日本大百科全書(ニッポニカ) 「山中鹿介」の意味・わかりやすい解説
山中鹿介
やまなかしかのすけ
(1545―1578)
戦国時代の武将。尼子(あまご)氏の重臣。幼名甚次郎(じんじろう)、元服して名を鹿介幸盛(ゆきもり)と改め、富田(とだ)城主尼子義久(よしひさ)の近習(きんじゅ)となる。後世の軍記物その他の記録では鹿之介あるいは鹿之助と記されている場合が多いが、本人の自署はいずれも鹿介となっている。鹿介の名が初めて﹃雲陽軍実記﹄や﹃陰徳太平記﹄などの軍記物に登場するのは、1563年︵永禄6︶毛利元就(もうりもとなり)軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、このとき尼子軍は敗退し、以後尼子勢は富田城に籠城(ろうじょう)し、66年11月ついに落城、尼子氏は滅亡した。落城後出雲(いずも)を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久(かつひさ)を擁して69年島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、翌年2月毛利の援軍と布部山(ふべやま)︵安来(やすぎ)市︶に戦って大敗し、出雲奪回の夢は断たれた。しかし、その後も執拗(しつよう)に再興を図って各地に転戦、織田信長を頼って、その西征に望みをつないだ。77年︵天正5︶信長の部将羽柴(はしば)︵豊臣(とよとみ)︶秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加し、上月(こうづき)城︵兵庫県佐用(さよう)郡佐用町︶に主君勝久とともに籠(こも)ったが、78年4月毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、7月3日勝久は自殺、5日落城し、ついに降伏した。鹿介は備中(びっちゅう)松山城︵岡山県高梁(たかはし)市︶の毛利輝元(てるもと)のもとに護送される途中、高梁川河畔の阿部(あべ)︵阿井ともいう︶の渡(わた)しで殺された。その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾(てきがい)心に徹したものであった。
﹇藤岡大拙﹈
﹃藤岡大拙著﹃山中鹿介紀行﹄︵1980・山陰中央新報社︶﹄
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