改訂新版 世界大百科事典 「岡崎藩」の意味・わかりやすい解説
岡崎藩 (おかざきはん)
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三河国額田(ぬかた)郡岡崎(愛知県岡崎市)に置かれた譜代(ふだい)藩。豊臣(とよとみ)系大名の田中吉政(よしまさ)ののち、1601年(慶長6)本多康重(やすしげ)が5万石で入封。以後、岡崎は徳川家康ゆかりの地として、また東海道の宿場として譜代中の名門が藩主となる。歴代藩主は本多康重以降、康紀(やすのり)・忠利(ただとし)・利長(としなが)、水野忠善(ただよし)(1645年入封。5万石)・忠春(ただはる)・忠盈(ただみつ)・忠之(ただゆき)(1万石加増)・忠輝(ただてる)・忠辰(ただとき)・忠任(ただとう)、松平(松井)康福(やすよし)(1762年入封。5万8000石)、本多忠粛(ただとし)(1769年入封、5万石)・忠典(ただつね)・忠顕(ただあき)・忠孝(ただたか)・忠民(ただもと)・忠直(ただなお)と続き、幕末に至る。岡崎藩は藩主が幕府の要職につき、日光社参などの臨時課役を勤めることも多く、矢作(やはぎ)川沿いの肥沃(ひよく)な地をもつわりに藩財政が悪かった。藩政は、藩主の江戸在勤が長かったため、老臣により運営されることが多く、藩政改革に失敗した水野忠辰のように幽閉された藩主もいた。1836年(天保7)の加茂一揆(いっき)で藩は鎮圧のため出兵したが、収奪が厳しく民心が動揺したといわれる。71年(明治4)廃藩、岡崎県、額田県を経て翌年愛知県に編入された。
[渡辺和敏]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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