デジタル大辞泉
「名誉革命」の意味・読み・例文・類語
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めいよ‐かくめい【名誉革命】
- ( [英語] Glorious Revolution の訳語 ) イギリスの市民革命(一六八八‐八九)。王政復古後、ジェームズ二世の国王大権の濫用とカトリック復興政策に対して、議会が王を追い、王の長女メアリー二世とその夫オレンジ公ウィリアム三世を共同統治者にした革命。王は権利の宣言を認め、権利の章典として制定した。議会主権に基づく立憲王政を樹立した革命で、流血を見なかったところからの呼称。
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名誉革命 (めいよかくめい)
Glorious Revolution
1688-89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。
王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。結局この法案は成立せず,85年ジェームズ2世が即位した。その直後,これに反対して前王の庶子モンマス公が反乱を起こしたが,支配階層は動かず,あえなく鎮圧された。国王はこの反乱に対して︿血の巡回裁判﹀と呼ばれる極刑をもって臨み,議会を休会し,審査法を無視してカトリック教徒を文武の官吏に登用,ロンドン周辺には国民の嫌う常備軍を配置し,宗教裁判所を復活させた。さらに前王に引き続き87年と88年の再度にわたって︿信仰自由宣言﹀を発した。この宣言は,信仰の自由の口実のもとにカトリックの復活を図ろうとするもので,しかも88年の宣言は教会における朗読が命じられた。カンタベリー大主教ら7人の国教会高位聖職者が反対の請願を行うと,国王は7人を逮捕して裁判にかけた。このような専制に対する反感が高まった88年6月,旧教徒の王妃が皇太子を産んだ。王位は新教徒の長女メアリーに継承されるという国民の期待は裏切られ,カトリック復帰への危惧が強まった。この高位聖職者逮捕と皇太子誕生という二つの事件を契機に,これまで対立し合っていたトーリー,ホイッグ両党間に和解の気運が生まれ,7人の主教が無罪の判決をうけて釈放された同月末,両党指導者は協議のうえ,オランダ総督オラニエ公ウィレムに向けて,武装援助を請う招請状を発した。彼は当時,ルイ14世のカトリック的侵略政策に対抗する新教側の事実上のリーダーであった。3ヵ月後,ウィレムは︿プロテスタントの宗教とイギリス王国の法と自由﹀を守るために遠征する決意を発表し,11月約1万5000の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸した。ロンドンに向けてただちに進撃せずに国王軍の自壊を待つ作戦をとると,貴族は相ついでウィレムのもとに集まり,迎撃するはずの将軍マールバラ公も寝返り,王の次女アンも義兄の側に走った。戦意を喪失したジェームズ2世は,王妃と皇太子をフランスに逃がしたのち,一時捕らえられるが,12月ウィレムがロンドンに入った直後にフランスに逃亡した。
89年1月に開会された仮議会では,この事態をいかに説明するかをめぐってトーリー,ホイッグ両党間で意見の対立がみられ,妥協案としてイギリス人の︿古来の権利と自由﹀を宣言することになった。これが︿権利宣言Declaration of Rights﹀であって,89年2月,オラニエ公とメアリーはこれを承認し,共同統治者︵ウィリアム3世ならびにメアリー2世︶として王位につき,ここに名誉革命がなった。仮議会は正式の議会となり,先の︿権利宣言﹀を︿臣民の権利および自由を宣言し,王位継承を定める法﹀,通称︿権利章典﹀として制定。ついで寛容法も制定され,国教会を体制教会としながらもプロテスタント非国教徒にも信仰の自由が認められた。
なお,スコットランドにおいてはジェームズ2世を支持するジャコバイトの勢力が強く,名誉革命を承認する議会とジャコバイトの間で武力抗争が行われた。一方,アイルランドではジェームズ2世の逃亡後,プロテスタント地域の解放を求める蜂起があり,それに呼応してジェームズ2世はフランスの援助のもとに89年3月ダブリンに入った。ウィリアム3世はこの事態を放置せず,みずから兵を率いて遠征し,7月ボイン川の戦闘でジェームズ2世の軍隊を破った。これ以後,アイルランドにおける土地の収奪とカトリック弾圧がピューリタン革命期のクロムウェルの征服にもまして徹底的に推進され,これが今日の︿アイルランド問題﹀の原点となった。
名誉革命は17世紀初頭以来の国王と議会の対立に終止符を打ち,︿議会における国王﹀に主権が存在するという中世以来の伝統的な国制を守りながらも,議会制定法の優越する議会主権体制の基礎を固めた点にその意義が認められる。この成果がほぼ無血のうちに達成された点を評価して,︿名誉﹀革命とする評価がイギリスにおいては定着しているが,逆にこれを単なる君主の交代にすぎないとする評価もある。しかしこの革命の真の意義は,前のピューリタン革命と関連づけて把握されねばならないであろう。すなわち,王政復古体制がけっしてピューリタン革命前の旧制度の全面的な復活を意味しはしなかったのに,後期スチュアート朝の2人の国王が革命の教訓を忘れて絶対主義の復活を図ったことから名誉革命が起こったのである。したがってピューリタン革命の成果が,王政復古体制を経て名誉革命によって守りぬかれ,かつ補強されている点を逸してはなるまい。とりわけ,ピューリタン革命中に後見裁判所の廃止によって実現した,土地に対する私有財産権の法的確立が,資本主義的な生産様式の発展に適合的な社会をつくりだすことに大きく寄与した点を高く評価しなければならない。17世紀のイギリスにおける二つの革命︵ピューリタン革命と名誉革命︶を世界で最も早い時期にたたかわれたブルジョア革命とみるのは,この意味においてである。
二つの革命はいずれも議会を中心にして貴族・ジェントリーのレベルでたたかわれ,歴史的な権利の回復の要求を基調とした。ことに名誉革命に至る過程においては,︿40年代の恐怖﹀すなわち民衆蜂起による革命の急進化を恐れた支配階層が,民衆の政治関与を徹底的に排除したのが注目される。これが,スコットランドとアイルランドを除いて,革命を︿無血﹀のうちに遂行するのを可能にし,︿名誉﹀革命たらしめた最大の理由である。したがって,名誉革命が樹立した体制下にあって,議会とくに下院の占める地位は著しく向上したものの,国王とその大権は否定されず,また選挙権の拡大などの議会改革は行われず,それが古い貴族寡頭支配の体質を温存させることになった。しかし,名誉革命後も大土地所有者の手に政治権力は掌握されつづけたものの,彼らは外国貿易に従事する大商人たちと手を結んで,植民地帝国の建設を推進し,工業化の前提条件を整えていった。
執筆者‥今井 宏
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名誉革命
めいよかくめい
Glorious Revolution
1688年に起こったイギリスの革命。流血をみなかったためにこの名がある。1685年即位したジェームズ2世︵在位1685~88︶は旧教徒で、露骨な旧教復活政策と専制主義を強行しようとした。たとえば、審査法を無視して旧教徒を文武の官吏に登用し、国民の嫌う常備軍を設置しようと試み、一部の法律を無効にしようとたくらみ、87年と88年には、先王に続いて、信仰自由宣言を発した。この宣言は信仰の自由の名のもとに旧教を復活させようとするもので、しかも88年のものは教会で読み上げることを命じていた。そのためカンタベリー大主教はじめ7人の主教が反対請願を行うと、王は彼らを投獄し、裁判にかけた。
こうした専制に対して国民の不満が高まったが、それを表面化させるに至ったきっかけは王子の出生であった。そもそもジェームズには男子がなく、王位は彼の長女で新教徒のメアリーが継承するものと考えられていた。ところが、1688年6月、55歳の王に王子が生まれ、次の治世に旧教政策が改められる望みは消えた。そこで、議会のトーリー、ホイッグ両党指導者が協議のうえ、7主教が無罪の評決を受けた6月末、オランダにいるメアリーの夫オレンジ公︵オラニエ公︶ウィリアム︵ウィレム︶に対し、イギリス人の自由と権利を守るため、兵を率いて来英するよう、招請状を送った。これにこたえて、11月、ウィリアムは1万3000人の兵を率いてイギリス南西部のブリクサムに上陸し、ロンドン目ざして東進した。北部では、これに呼応して反乱が起こり、貴族その他は相次いで彼のもとに馳(は)せ参じ、王が迎撃に差し向けたチャーチル︵後のモールブラ公︶も寝返り、王の次女アン︵後の女王︶も義兄の側に走った。ここにおいて王もついに亡命を決意し、王妃と王子をフランスに逃がしたあと、自らも脱出を図り、いったんは失敗したが、12月ウィリアムがロンドンに入った直後、フランスに逃れた。
翌1689年1月仮議会が招集され、2月初めメアリーがオランダから到着した。仮議会は両人に﹁権利宣言﹂を提出し、両人はこれを認めたうえで、ウィリアム3世、メアリー2世として共同で王位についた。﹁権利宣言﹂はのちに﹁権利章典﹂として再認されたが、同章典の原則にみられるように、この革命は17世紀における王権と議会の抗争に決着をつけ、議会政治発達の基礎を定めたもので、イギリス史上に大きな意義をもつ。
﹇松村 赳﹈
﹃トレヴェリアン著、松村赳訳﹃イングランド革命﹄︵1978・みすず書房︶﹄▽﹃浜林正夫著﹃イギリス名誉革命史﹄上下︵1981、83・未来社︶﹄
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名誉革命
めいよかくめい
Glorious Revolution
され,オランニェ公ウィレム (ウィリアム3世 ) と妃メアリー (メアリー2世 ) が王位についたが,流血をみずに達成されたためこの名で呼ばれた。85年即位したジェームズ2世は,審査法の適用免除により旧教徒を官職に登用し,信仰自由宣言を発して日曜日にそれを説教壇で朗読することを強制するなど,カトリック政策を推し進めたため,国民の不満は高まった。88年6月七主教裁判事件と皇太子で,のち大王位僭称者と呼ばれた J.F.E.スチュアートの誕生を契機にトーリー,ホイッグ両党間の提携が成立,国王の長女でプロテスタントのメアリーとその夫オランダ総督ウィレムに救援の招請状が発せられた。11月兵を率いたウィレムはトーベイに上陸。国民すべてが離反したのを知ったジェームズは王妃,皇太子に続いてみずからもフランスに亡命した。翌年1月仮議会はウィレムとメアリーを共同統治者に推し,即位の条件として﹁権利宣言﹂を提出した。2人はそれに署名して即位し,議会はあらためてそれを権利章典として制定。こうして17世紀における議会と国王の対立に終止符が打たれ,議会主権体制建設の出発点が固まった。
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名誉革命(めいよかくめい)
Glorious Revolution
1688~89年に起こったイングランドの革命。ジェームズ2世の国王大権の乱用とカトリック支持の姿勢が国民の不安を高めていた時点で,皇太子誕生の知らせがあり,議会のトーリ党,ホイッグ党の両派が提携して,国王の長女メアリ(メアリ2世)とその夫でオランダ総督オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に武装援助を要請。1688年11月イングランドに上陸したウィレムに対してジェームズは抵抗できずに亡命。議会はメアリ2世とウィリアム3世の両人を共同君主とすることにし,二人は議会の提出した権利の宣言を認めて89年2月即位,その後,権利の宣言をもとに権利の章典を制定し,立憲君主制の基礎を固めた。この革命がイングランド国内では無血のうちに達成されたのをうけて,この呼称で呼ばれるようになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
名誉革命
めいよかくめい
Glorious Revolution
1688年から89年にかけて行われた,イギリスの市民革命
流血を伴ったピューリタン革命に対して,無血革命であったことから,この名がある。王政復古後,チャールズ2世・ジェームズ2世の専制政治に苦しんだ議会は,結束してジェームズ2世の娘メアリ2世とその夫オランダ総督オラニエ公ウィレムを王位に迎え,無血の政変を成功させた。ウィレム夫妻は共同統治者として,1689年2月権利の宣言を承認し,同年12月に権利の章典として発布,ここに立憲君主政治が確立した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の名誉革命の言及
【イギリス】より
…それ以前のイギリスは,ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎず,大陸諸国の圧力のもとで国民国家としての自立の道を模索していた。17世紀のイギリス革命([ピューリタン革命]と[名誉革命])を契機にして,イギリスはそれまでの大陸諸国に︿学ぶ﹀立場から,模範として︿学ばれる﹀立場に変わった。日本がイギリスとの本格的な交渉を開始した時点が,ビクトリア女王のもとでイギリスが最も隆盛を謳歌した時期であったことが,日本のイギリス像に影を落としつづけたといえよう。…
【オラニエ=ナッサウ家】より
…17世紀中葉,オランダの国力,経済,文化は絶頂に達し,オラニエ=ナッサウ家はヨーロッパ諸国の王室,大貴族と姻戚関係を結び,ハーグにある総督官邸は宮廷のような栄光につつまれた。フレデリック・ヘンドリックの孫ウィレム3世(在位1672‐1702)はフランス軍のオランダ侵略(1672)を撃退して名をあげたが,1688年妻のメアリー・スチュアートとともにイギリスに迎えられ,共同統治者として国王[ウィリアム3世]となり(名誉革命),オランダ諸州の総督を兼ねた。ウィリアムが子なくして没すると,分家ナッサウ=ディーツNassau‐Dietz家のヨハン・ウィレム・フリーソJohan Willem Friso(1687‐1711)が跡を継ぎ,その子ウィレム4世は1747年,共和国7州の総督に就任した(‐1751)。…
【権利章典】より
…1688年12月,国王ジェームズ2世が国外に逃亡したあとをうけて,翌年1月召集された仮議会は,王国の状況を説明するための決議を行い,さらにオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に改革要求を提出することにし,〈古来の自由と権利を擁護し,主張するため〉の宣言を行った。これが〈権利宣言Declaration of Rights〉であり,オラニエ公ウィレムと妃のメアリーはこれに署名して共同統治者として即位し,ここに[名誉革命]が成就した。この〈権利宣言〉にもとづき,同年12月に制定されたのが〈権利章典〉である。…
【ジャコバイト】より
…[名誉革命](1688‐89)によってイギリス国王ジェームズ2世が事実上退位を強制され,フランスへ亡命した後も,引き続き同王とその直系の子孫を正統な君主として支持した人々。ジェームズのラテン語形Jacobusにちなみジャコバイトと呼ばれた。…
【トーリー党】より
…その有力な支持基盤は在地の地主層とロンドンの特権商人層で,宗教的には英国国教会の支持者であった。 1685年に即位したジェームズ2世が公然とカトリックに改宗し,フランスの支援を得て専制政治の復活を企てると,トーリー党も国王支持を断念,ホイッグ党と結んでオランダのオラニエ公ウィレム招聘に踏み切り,両者の協力の下に名誉革命を成功させた。しかし,オラニエ公をウィリアム3世として即位させることには抵抗を示し,これを摂政にとどめようとしたが失敗。…
【ホイッグ党】より
…宗教的には英国国教会の中のリベラルな層と非国教徒を含み,政治的には共和主義者をも含むが,中心は制限王政論者である。 1688年の名誉革命は[トーリー党]の協力を得て成功したものの,基本的にはホイッグ路線の勝利を意味した。とくに,血統による王位継承という原理を否定し,議会の決定によってウィリアム3世を即位させたということは,ホイッグの主張する社会契約論の実践ともいいうるものである。…
【マグナ・カルタ】より
…むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。…
※「名誉革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」