デジタル大辞泉
「六義園」の意味・読み・例文・類語
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りくぎ‐えん‥ヱン【六義園】
(一)( 園名は、賦・比・興・風・雅・頌(しょう)をいう和歌の六義による庭園配置から ) 東京都文京区本駒込六丁目にある都立の庭園。元祿一五年︵一七〇二︶完成の柳沢吉保の下屋敷の庭で、中央に池・中島を配した池泉回遊式庭園。明治初期に岩崎家の所有となり、昭和一三年︵一九三八︶東京市に寄付。もとは現在の三倍近い広さであった。特別名勝。
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六義園
りくぎえん
[現在地名]文京区本駒込六丁目
柳沢吉保が別邸︵幕末には大和郡山藩下屋敷︶に設けた庭園。当地は五代将軍徳川綱吉に側用人として重用された柳沢吉保が、元禄八年︵一六九五︶に拝領した︵徳川実紀︶。吉保は拝領から約七年の歳月をかけて別邸と庭園を作り、園名を六義園、邸宅を六義館と名付けた。六義とは﹁古今集﹂の序文で中国の詩の分類法に準じて記された和歌の分類法である。
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六義園 (りくぎえん)
東京都文京区本駒込6丁目にある回遊式の庭園。柳沢吉保の下屋敷跡。将軍徳川綱吉より1695年︵元禄8︶当時の染井村駒込に4万7000坪の地を与えられた吉保が7ヵ年余をかけて完成し,彼みずから園名を六義園︵むくさのその︶,屋形を六義館︵むくさのたち︶と名付けた。︽古今集︾の序にある和歌の六義にのっとった命名で,吉保自撰の園記にあるように,和歌浦のすぐれた名所を写し,︿和歌﹀にちなんで︽万葉集︾︽古今集︾などの歌枕や歌意より園景に88境を作っている。千川上水から水を引いて園の中央に大池を開いて二つの大きい中島を築き︵蓬萊島と称する岩島は明治に設けたもの︶,諸国の名石を集め,贅を尽くした回遊式の大名庭︵だいみようにわ︶である。北の大中島築山の頂上は園池の俯瞰によく,富士山や筑波山の展望台でもあった。1878年岩崎弥太郎の所有となり,1938年東京市に寄贈され公開された。当初より敷地が狭くなったが庭園の主要部分はよく伝えられ,約10万m2のうち6万2700m2が特別名勝に指定されている。
執筆者‥村岡 正
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六義園
りくぎえん
東京都文京区本駒込(ほんこまごめ)6丁目にあり、回遊式築山(つきやま)泉水の名園。1695年︵元禄8︶老中柳沢吉保(よしやす)が5代将軍徳川綱吉(つなよし)から中屋敷として拝領した駒込染井村の地に、別業と庭園をつくったのに始まる。1701年11月に綱吉を園に招いているから、すでにそのころ完成していたと考えられる。名称は、中国の﹃詩経﹄大序にある詩の分類法の六義にちなみ、吉保自身の命名したもの。彼の没後荒廃していたが、明治初年に三菱(みつびし)の岩崎弥太郎(やたろう)が別邸として復旧、1938年︵昭和13︶岩崎家から東京市に寄贈され、現在に至る。特別名勝で、総面積は約8万7800平方メートル。大池泉に中島を大きくつくり、巨石で蓬莱石組(ほうらいいわぐみ)を構成、さらに岩島をつくり、池畔にはアシを繁茂させているが、護岸石組はほとんどなく、自然主義的である。これは、和歌に熱中した吉保の、歌に詠まれた景観からの意匠である。また、大築山の山畔は自然の深山を思わせるもので、ここに巨大な滝石組をこしらえ、豊かに水を流し落とす。その流れには多数の石を用いて、深い渓谷の様相を表現、本園中のもっとも優れた局部的景観となっている。
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六義園【りくぎえん】
東京都文京区本駒込にある東京都の庭園︵特別名勝︶。1702年完成の柳沢吉保の下屋敷跡。回遊式庭園で,和歌の六義にのっとって造園したという。明治初年,岩崎弥太郎の所有となり,1938年東京市に寄付。面積約10万m2。
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六義園
りくぎえん
東京都文京区本駒込にある名園。柳沢吉保の下屋敷の庭として元禄 15 (1702) 年に造られ,千川上水から水を引いた池を中心にした約8万 7800m2の回遊式築山池泉庭園。徳川5代将軍綱吉もしばしば遊んだという。明治になって岩崎弥太郎の所有となり,1938年に東京市が寄贈を受け,現在は都立公園として公開されている。
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世界大百科事典(旧版)内の六義園の言及
【庭園】より
…まるみのある石が好んで使われたのはこのころである。18世紀初期,柳沢吉保がつくった江戸の[六義園]︵りくぎえん︶は,和歌趣味にあふれた,明るい庭として有名であり,岡山の茶屋屋敷の庭(現在,岡山後楽園という)も芝生を主とした庭である。四国の高松にある栗林荘︵りつりんそう︶もやはり大名の別荘である([栗林公園])。…
【柳沢吉保】より
…1701年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の偏諱︵へんき︶を与えられ,保明は吉保,その子安貞は吉里と改めた。04年(宝永1)には従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐15万石に封ぜられ,甲府城主となったが,09年綱吉が死去し,その甥家宣が6代将軍に就任すると,吉保は隠居して保山元養と号し,1714年駒込の別荘六義園で死去した。吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの寵愛によるものであったから,吉保は悪らつな策謀家であるとの風評が︽護国女太平記︾などによって広く流布しているが,彼はさほどの悪人ではなく,むしろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であったといえよう。…
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