,修道院が旅客専用の建物tech‐óiged(tech=taigeは〈家〉,óigedは〈客〉の意)をもって見知らぬ旅人に食事とベッドを供したが,これも16世紀にヘンリー8世の修道院領没収によって終わった。 ホスピタリティにあたるドイツ語Gastfreundschaftが示すようにゲルマン人の客もてなしは名高い。…
※「修道院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」