デジタル大辞泉
「四川省」の意味・読み・例文・類語
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しせん‐しょう‥シャウ【四川省】
(一)中国の省の一つ。長江上流の四川盆地とチベット高原東部からなる。省都は成都。地味豊かで水利に恵まれ、水田が多い。地下資源も豊富。大産業都市重慶がある。
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四川[省] (しせん)
Sì chuān shěng
中華人民共和国南西部にある省。略称は川,蜀︵しよく︶。面積48万8000km2,人口8235万︵2000︶。北は陝西,甘粛,青海の各省,西はチベット自治区,南は雲南,貴州,東は重慶の各省,直轄市と接する。12地区級市,4地区,3自治州からなり,さらにこれらが179県級行政地域︵34市轄区,18市,124県,3自治県︶に区分されている。省都は成都市。
自然
四川省はおおむね東部の四川盆地と西部の山地高原部に区分できる。四川盆地は大巴山,米倉山,青蔵高原辺縁部,大婁山,巫山などに囲まれた断層沈降盆地である。表層には紅色~紫色の砂岩,ケツ岩を母岩とする紫色土が広くおおうため︿紫色盆地﹀とよばれる。19世紀四川を調査したリヒトホーフェンは︿赤盆地Red Basin﹀と名づけている。肥力も高く,リンやカリウムなどが豊富にふくまれる。盆地東部は山地と盆地が交互にあらわれ,北東~南西走向の華瑩︵かえい︶山や鉄鳳山,方斗山などの平行山脈がならぶ。盆地中央にはなだらかな波状の丘陵がつづく。盆地西部,竜泉山と邛崍︵きようらい︶山などに囲まれた地域は成都平原で,扇状地が発達,岷江,沱江の水系や水路が縦横に走る。四川盆地の気候は,温暖湿潤で霧が発生しやすく,亜熱帯性の常緑広葉樹林帯が発達する。四川西部の山地高原の大部分は青蔵高原の南東部にあたる。北は岷山,アニェマチェン︵阿尼馬卿,積石︶,バインハル︵巴顔喀拉︶の各山脈が横たわり,西は金沙江の縦谷でくぎられる。高原部は開析,破砕がすすみ,起伏が大きく,広義の︿横断山脈﹀に属する。沙魯里山や大雪山脈,邛崍山などの間を金沙江や長江︵揚子江︶支流の無量河や雅礱︵がろう︶江などがほぼ南北に流れ,下流では深い峡谷をつくっている。谷地と山嶺との高度差は1000~3000mもあり,亜熱帯から氷雪帯までの気候の変化がみられ,植生の垂直成帯性も明瞭である。
大雪山脈は氷河の発達した折多山や白鶴山など20余の高峰群からなる。主峰はコンカ︵貢嘎︶山すなわちミニヤ・コンカで,標高7556m,横断山脈中の最高峰であるとともに四川省内の最高峰でもある。北部の岷山は崑崙山脈の東支脈にあたり,岷江と嘉陵江の発源地で,北は黄土高原に連なり,南は湿地帯のひろがる松潘︵しようはん︶草地となる。高原部と四川盆地との境には峨嵋山があり,標高3099m,山中には70余の寺院があり,五台山,天台山などとならび中国仏教の聖地とされている。また,四川ではもっとも降水量が多く年間2000mmをこす。西部高原の南部は断層,陥没がはげしく,雅礱江,安寧江などの金沙江水系の河谷盆地が発達,四川盆地同様,紫色砂岩やケツ岩からなり,雲南中部高原につづく。チベット自治区との境界を南下した金沙江は,雲南との省境付近を曲折,南東の宜賓で四川盆地に入り狭義の長江となる。長江は盆地南部を東流,瀘州︵ろしゆう︶を通過,北東流して重慶市に入る。盆地内では岷江,沱江,嘉陵江などの長江の大支流が丘陵のあいだを蛇行,南流して長江と合流する。また,岷山山脈にある平武県はパンダの生息地の一つで,王朗自然保護区が設置されている。
歴史
四川盆地の沱江中流部,資陽県黄鱔渓︵こうぜんけい︶では,1951年,人類の頭骨の化石が出土した。のち,その周辺から尖頭器などの石器が発見され,旧石器時代の︿資陽人﹀が確認された。西部高原の大渡河流域,漢源県富林鎮でも旧石器時代後期の石核や石片などの石器がみつかっている。その他,広漢市三星堆や成都市十二橋をはじめ,省内各地でいくつかの新石器,青銅器時代の遺跡が発見され,陶器,銅器,人骨などが出土している。歴史時代に入ると,四川省は肥沃な巴,蜀王国の地として発展する。ついで,北方の秦が南下し,戦国末には巴,蜀をおさえ,巴,蜀郡をおき,開発をすすめる。およそ紀元前250年ころ,成都平原の北西,灌県の岷江では︿都江堰︵とこうえん︶﹀が築かれた。これは秦の蜀郡守であった李冰が息子李二郎とともに民衆を指導して建設したものである。灌県は岷江が邛崍山系から盆地に流れくだる扇頂の部分にあたり,洪水も多かった。そのため,岷江を︿都江魚嘴︵ぎよし︶﹀とよぶ調節堤で内江と外江に分け,内江は︿宝瓶口︵ほうへいこう︶﹀で流路を分流,成都平原では多数の用水路をつくり,灌漑網を完成させた。外江は岷江本流として水量を調節し,洪水防止の役割を果たさせた。また,航運も可能となった。なお,都江堰の名は,岷江を都江または大江とよんだ宋に始まり,秦・漢代のものは記録になく,晋・北魏の都安堰,唐の揵尾堰︵けんびえん︶などいくつか伝わっている。
このころから,漢水方面から漢人が四川盆地に入り,人口も増加した。漢代には益州が置かれ,巴,蜀,犍為︵けんい︶,広漢などの各郡が設けられた。ただ,漢の勢力が及んだのは現四川省では四川盆地および南西部までで,西部高原の雅礱江や大渡河,金沙江の上流部は西羌︵せいきよう︶,白狼夷︵はくろうい︶の地であった。当時,黄河水系渭水盆地がもっとも開けており,漢中から北の秦嶺を越える︿桟道﹀の一つ,渭水と漢水とを結ぶ︿褒斜︵ほうしや︶道﹀も開通,河底を深く掘削できなかったため,水路は利用不可能であったが陸路は完成した。後漢には嘉陵江上流,陝西南部の西漢水流域まで開発が及び,一部,航運が可能となった。そのため,四川からは先進地域渭水盆地との交流が活発となった。三国時代になると,劉備が蜀漢政権の要として成都に都を置き繁栄した。都江堰も改修され,農業や特産︿蜀錦﹀,農具製造などの重要な手工業が発展した。これはいわゆる︿三顧の礼﹀をつくして劉備が招いた湖北隆中の知将,諸葛亮︵孔明︶の,益州すなわち四川は豊かな国であるという献策が事実であったことを物語っている。古い巴の中心重慶もまた,長江中流部との交流の拠点としてさかえた。
三国の呉は建業すなわち現在の南京に国都を置き,長江の下流を開発,以後,6世紀に南朝がおわるまでに︿江南﹀は黄河流域と比肩できるほど発展するが,唐代には長江上流部もふたたび開発がすすめられる。益州は江南につぎ第2の地域とされ,その首都成都には府治も置かれた。さらに,益州には剣南道が設けられ,8世紀にはこれを二分し,岷江流域を西川,それ以東を東川とした。このころ,後漢時代に手がけられた嘉陵江の水利工事も再度おこなわれ,上流部の略陽より下流の航行が可能となった。一方,サトウキビから砂糖をとる方法も伝えられ,四川盆地中央部の沱江や涪江流域ではその栽培が盛んとなった。また,戦国時代の終りには利用されていた︿井塩﹀も唐代には採掘が本格化する。井塩は︿塩井﹀からくみあげた天然の鹹水を煮つめ結晶させたもので,現在の自貢市周辺で採取される塩である。最初,︿自流井﹀すなわち塩水が自然に流れでる井戸からとられたもので,のち,地名となった。また,塩井を利用するあいだに︿火井﹀すなわち天然ガスも発見され,井塩精製用の燃料として使用されてきた。明代の宋応星は︽天工開物︾で火井のことを︿実に奇妙なもので,火の姿がないのに火の力を使う。これは世の一大不思議である﹀と記している。また,多くの文化人や李白,杜甫などの詩人も渭水流域から離れ,この地に遊び,楽山や三峡,白帝城などの地で詩を残している。このように四川は,唐代には,︿天府の国﹀といわれた豊かな資源を生かして産業や文化に繁栄をみた。
唐末五代には,一時,後蜀が置かれ,陝西南部の漢水流域もその領域とされた。宋にはほぼ東川の地域が峡西路となり,11世紀の初めには,益州,梓州,夔州︵きしゆう︶,利州の川峡四路が置かれ,このことから,のち︿四川﹀とよばれるようになった。唐や後蜀の文化が受けつがれ,蘇軾︵そしよく︶や陸游などの詩人も四川各地で詩を詠んでいる。江南の経済的発展とともにさらに長江の開発がすすむが,四川でもまた,造船や航運が開け,食糧などの輸送も活発になる。それとともに長江の水利や洪水についての記録もふえ,長江上流川江の宜賓から現重慶市万県のあいだを中心に洪水の水位を示す石の︿題刻﹀も残された。今にのこるもっとも古いのは現重慶市忠県の長江畔にある1153年︵紹興23︶のものである。これはまた,涪江上流,現三台県の潼川府の町を全滅させるなど大規模な洪水であった。元代には,江南の経済的地位はいっそう高まり,食糧も北方に移送されるようになる。四川もまた,盆地部を中心に四川行中書省が置かれ,陝西への物資を供給する。明には四川布政使司が置かれ,農業や蜀錦などの手工業がさらに発展,柘葉︵ハリグワ︶による蚕の糸,︿倭緞﹀とよぶ日本風の絹織物の原糸なども生産されていた。清代にはようやく四川省が置かれた。川江や金沙江の支流,赤水河や小江などが整備され航運に便利となり,南の雲南や貴州との交流もさかんになった。
アヘン戦争以後,外国資本が入るとともに半植民地経済へ大きく変化するが,四川では,漢口︵武漢︶,上海を結ぶ長江が注目され,1876年︵光緒2︶中英間の︿煙台条約﹀締結をへて,重慶が開港場としてスタートする。西南地区のみならず,西部高原を通して,チベット地方までその後背地とし,交易を行った。陸路は発達していなかったため,経済発展にともない張之洞などが成都~重慶~漢口を結ぶ川漢鉄道,重慶~広東~欽州を結ぶ欽渝鉄道などを計画したが,これらはいずれも達成されなかった。この間,四川各地で,生糸,皮革,塩,砂糖をはじめ,蜀錦,白蠟や五倍子などの特産やアヘンなどの生産が高まっている。民国成立後,一時,成都と重慶に省政治中心を置いたが,のち成都が省首府となった。重慶は日中戦争期,国民政府がここに移動,また1945年,毛沢東と蔣介石が双十協定を結んだことで有名である。
一方,四川省には少数民族が多数居住するが,解放前まで奴隷制や封建制が残っていたものもある。たとえば,涼山のイ︵彝︶族には奴隷制社会が残っていた。奴隷主黒彝,被支配者階級白彝,さらに白彝が呷西︵ガシ︶,阿加︵アジャ︶,曲諾︵チュノ︶に分かれ,黒彝が奴隷呷西を労働に使った。阿加は主のそばに住み労働に従事,曲諾は相対的に独立した経済生活を送るが移動の自由はなかった。いずれも1950年,解放された。西部高原地区の大部分は清代にはチベット東部などとともに打箭炉︵だせんろ︶すなわちダルド︵康定︶を首府とするカム︵康︶に編入されていたが,民国には西康特別区,のち西康省となり,四川省は55年,金沙江以東を合併,拡大した。しかし,1980年代以降,改革開放体制のもと,1億1300万をこす中国最大の省人口となり,就業や行政管理にも困難をもたらすこととなった。そのため,奥地の開発と三峡ダム建設の拠点づくりの役割をも明確にして,97年東部の重慶を四川省から切り離し,直轄市として独立させた。
産業
四川省は重慶市分離後も,中国では人口の多い省である。漢族のほかに,チベット,イ,回,ミヤオ︵苗︶,チャン︵羌︶などの少数民族がおり,少数民族はそのほとんどが西部高原部に居住する。これら多数の人口を支える産業も発達し,内陸部ではあるが,旧重慶市をあわせると,GDPは中国各省のうち,上位を占める。四川省では成都平原を農業の主産地として,水田が耕地面積の50%を占める。雲量が多く,夏季の生長期における有効な積算温度が低いため,中稲を中心とするイネの栽培が多い。その他,四川盆地中央部ではイネ,コムギの二毛作,南東部ではイネの二期作もある。省全体の食糧生産量は全国の総生産量の10%を占めている。また,ハイブリッド米生産を含む新品種開発などの農業科学技術の研究も活発である。西部高原部のチベット族居住地域では青稞︵ハダカムギ︶栽培がおこなわれている。経済作物としてはワタ,サトウキビなどの栽培や養蚕がさかんである。ワタは長江流域ワタ作区に属する。またサトウキビは歴史的には内江をはじめとする沱江中流部がその主産地である。竹林資源も多様で生産量も中国最大である。四川の工業はおもに四川盆地の各都市で発展している。また,第9次五ヵ年計画︵1996-2000年︶時には国内の重点発展地区として,外資導入や地域経済の合理的配置がみなおされている。成都には綿紡績,綿プリントなどの近代工業をはじめ,情報通信,新素材開発など国家級の成都ハイテク産業開発区が稼働するほか,蜀錦や漆器などの伝統的な手工業が発達している。内江には,地元のサトウキビを利用した製糖やアルコール製造などの工業がある。自貢は解放後自流井と貢井とが合併したもので,製塩やそれを原料にした化学工業やガラス工業がある。瀘州には広範な天然ガス田が分布しており,ガスの採取と中国最大級の尿素生産などの化学工業が発展し,濾州老窖︵大麴酒︶などの古来の名酒製造工場もある。西部高原南部の攀枝花︵はんしか︶には,攀枝花鉄鋼公司やチタン・バナジウム鉄鉱などの鉱山があり,1965年周辺の県や雲南省の県の一部を合併し市制をしいた工業都市である。その他,南充の石油精製,宜賓の中国西南部最大の製紙,全国名酒︿五糧液﹀製造などの工業がある。解放前には計画のみで幻におわった鉄道も,解放後成渝︵せいゆ︶︵成都~重慶︶,成昆︵成都~昆明︶,宝成︵陜西宝鶏~成都︶の各鉄道が敷設され,さらに宜珙︵ぎこう︶線が開通,川蔵︵成都~ラサ︶などの自動車道や成渝︵成都~重慶︶高速道,長江水系の水運とともに,四川省の動脈となっている。近年,郷鎮企業も発展しているが,反面,未就業や出稼ぎによる省外へ流出する過剰労働力もめだち,なお,人口問題をかかえている。
執筆者‥駒井 正一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
四川〔省〕
しせん
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