イギリス史(読み)いぎりすし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス史」の意味・わかりやすい解説

イギリス史
いぎりすし

イギリス史の特色と時代区分


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先史時代とケルト・ローマ時代

先史時代

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ケルト・ローマ時代のブリタニア

前1000年ごろから大陸ではケルト人が鉄器文明を生み出したが、前600年ごろと前400年ごろにケルト人がイギリスにも渡来して、優秀な陶器や青銅器、鉄器を伝えた。彼らは森林の開墾や農耕技術を発展させ、そのため人口も増加したが、また丘陵上に城塞(じょうさい)を築き、鉄製の武器を用いた。ケルト人渡来の最後の波は前75年ごろのベルガエ人で、彼らはすでにローマ文明と接触しており、南イギリスにベルガエ人の国家を建設して貨幣を使い始めた。ガリア遠征中のローマの将軍カエサルが、前55年、前54年の2回にわたりイギリスのベルガエ人討伐を企てたが、所期の目的を果たさなかった。このころベルガエ人は、ローマ人によりブリタニ人Britanni(英語名ブリトン人Britons)とよばれていたところから、イギリスはブリタニアBritanniaとよばれるようになった。

 ローマの本格的な支配は、紀元後43年クラウディウス1世により行われ、ブリタニアはローマのプロウィンキア(属州)となった。78年総督となったアグリコラによってブリタニア経営が安定し、地租や貢納を徴収する組織も確立した。122~127年にタイン川河畔にハドリアヌス帝の長城が築かれ、北辺の防衛と関税の徴発にあたったが、142~143年にさらに北方にアントニヌス・ピウス帝の長城が築かれて防衛を強化した。その間、各地にローマ風の都市が建設され、軍事、産業用の道路も敷かれたが、ローマ文明はケルト人、ブリトン人の生活に深く浸透しえず、4世紀に入るとローマはゲルマン民族の侵入に苦しみ、ブリタニアの防衛も手薄になり、5世紀初めにはローマ軍は引き揚げた。

[富沢霊岸]

アングロ・サクソン時代

アングロ・サクソン人の移住

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ヘプターキーとイングランド統一

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デーン朝とノルマン・コンクェスト

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中世盛期のイングランド

ノルマン朝

懺悔王の後継約束を果たしたウィリアムは、1066年末ロンドンで戴冠(たいかん)式をあげてウィリアム1世(征服王、在位1066~1087)となり、ノルマン朝を開いたが、これ以後イギリスはずっと異民族王朝の支配を受けることとなる。ウィリアム1世は、内外の危機に備えて、聖俗界貴族領のすべてに一定数の騎士軍を提供させる軍役を賦課して軍事的封建制を確立した。1086年末に全国の所領を調査した『ドゥームズデー・ブック』を編纂(へんさん)させたが、このことは、同年8月ソールズベリーにおいて全貴族から忠誠の誓約をとったことと相まって、彼の強力な中央集権制を物語るものである。彼の死後、長男ロバートRobert(ノルマンディー公。1054?―1134)、三男ウィリアム(ウィリアム2世、在位1087~1100)、四男ヘンリー(ヘンリー1世、在位1100~1135)たちの間で陰惨な後継争いが行われたが、結局ヘンリー1世がイングランドとノルマンディーとの統一支配に成功した。王は、最高法官ロージャーRoger of Salisbury(?―1139)を起用して財政、行政を整備し、全国巡回裁判官を任命して裁判権の集中に努めた。しかし晩年は不幸で、王子ウィリアムを海難事故で失い、ドイツ皇帝に嫁していた娘マティルダMatilda(1102―1167)も未亡人として帰国してきた。王の死後、彼の甥(おい)のスティーブンStephen(1097?―1154)がイングランド王に選立された(在位1135~1154)。しかし、アンジュー伯に再婚していたマティルダの挑戦があり、イングランドは内乱状態となった。十数年に及ぶ内乱のなかで、貴族は大いにその権勢を伸展させたが、安定した統一王権を求める期待もようやく高まり、マティルダの子ヘンリーがスティーブン王側と講和して、スティーブン王の死後ヘンリー2世(在位1154~1189)として即位した。

[富沢霊岸]

アンジュー帝国、プランタジネット朝と「マグナ・カルタ」

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百年戦争の開始と農民一揆

エドワード2世(在位1307~1327)は寵臣(ちょうしん)に頼る専制が目だち、スコットランド戦争にも惨敗を喫して貴族らの批判を受けていたが、イギリスのガスコーニュ領有に関して渡仏して折衝にあたっていた王妃イサベラIsabella(1292―1358)が、兄のフランス王シャルル4世の援助を受けて王への反抗を決意し、ロンドン市民の援助を得て王を追い、皇太子をエドワード3世(在位1327~1377)として即位させた。エドワード3世はガスコーニュ領有などの問題をめぐってフランス王フィリップ6世と対立するや、彼の母を通じたフランス王位継承権を主張して、1337年百年戦争に突入した。この戦争は長い休戦期間を含む戦争となったが、王は、治安判事制を発展させて戦争遂行を口実に王権を強化した。しかし、当時は、ようやく封建貴族領の農奴制経営が行き詰まり、逆に14世紀なかばの黒死病(ペスト)の流行による農民人口の減少のため、農民の社会的地位が高まりつつあった。そのなかでエドワード3世が死去し、四男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが長兄の黒太子エドワードの遺子リチャード2世(在位1377~1399)を擁立して独裁した。1381年、過重な人頭税徴収を契機に、南東イングランドに、ワット・タイラーに指導された農民一揆(いっき)が起こり、ロンドンは騒擾(そうじょう)のるつぼと化した。一揆はほどなく収拾されたが、その後、王は自信を得て専制したため、ジョン・オブ・ゴーントの子ヘンリーが貴族を集めて挙兵して王を退位させ、ヘンリー4世(在位1399~1413)として即位し、ランカスター朝を開いた。

[富沢霊岸]

封建社会の展開

ノルマン・コンクェスト以後各地に封建所領が急速に発展した。封建所領を構成する単位は荘園(マナー)で、貴族は多くの荘園を領有する領主で、騎士はわずかの荘園を領有する領主であった。荘園農民のなかには、金納地代を納めて土地保有する自由農民もいたが、大部分は賦役奉仕を負って土地保有する農奴であった。しかし12、13世紀の生産力の増大とともに各地に商工業都市や地方市場が発達し、荘園農民のなかには経営規模を拡大、発展させ、農奴身分からの解放を求めて荘園領主の支配に反抗する者も現れた。また、都市においては有力な商工業者がギルドを結成して自治権と自由な営業権を王や貴族から得ていたが、ギルドの内部では親方の規制が強かった。しかし14世紀ごろになると、農村に毛織物工業を主とする農村工業が発展し、古いギルド規制を嫌う人々が農村に出て自由に毛織物工業をおこして都市のギルドの生産と競うようになり、また農村工業は農民の副業となって彼らの経済力をいっそう強めることとなった。こうして14世紀以後は農村における荘園領主支配、都市におけるギルド支配はしだいに崩れてくる。

[富沢霊岸]

百年戦争の終結とばら戦争

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絶対王政と市民革命

チューダー朝の成立

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スチュアート朝とピューリタン革命

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王政復古

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名誉革命

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議会政治の形成と産業革命

ハノーバー朝と議院内閣制

アン女王の没後、ドイツ系のジョージ1世(在位1714~1727)が王位を継いでハノーバー朝を開いた。この時代は、名誉革命体制を肉づけし、二大政党による議会政治や議院内閣制が、試行錯誤のなかからしだいに定着してゆく時期であり、それらの推進役として地主層が実権を握った地主王政ともいうべき時期でもあった。ジョージ1世とその子ジョージ2世(在位1727~1760)との治世およそ半世紀間は、ホイッグ党の全盛期で、とくに約20年間政権を担当したウォルポールのもとで内閣制度が形をなしていった。彼の平和政策は、オーストリア継承戦争(1740~1748)への参戦で破綻(はたん)し、まもなく下野したが、イギリスはこの戦争でも、続く七年戦争(1756~1763)でも、つねにフランスの敵となって、いわゆる「第二次百年戦争」を展開、植民地でも北アメリカやインドで戦い、カナダとミシシッピ川以東を獲得して、大植民地帝国と海上覇権の基礎を確立した。ジョージ3世(在位1760~1820)の治世の多くはトーリー党が優勢であったが、当時は議会政治がまだ試行錯誤する形成期で、買収は日常茶飯事であったから、王は議員を買収して内閣を籠絡(ろうらく)し、国政を牛耳(ぎゅうじ)ろうと試みた。その結果、1770年代に北アメリカ植民地の反乱、ついには合衆国の独立を招いた。しかし、合衆国承認直後から20年近く国政を指導した小ピットは、トーリー党を近代的政党に脱皮させるとともに、対仏大同盟を主導してナポレオン1世の脅威に対抗し、ネルソンやウェリントンらの活躍によってイギリスはついにその脅威を退けた。

[松村 赳]

産業革命と自由主義

ジョージ3世の治世はまた産業革命の進展した時期とも重なっていた。新興の綿工業から始まった技術革新は、石炭、鉄その他の広範な工業分野に及び、蒸気機関の発明や鉄道の普及と相まってイギリスの工業力を飛躍的に高めた。一方、農業においても第二次囲い込み運動(エンクロージャー)によって中世以来の開放耕地が消え、地主の営利主義的農業経営が進んだ。

 こうして工業においても農業においても資本主義化が実現したが、それに伴ってさまざまな社会上の問題が起こり、各種の社会改革が行われた。まず、イギリスの工業力が強まるにつれて、スミスやリカードが唱えた自由主義経済が有力になり、1840年代には穀物法や航海法も廃止された。他方、営利主義的な経営は労働者の酷使を一般化し、これに対してオーエンらの人道主義的な運動が起こるとともに、労働者自身も労働組合を結成し、団結して待遇改善を要求するようになり、工場法、十時間労働法などが制定された。また、工業化とともに進出してきた産業資本家などの中産層は政治への発言権を求め、その結果、1832年に選挙法が改正されたが、これに取り残された労働者はチャーティスト運動を起こし、直接の成果には結び付かなかったものの、結局は選挙法の第2回(1867)、第3回(1884)の改正によって、彼らにも選挙権が与えられた。

 このように自由主義的改革が次々と積極的に進められていたころにビクトリア女王(在位1837~1901)が即位したが、19世紀後半の二十数年間、イギリスはまさに「黄金時代」を謳歌(おうか)した。拡大された選挙権に基づいて、トーリー党とホイッグ党との後身である保守党と自由党とが覇を競い、自由党優勢のうちに政党政治がさらに発展した。1851年にはロンドンで最初の万国博覧会が開かれ、「世界の工場」イギリスの工業力を世界に誇示したが、その実力を背景に、アヘン戦争(1840~1842)、アロー戦争(1856~1860)などを通じて中国に進出し、また「インドの大反乱」(セポイの反乱、1857~1859)を機にインドを完全に植民地化するなど、七つの海を制する大植民地帝国の繁栄はいや増した。

[松村 赳]

大植民地帝国から連邦へ

帝国主義と第一次世界大戦

1870年代になると、ビクトリア時代の繁栄にも大きな転換期が訪れた。19世紀初頭以来イギリスは工業の最先進国であり、十分な意味で資本主義国とよべるのはイギリスだけであったが、このころになると、アメリカ、ドイツその他の国々も工業化を進めて資本主義国となり、イギリスに迫ってきた。いわゆる帝国主義時代の到来である。イギリスは、従来のような独走態勢が許されなくなって慢性的不況に陥り、改めて植民地の重要性が痛感された。インドは、ビクトリア女王を皇帝とするインド帝国に再編されたほか、これまで無視されてきたアフリカにも触手を伸ばし、スエズ運河株式会社の株の買収を機にエジプトを保護下に置き、その南のスーダンからケープ・タウンに至る三C政策の実現を図り、世紀の変わり目にはブーア戦争(1899~1902)を起こして、まもなく南アフリカ連邦を築いた。その一方で白人植民地に対しては、自治領として帝国内につなぎ止める政策が進められ、1867年のカナダを皮切りに、20世紀に入って次々と自治領化し、1887年以来、植民地会議(のち帝国会議と改称)を開催して、それらと本国との結束を図った。イギリスでは、旧来の支配層であった地主も新興の実力者である産業資本家層も、その富を海外に投資する投資家階級になっていったため、彼らにとって植民地体制の維持、強化は至上命令であった。

 国内では、1860年代から1880年代なかばにかけて、グラッドストーンとディズレーリとが、それぞれ自由党と保守党を率いて交互に政権を担当し、典型的な二大政党制を実現したが、1880年代になると労働者にも選挙権が認められたこともあって、彼らとくに非熟練労働者の組織化が進み、これと社会主義団体フェビアン協会などが合流し、1900年に労働代表委員会が結成され、1906年には労働党と改称した。

 外交面では、帝国主義時代の新情勢、とくに新生ドイツ帝国との対抗から、1902年、伝統の「光栄ある孤立」を捨てて日英同盟を結び、続いてイギリス・フランス協商、イギリス・ロシア協商によって三国協商を形成し、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と対立した。その結果、第一次世界大戦(1914~1918)となり、イギリスは開戦翌年アスキスのもとに自由・保守・労働3党の連立内閣をつくったが、総力戦となったこの大戦に対処するには指導力が足りず、やがてロイド・ジョージが登場、強力な戦時内閣を組織し、ドイツの無制限潜水艦作戦による脅威を乗り切って勝利を迎えた。しかし、勝ったとはいえ、大戦はイギリスの社会に大きな影響を与えた。大戦が終わったとき、イギリスの国力、経済力は著しく低下していた。イギリスは、アメリカへの債務国になっており、世界金融の中心もロンバード街からウォール街に移って、その国際的地位や影響力は弱まった。他方、戦争によって植民地などの民族主義的独立運動が高まったが、これに対しては、アイルランドの復活祭(イースター)蜂起(ほうき)(1916)やインドのアムリッツァル事件(1919)にみられたような容赦ない武力弾圧を加え、その一方で、自治領の独立性を認めたうえで「イギリス連邦」としてつなぎ止めることに腐心し、1931年ウェストミンスター憲章が定められた。問題の多いアイルランドも、とりあえず自由国として(1922)連邦にとどめられた。

 社会的には、国民生活の多方面にわたる政府の指導、統制が強まり、また戦争遂行の大きな力になった労働者の立場は向上し、1925年ボールドウィン内閣の金本位制復帰による不況に対し、翌1926年炭鉱労働者を中心としてゼネストを決行するまでになった。それとともに自由党が衰退して労働党の勢いが伸び、1924年の一時的政権担当を経て、1929年には第一党としてマクドナルドが内閣を組織し、同年に襲った世界恐慌に対処することになった。

[松村 赳]

第二次世界大戦と戦後の諸問題

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サッチャー時代

1979年5月の総選挙において、保守党は、競争原理の導入による活性化を図ることを訴えて圧勝し、サッチャーがイギリスの歴史上最初の女性首相となった。サッチャーは「自助努力」を訴え、「強くて小さな政府」を看板にして、イギリスを社会主義的な福祉国家から自由主義経済国家に復帰させることに政策の主要な目標を置いた(サッチャリズム)。1982年4月に勃発(ぼっぱつ)したフォークランド紛争に勝利してサッチャーの人気は頂点に達した。1983年の総選挙の結果は、保守党が労働党に188議席の大差をつけて、第二次世界大戦後最大の圧倒的な勝利を収めた。第二次サッチャー内閣は、「イギリス病」の元凶とみなした労働組合、とりわけ炭鉱労組に対して攻撃の矢を向け、国内の生産性の低い炭鉱を閉鎖すると発表した。組合側も徹底抗戦を主張し、その結果生まれた激しい紛争は1年有余に及んだが、ついに政府側が勝ち、労働者は職場に復帰した。そして、「サッチャリズム」には全盛期が到来した。電信電話、ガス、航空機製造などの国有産業が民営化され、1987年度の国家財政はじつに18年ぶりで黒字になった。しかし国民の生活水準は向上したものの、失業率は依然として高率を続け、福祉や教育などの公共部門への支出は大幅に削減されたため、サッチャリズムは弱者の切捨て政策であるという批判の声が高まった。サッチャーは労働党急進派の拠点であった地方自治体に対しても改革のメスを入れ、1986年4月に大ロンドン市議会を廃止して、衝撃を与えた。1987年6月に総選挙に訴えたサッチャーは、労働党に大差をつけて347議席を獲得し、首相3選を果たした。当初は順調な出発かとみえたが、1989年以降はインフレの高進、ポンド安、国際収支の赤字拡大から経済状態が悪化し、国内、国外の両面において、サッチャーはしだいに孤立の度合いを深めていった。とりわけヨーロッパ統合が予想以上の速度で進展をみたのに対し、サッチャーは一貫して国家主権の尊重という姿勢を崩さず、政治的統合どころか通貨統合にも強く反対したため、EC加盟諸国との溝は深まり、ヨーロッパ議会の選挙でも労働党に敗れて、急速に支持率を低下させた。そのうえ、先の国民医療制度の改定に続いて、1990年4月、従来の固定資産に基づく地方税にかえて、すべての住民に均等課税する「コミュニティ・チャージ」を採用したことは、歴史上悪名高い「人頭税」の再現を思わせるとして反発を招き、反対運動は暴動の形をとることもあった。11月に行われた保守党の党首選挙に出馬したサッチャーは、過半数を確保したものの、再投票を余儀なくされて辞任し、かわって労働者階級出身のメージャーが保守党党首として組閣した。ここに11年余り続いたサッチャー時代もついに終わりを告げた。

[今井 宏]

労働党ブレア政権の誕生

メージャーはサッチャーよりは柔軟な姿勢を示しつつも、基本的な政策は前政権を継承したが、党内にはEC統合に批判的な勢力が依然として根強く存在し、経済の活性化にも難問が山積して失業率も好転しない状況のなかで、1992年4月の総選挙においては不利が予想されたが、かろうじて政権を維持することができた。翌1993年8月にはマーストリヒト(ヨーロッパ連合)条約の批准をかちえたものの、ヨーロッパ通貨統合には反対する声が強く、党内の分裂状況を克服することはできず、また数多くのスキャンダルによって支持者を失っていった。その間に野党の労働党は若い党首トニー・ブレアの下で「新しい労働党」を看板にして、従来の労働組合依存体質を改めて穏健な国民政党を目ざす改革が進められた。その結果、1997年5月に行われた総選挙においては、労働党が総議席数659のうち419議席を獲得するという圧倒的な勝利を収めて、18年間に及ぶ保守党支配に終止符を打ち、後任の首相に43歳の若さのブレアが就任した。ブレア政権はスコットランドとウェールズに対して住民投票を実施した。その結果を受けて大幅な権限を委譲し、1999年それぞれに独自の議会を設置して、「連合王国」の再編成にのりだした。また貴族院の世襲議員を一挙に削減する改革も断行した。その前年の1998年には大ロンドン市議会の復活と公選市長の是非を問う住民投票が実施され、賛成多数で可決された。これに伴い2000年5月には、市長選挙と市議会議員選挙が実施され、初の公選市長には下院議員ケン・リビングストンKen Livingstone(1945― )が当選した。サッチャー政権時代の1986年に廃止された大ロンドン市議会は、復活したのである。

 2001年6月の総選挙において労働党はふたたび圧勝したが、政権2期目においては2003年のイラク戦争およびその後の対応に対して国民から強い批判を受け、2005年の総選挙で過半数を獲得したものの大幅に議席数を減らした。ブレア政権は労働党として初めて3期連続で政権を握ったが、支持率が低迷、2006年の地方議会選挙にも大敗した。3期目においては北アイルランドの自治政府復活という成果をあげたが、党内の反対勢力より早期退陣を求める声が強く、ブレアは2007年5月に辞任を表明。同年6月24日の臨時党大会で後継党首に財務相のゴードン・ブラウンが選出された。ブレアは6月27日に任期を3年残して途中退陣し、ブラウンが首相に就任。ブレア政権は10年で幕を閉じ、ブラウン政権が発足したが、通貨統合への加盟問題、イギリス軍のイラク駐留問題など多くの課題をかかえている。

[今井 宏]

イギリス史の研究史

19世紀中葉の開国以来の日本人にとって、七つの海を制覇した大植民地帝国イギリスは、世界の最先進国として、脅威とともに憧憬(しょうけい)の対象でもあった。日本と同じようなこの小さな島国の富強のよってきたる原因を探ろうとする視角が、イギリス史をみる眼(め)をながく支配した。このことは、日本においてイギリス史の研究が本格的に展開し始めた第二次世界大戦後において、敗戦を通して日本の近代化のゆがみと遅れが痛感されたことによって、いっそう増幅されたといえる。そのため、イギリス史の主要な研究課題は、日本が経験しなかった市民革命に求められ、それの近代社会成立に果たした意義が強調された。17世紀に世界に先駆けて起こったイギリス市民革命の原因を問うという問題意識は、イギリスにおける封建社会とその解体過程に研究者の関心を集中させ、農村に展開した中産的生産者層に近代化の担い手をみいだす大塚久雄の業績を中心にして、イギリスの近代を「模範」とみるとらえ方が支配的になった。

 しかし、1960年代に入って、イギリスの国際的地位の低下と経済の停滞が紛れもない事実として意識されるにつれて、過去のイギリス像に対する批判と反省の声も高まり、イギリス近代社会を現代との関連において改めて問い直そうとする傾向が強くなった。そして、かつては経済史の研究が主流を占めていたのに対し、政治、思想、社会、文化史の領域でもしだいに研究が深められ、総合的なイギリス史像の探究が進められている。

[今井 宏]

『G・M・トレベリアン著、藤原浩・松浦高嶺・今井宏訳『イギリス社会史』全2巻(1973、1975・みすず書房)』『G・M・トレベリアン著、大野真弓監訳『イギリス史』全3巻(1974~1975・みすず書房)』『今井宏編『イギリス史2――近世』(1990・山川出版社)』『青山吉信編『イギリス史1――古代・中世』(1991・山川出版社)』『村岡健次・木畑洋一編『イギリス史3――近現代』(1991・山川出版社)』『青山吉信・今井宏編『新版 概説イギリス史――伝統的理解をこえて』(1991・有斐閣)』『今井宏著『ヒストリカル・ガイド イギリス』(1993・山川出版社)』『川北稔編『世界各国史11 イギリス史』新版(1998・山川出版社)』『岩井淳・指昭博編『イギリス史の新潮流――修正主義の近世史』(2000・彩流社)』『川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史――帝国=コモンウェルスのあゆみ』(2000・有斐閣)』『指昭博著『図説 イギリスの歴史』(2002・河出書房新社)』『ジェレミー・ブラック著、金原由紀子訳『図説 地図で見るイギリスの歴史――大航海時代から産業革命まで』(2003・原書房)』『W・A・スペック著、月森左知・水戸尚子訳『イギリスの歴史』(2004・創土社)』『アンドリュー・ローゼン著、川北稔訳『現代イギリス社会史――1950~2000』(2005・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イギリス史」の意味・わかりやすい解説

イギリス史
イギリスし
history of United Kingdom

 
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イギリス史
イギリスし
History of England

イギリスの哲学者デービッド・ヒュームの歴史書。6巻,1754~62年刊。カエサルのイギリス征服から名誉革命 (1688) までを扱っているが,出版は年代と逆に3回に分けて行われた。王党派的立場をとるが,ギボンの『ローマ帝国衰亡史』と並ぶ 18世紀啓蒙主義の代表的著作。

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世界大百科事典(旧版)内のイギリス史の言及

【マコーレー】より

…30年以降ホイッグ党所属の下院議員となり,自由主義的改革の雄弁で頭角を現し,34年インド総督参事会の立法委員としてインドに赴き,教育改革,刑法典の作成に尽力した。帰国後は陸相(1839‐41),主計総監(1846‐47)を務めたが,47年の総選挙に落選し,かねてから構想を練っていたイギリス史の叙述に専念した。翌年《イギリス史》全5巻(1848‐61)の最初の2巻を刊行。…

※「イギリス史」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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タコノキ

タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...

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