塩谷宕陰(読み)シオノヤトウイン

デジタル大辞泉 「塩谷宕陰」の意味・読み・例文・類語

しおのや‐とういん〔しほのやタウイン〕【塩谷宕陰】

 
18091867()()()()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「塩谷宕陰」の意味・読み・例文・類語

しおのや‐とういん【塩谷宕陰】

 

(一)()()稿
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰
しおのやとういん
(1809―1867)


()6417()()()16()()()()()3828()()()()()()1846()1847()()18591879稿1870稿()

 2016519

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改訂新版 世界大百科事典 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰 (しおのやとういん)
生没年:1809-67(文化6-慶応3)


20014稿

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朝日日本歴史人物事典 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰

没年:慶応3.8.28(1867.9.25)
生年:文化6.4.17(1809.5.30)
江戸後期の儒学者。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵,宕陰は号。父桃蹊は医者として浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕えた。江戸愛宕山下に生まれ,文政7(1824)年昌平黌に入門,同学の安井息軒は終生の畏友であった。また11年松崎慊堂に入門。12年,翌天保1(1830)年と関西に遊び頼山陽と親しく交わった。2年父の没後,儒者として登用された。藩主水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となった。忠邦の退隠後は世子の輔導に当たる。弘化年間(1844~48)には海防問題に強い関心を持ち,『籌海私議』を著し,また清国の阿片戦争を聞き強い危機感から『阿芙蓉彙聞』を輯し,これらは広く迎えられた。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。徳川斉昭は藤田東湖を宕陰のもとに派し諮問している。文久1(1861)年将軍徳川家茂に拝謁,2年昌平黌の儒官となった。幕府の歴史編纂に従事中病に罹り没す。谷中天王寺に葬る。<参考文献>塩谷時敏『宕陰先生年譜』

(沼田哲)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰
しおのやとういん

 
[]6(1809).4.17. 
[]3(1867).8.28. 
16 ()  () 稿 (13)  ()  ()  ()   

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰 しおのや-とういん

1809-1867 江戸時代後期の儒者。
文化6年4月17日生まれ。塩谷簣山(きざん)の兄。昌平黌(しょうへいこう)にはいり,また松崎慊堂(こうどう)にまなぶ。遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松藩主水野忠邦(ただくに)につかえ,忠邦の老中就任後はその補佐にあたり,のち幕府の儒官。ペリー来航に際し,海防の策を論じた。慶応3年8月28日死去。59歳。江戸出身。名は世弘。字(あざな)は毅侯。通称は甲蔵。別号に九里香園。著作に「籌海(ちゅうかい)私議」など。

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367日誕生日大事典 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰 (しおのやとういん)

生年月日:1809年4月17日
江戸時代末期の儒学者
1867年没

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