藩政改革 (はんせいかいかく)
幕藩体制のもとで,個別領有の側面をもつ藩が実施した政治的改革。幕藩体制社会を,太閤検地の施行を史的前提として,単婚小家族の小百姓を土地に緊縛し,これを身分制的に支配する封建社会と規定するとき,そこでの農政の基調は,小百姓の自立あるいは分裂による創出であり,維持であった。そして,そこでは領主の封建的大土地所有と小百姓の零細錯圃の占有とが対峙する関係にたっていた。江戸幕府は1643年︵寛永20︶3月に,田畑永代売買禁止令を出しているが,後者の占有内部に︿身上︵しんしよう︶能︵よ︶き﹀百姓=︿徳人︵とくにん︶﹀の輩出と極貧の小百姓経営の成立という分解をおそれてのことであった。さて,藩政改革は以上の諸前提のうえに成立してくるが,ここでは,17世紀後半から廃藩置県に至る時代を4期に分けて,藩政改革の推移と実態をみてゆくことにする。
前期--給人地方支配の廃止と俸禄制への転換
領知規模1万石以上を大名と呼び,その大名の所領高合計が全体の4分の3に達しているなかで,徹底しきれないいくつかの藩があったにせよ,大名家臣団が地方︵じかた︶支配︵地方知行︶から俸禄制︵蔵米︵くらまい︶知行︶に変わったことは,藩政にとっても大きな変化であったといえよう。信濃国の譜代小藩諏訪藩におけるこの政策の実施過程に出された︿郷中申渡﹀8ヵ条は,第3代藩主諏訪忠晴が1675年︵延宝3︶閏4月に出したもので,その冒頭の条に,藩が給所百姓を大名直轄の百姓に切り替えてゆく理由を明記している。すなわち,給人︵きゆうにん︶による百姓の恣意的支配の抑止であり,小農維持を基調におく藩政への転換を宣明したものであった。しかも,この転換は譜代小藩にとどまらず,前期の藩政改革の中心的な課題となっていた。1651年︵慶安4︶から56年︵明暦2︶にかけて施行された加賀藩の改作法も第3代藩主前田利常の計らいになるものであったが,改作法の骨子も給人と百姓の分離,つまり百姓を藩主直属とすることであった。かくして,前期の藩政改革を貫く原則は,領主相互間の戦争を基底においた軍役賦課の領有原則からではなくて,石高制の基盤におかれる単婚家族小農経営存立の原則であったといえよう。ここに幕府と藩を基本とした階層的土地所有の秩序の確立をみたのである。
中期--︿名君・賢宰﹀の改革
給人の領有地=給所が,大名の蔵入地︵くらいりち︶に一括されてゆくとき,大名の手に権力はより集中してゆく。だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢︵しげかた︶と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌︵かたのぶ︶と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲︵はるのり︶︵鷹山︶と改革派を代表する竹俣当綱︵たけのまたまさつな︶との関係をあげることができよう。
上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。彼が米沢に入部し,前藩主重定に代わって家督を継いだのは1767年︵明和4︶であった。その時期に藩政を壟断︵ろうだん︶していたのは森平右衛門と,その一族,および前藩主重定の側近たちであった。これに対して,治憲を擁立するグループは江戸詰家老の当綱を柱としていた。これには莅戸︵のぞぎ︶善政,黒崎恭右衛門,木村丈八らが名を連ねていた。彼らは平右衛門暗殺の密謀を抱くようになり,当綱は63年︵宝暦13︶2月ひそかに米沢に下り,みずから奉行詰の間で平右衛門を一刀のもとに突き殺した。このように治憲就封前夜の藩内状況はきびしいものであった。
この緊迫度は,松平定信が党派をつくり田沼意次の暗殺を決意した同時代の事情にも通ずるものであろう。1768年12月,米沢藩医藁科︵わらしな︶貞祐が同志の郷村出役小川源左衛門尚篤に差し出した書簡の一節は,まことに鋭い政治的感性をもって,時代の大きく変化してゆく予兆を述べている。︿そこもこゝも一揆・徒党の沙汰にて,日光が済めば,山県大弐が出現,大坂が騒げば佐渡ゆるゝ,伊勢路もめれば,越路もかしましく,斯様に百姓の心騒しく成候も畢竟は一度は治り,一度は乱れ候︵中略︶。そろりそろりと天下のゆるゝ兆も可有御座候哉﹀。︿日光﹀うんぬんは64年暮れから翌年春にかけて北関東をおおった伝馬騒動,山県大弐一件は67年8月,68年正月には大坂市民が蜂起して,家質︵かじち︶奥印請負人紙屋清兵衛の家を打ちこわし︵家質会所︶,9月には伊勢で強訴︵ごうそ︶,10月には越後魚沼郡で打毀︵うちこわし︶があったことの見聞を伝え,事態の波及性,連動性のなかで︿そろりそろり﹀と︿天下のゆるゝ兆﹀と報じていたのである。かつて藩祖上杉景勝のとき120万石の大藩が30万石で米沢に転封され,さらに15万石の外様中位の藩規模におかれるようになった米沢藩家臣団の再生の契機は,家中工業であり,新田畑の開墾であった。藩政改革の政策基調の第一を︿大倹﹀におき,みずから率先実践にあたった名君鷹山の歴史像は,藩内抗争を越えてきびしいものになっていた。そして,この鷹山は折衷学派の細井平洲を師と仰ぎ,藩校興譲館の創設にあたった。また,前記の会津藩,熊本藩において藩政改革期に教学指導にあたったのは古屋鬲であり,平洲と同じ学派に属していた。
会津藩家老田中玄宰が87年に改革の大綱策定に全力投球をしていたとき,︿土地分給策﹀の名称で呼ばれる農村復興策が策定された。貧富の際だった差異を地改め,すなわち検地によって改めようとするものである。のちに水戸藩や佐賀藩において,藩政改革の核心的部分をなした均田制度,限田政策となるものであった。会津藩については,︽世事見聞録︾が︿此十ヶ年以前に奥州会津領のものに承りしは……﹀という伝聞記事として土地分給の実施にふれている。そしてその成果を︿村別に無甲乙やう貧富平均したると言ふ﹀と記しているが,はたして会津藩で実施されているのか,実施されているとすればいかなる分給であったのかは,いまなお解決されていない。
後期--特産物の専売化と荷為替の運用
ここで時期区分した年代は,19世紀前半期にあたり,文化・文政・天保期︵1804-44︶ということになろう。藩政改革の視点からこの時代を特徴づけるものは,各藩ともに財政的に行き詰まり,産物会所︵国産会所︶を設け,藩専売制によってこの困難な事態を打開しようとしていることである。例えば,播磨・但馬両国内に展開している大小諸藩をみても,こぞってこの時期に国産会所の設立に走っているが,ただ,産物会所を設け,専売制の実施に踏み切っても赤穂藩の塩専売制度のように,逆に1821年︵文政4︶には産物会所の解散に追い込まれていく場合もみられた。
そんななかで,姫路藩の木綿専売は際だった成果として喧伝されている。そして,その成果の掌握を指導したのが家老河合道臣︵寸翁︶であった。成功の鍵としては二つの経済的条件をあげることができよう。その一つは,産物会所と並んで切手会所を設け,生産者農民が必要とする資金をきわめて有利に運用できる荷為替︵にがわせ︶による金融が,驚くべきことに,すでにここには存在していたことであろう。荷造りされた木綿は,飾磨津︵しかまづ︶に設置された木綿荷扱所に送付され,同所の発行する︿荷物受取証﹀を受け取り,これに︿借用証﹀を添え,切手会所に提出して,木綿代価の70~80%を木綿切手をもって無利息で受け取ることができた。なお,支払の残金20~30%は江戸で売却済みのうえ,60日以内に精算されていた。言い方を換えれば,木綿代価を木綿切手をもって前貸しし,あるいは弁済にあてた点であり,こうして姫路藩においては,切手会所と国産会所とは密接不離の関係として同一の建物のうちに配置されていた。もう一つの卓越した経済的理由は,江戸直積みの条件を確保していたことであろう。江戸では,小網町に2軒の荷受問屋から同時に大伝馬町の江戸表木綿問屋に売却されていたが,この取引は正金銀であった。こうして,藩は江戸で正金銀で受け取り,国元では藩札で支払が行われる。そしてこの循環経路が完全に整備されるのは,幕府にこの経緯を申請して姫路木綿の江戸表売捌仕法︵えどおもてうりさばきしほう︶を幕府に認めさせた1836年︵天保7︶のころであったといえよう。このようにして,姫路藩は73万両といわれた藩債も,天保期に完済の見込みがたてられていたという。
これに対して,伝統的な土着産業を基礎におき,絹業の育成に努めたのは福井藩である。まず姫路藩の河合寸翁と比較される指導者三岡八郎︵のちの由利公正︶の存在と,彼を支える横井小楠,さらにその師橋本左内に及ぶ活眼の人脈にふれておかなくてはなるまい。福井藩は表高32万石で,会津藩同様に三家に次ぐ家門の位置にたつ有力藩であった。しかし,この藩も︿古借新借惣高九拾万両余﹀の借財にうなされていた。1858年︵安政5︶12月,由利公正は横井小楠に同行して下関で物産の集散状況や商取引の実態を調べ,翌59年3月には長崎へ出て,当地の唐物商小曾根太郎の奔走で3000坪の土地を購入し,そこに蔵屋敷を建て,国産生糸などを売り込む特約をとり,いわゆる官貿易の端緒を開いた。小楠の農工生産の増強による積極的な貿易論を具体化しようとしたものであった。59年10月には,橋本左内や小楠の殖産興業策を物産総会所の設置によって実践に移し,まず領内の諸物産増産のために貸付資金として発行する切手5万両を準備し,これをもって在郷商人層を督励して交易物産の集荷に努めた。こうして62年︵文久2︶には総会所を通して輸出した物産の総額は300万両に達した。しかも発行した紙幣の信用は高く,正金銀との交換も打歩︵うちぶ︶なしで随意に行われていた。ここに公正の︿藩内物産を拡張すべしとは民を富ますの術﹀という民富論を前提にした国富論が用意されることにもなった。公正は維新当初の財政の責任者であったが,福井藩の財政が立直りをみせた総会所方式のもとでの藩札発行による殖産興業策は,福井藩では通用したが,1869年︵明治2︶12月の太政官札として流通総額2400万両を記録したとき,正金銀との随意交換の信用はなかった。そのなかで公正は出仕を拒否し失脚した。
幕末・維新期--廃藩置県への道
1868年3月14日に︿五ヶ条の誓文﹀によって新政の基本方針が出され,翌69年6月17日には薩長土肥以下諸藩主の版籍奉還を許し,各藩知事に任命した。以後奉還が相次ぎ,公卿,諸侯を華族と改称し,6月25日には藩知事に禄制改革を通達していた。他方,官制を改革して2官6省を置き,禄制を定め,藩士の俸禄の削減を求めていた。このように版籍奉還は一つの流れとして完遂されていったが,維新政権はこのなかで,藩政改革を強行していた。すなわち,前年10月に制定されていた藩治職制によって,まず個々の藩政を︿府藩県ノ三治一致﹀の原則で縛り︵府藩県三治制︶,職制を中央政府の意向にあわせて執政,参政,公議人,家知事に統一し規制しようとするものであった。そして︿門閥ニ拘ラズ﹀人材を登用すること,冗官の改編淘汰,選挙・議事制度の導入による中・下士層の進出を図るべく,またそのことによって諸藩を新政府のもとに結集させようとしていた。もちろんこの過程で,諸藩の財政や禄制への規制も強化されていった。そして,この規制強化の最後が70年9月に公布された︿藩制﹀であった。この規制のねらいは,とりわけ万国対峙,国権拡張のための藩制の推進であった。つまり,各藩にも行財政整理や家禄削減を強制して,陸海軍費の蓄積を保障しようと意図するものであった。そこでは,︵1︶藩を石高で大中小の3種に分け,︵2︶旧藩主=知事の家政は藩実収高の10分の1とする,︵3︶藩士は士族と卒族に分け,︵4︶藩士の禄制を削減し,︵5︶藩の事情を中央政府に報告する,などの改革がさらに推し進められていた。そして他方では,中央官制の改革も進められ,中央集権化が図られていた。71年2月には薩摩,長州,土佐の3藩から親兵1万人が集められ,帰国していた西郷隆盛,板垣退助も出仕して維新政権の圧倒的優位が確定してゆくなかで,小御所会議に次いでの薩,長,土による第2次クーデタとも呼ばれている廃藩置県が,同年7月に強圧的に断行されていた。ここで幕府が倒れても個別領有制としての藩が残った歴史的事実とともに,ここで一斉に解体されてゆく事実に注目する必要があろう。かくして諸藩の知事は家禄と華族の身分を保障されて東京に移され,旧藩主に代わって知事,県令が中央から派遣され,各藩における旧藩主勢力は一掃され,藩体制は完全に解体された。
執筆者‥長倉 保
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藩政改革
はんせいかいかく
幕藩体制のもとで、個別領有制の側面をもつ藩が実施した政治的改革をいう。
幕藩領主の財政は、基本的には、自然経済に立脚する本百姓(ほんびゃくしょう)経営から徴収される貢租=生産物地代を、その基盤にしていた。幕藩領主にとってみれば、自営農民、すなわち本百姓の数が権力を左右するのに、もっとも重大な意味を有するのであった。したがって、本百姓経営の創出・維持が幕藩権力のもっとも基本的な政策であった。江戸時代には、各藩で相次いで周期的に藩政の改革が繰り返されるが、この改革の基本方針は、つねに本百姓経営の創出と維持を政策の基調にもつものである。
江戸時代中期以降、とくに周期的にまでなった各藩の藩政改革の直接原因は、つねに藩財政の窮乏の問題にあった。このことは、幕藩体制の中軸である本百姓経営を基底とする生産物地代原則の破綻(はたん)を意味する。本百姓経営は自然経済を原則にしながらも、生産力の発展により商品経済の展開の基礎になりうるものだった。この農民的商品経済の展開が、一方では藩財政の基礎である本百姓の経営の間に分解をもたらし、他方では藩財政における貨幣支出の膨張をもたらすものである。そして、その間にしだいに都市商人資本が介在してくる。要するに、江戸時代の各藩における藩政改革は、本百姓経営の創出・維持を基本的方向としながら、それをめぐる本百姓経営の分解、農民的商品経済の展開、都市商人資本との結合、ないしは側圧など、副次的なものを絡ませながら展開していく。したがって、改革の性格は、江戸時代の経済的・社会的発展に対応して各時期において異なってくる。
﹇泉 雅博﹈
各藩における改革の方向は、本百姓経営の創出の方向を一義的に推進している場合が非常に多い。その方向は、信濃(しなの)国の譜代(ふだい)小藩諏訪(すわ)藩︵高島藩︶では、家臣団の統制形態を地方(じかた)支配︵地方知行(ちぎょう)︶から俸禄(ほうろく)制︵蔵米(くらまい)知行︶へと切り替えていくなかで追求されていた。1675年︵延宝3︶閏(うるう)4月、第3代藩主諏訪忠晴(ただはる)は﹁郷中申渡(ごうじゅうもうしわたし)﹂8か条を公布しているが、その冒頭の条には、藩が給所百姓を大名直轄の百姓に切り替えていく理由が明記されていた。すなわち、給人による百姓の恣意(しい)的支配の抑止であり、小農維持を基調に置く藩政への転換が、そこで宣明された内容であった。この転換は、譜代小藩にとどまらず、初期の藩政改革の中心的な課題となっていた。外様(とざま)の大藩加賀金沢藩において、第3代藩主前田利常(としつね)の計らいのもと、1651年︵慶安4︶から56年︵明暦2︶にかけて施行された改作(かいさく)法も、その骨子は給人と百姓の分離、つまり百姓を藩主直属とすることによって、本百姓経営の創出・維持の方向を推進していこうとするものであった。
ところで、各藩ともその成立当初から、参勤交代、江戸在府などによる大量の貨幣支出によって、藩財政が強く圧迫され、絶えず財政の赤字に悩まされていた。藩政改革がつねに倹約令をもって始まるのも当然であり、三都の商人に借財することにより財政窮迫を乗り切っていたが、それは藩財政の破綻に結び付くものだった。新田開発の奨励、殖産興業の強行もすべて、直接的には財政窮乏への対応策の一環として意味をもっていた。
﹇泉 雅博﹈
徳川幕藩体制の経済的基礎である本百姓経営における生産力発展によって、本百姓の手元に剰余部分が残るようになる。つまり、自然経済を徐々に商品経済にかえていく事態は、一方では領主が立脚する生産物地代原則、すなわち貢租という形では農民の商品生産の成果を吸収することを不可能にさせるとともに、藩財政の貨幣支出をさらに膨張させる。他方、このような農民的商品生産の展開は、新しく国民的市場形成の方向へと結実していく。このことは都市商人資本の進出を生み出してくる。したがって各藩は、このような事態に即応しうる藩体制の質的な転換を迫られる。元禄(げんろく)~享保(きょうほう)期(1688~1736)以降、各藩で行われる改革は、このような性格を帯びていた。だから、そこでは生産物地代原則の強化、すなわち貢租の増徴と相まって、商品経済の進展に順応する姿勢がとられていく。その中核的な政策が、産物改所(国産会所)の設置と藩専売制の実施であった。
藩専売は、各地の条件に応じた特産物を中心として取り組まれている。長州藩の紙・蝋(ろう)、阿波(あわ)徳島藩の藍(あい)、姫路藩の木綿・塩、土佐藩の紙、薩摩(さつま)藩の樟脳(しょうのう)・黒砂糖、信州上田藩の絹織物など多くの例を数えることができる。しかし、この専売政策も多くの場合、藩権力が豪農層や特権商人と癒着し、特産物の生産・流通過程に厳しい統制を加えたため、かえって一般農民層を窮乏に陥れるという結果を招き、藩経済を強化する方向には結び付かなかった。
また、中期の藩政改革において注意しなければならないもう一つの問題は、後進地帯における、いわゆる「名君賢宰」による藩政改革である。その典型としては、肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名(かつな)との関係、陸奥(むつ)会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰(げんさい)との関係、そして出羽米沢(でわよねざわ)藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))と、改革派を代表する竹俣当綱(たけまたまさつな)との関係をあげることができるだろう。商品経済の遅れている後進地帯のこれらの諸藩では、封建貢租の過重と先進地帯の商人資本の収奪とが相まって、本百姓経営の再生産さえ不可能にしていた。こうした事態にあっては、本百姓経営の再創出こそが重要な改革の方向となっていた。
[泉 雅博]
中期の改革が、結果的には本百姓経営のいっそうの分解をもたらし、他方、藩権力の商人資本との結合は、藩政の腐敗をもたらした。こうした危機に即応して革新思想が成長してくるが、それが直接問題にしているのは、藩財政の窮迫と本百姓経営の解体である。
藩財政の窮迫は、商人資本と結んで腐敗する藩政への批判を呼び起こすとともに、幕藩体制の経済的基礎たる本百姓経営解体に対する危機意識を胎生する。これは前者と相まって商人資本排撃の意識へ転化し、下士改革派の藩政への進出をみていく。たとえば、長州藩の天保(てんぽう)改革は、1838年︵天保9︶に村田清風(せいふう)の指導のもとに開始されるが、清風は91石取の中士下層の出身にほかならなかった。
こうして天保期の諸藩における改革は、下士改革派による藩政実権の掌握下、本百姓経営の再創出と商人資本との絶縁という二つの方向を明確にした。
また、天保の改革には、もう一つの重要な問題があった。それは対外危機が、ようやく日本の周囲に迫ってきた事態に即応する問題である。すなわち、海防のことが重大な意味をもつようになり、軍備の改革に手がつけ始められた。こうした海防を焦点に据える藩政改革が本格化したのは、1853年︵嘉永6︶のペリー来航以後の対外的危機が深刻化した、安政(あんせい)期における各藩の改革であった。もはや、藩政改革は自藩のみの問題ではなく、きわめて直接的に全国的問題と結び付いていた。
開港以後、各藩とも財政窮乏が進み、ことに明治に入って廃藩置県に至る間に累積した各藩の債務は、幕末期を上回るものとなった。幕末期での藩財政窮乏は三都大商人、あるいは領内豪商からの借財の累積に示されている。藩末期の窮乏に加え、王政復古以後廃藩置県に至る4年間は、さらに物価騰貴が手伝って急速に藩債が累積した。ここに、比較的財政基盤の強固な藩でも、藩財政を維持するのには無理な状態に陥った。かくて廃藩置県に至り、藩は消滅した。
﹇泉 雅博﹈
﹃堀江英一著﹃藩政改革の研究﹄︵1955・御茶の水書房︶﹄▽﹃関順也著﹃藩政改革と明治維新﹄︵1956・有斐閣︶﹄▽﹃田中彰著﹃幕末の藩政改革﹄︵1965・塙書房︶﹄
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藩政改革
はんせいかいかく
幕府の享保・寛政・天保の三大改革に合致する時期に行われ,藩財政の立て直しや封建制度の矛盾の克服を目的としている。改革の内容は諸藩によって異なるが,初期藩政の確立期には,本百姓経営の創設と維持,新田開発や殖産興業による民政の重視などがあげられ,加賀藩の改作法,宇和島藩の鬮持法 (くじもちほう) ,それに土佐藩野中兼山の新田開発策などがその例である。寛政期︵1789〜1801︶の改革は,参勤交代の制や都市生活の奢侈 (しやし) による財政支出の増大に対する改革で,年貢の増徴,特産物中心の殖産興業の推進や専売制の強化につとめた。米沢藩・会津藩・長州藩・熊本藩などでその例がみられ,米沢の上杉治憲 (はるのり) ,秋田の佐竹義和 (よしまさ) ,熊本の細川重賢 (しげかた) などは近世の名君として知られている。幕末期の改革は,深刻な藩財政の立て直しのため,独自に国産会所を設けて商品流通を独占するなど重商主義的な政策で財政的危機をのりきろうとする傾向が強く,長州の村田清風,薩摩の調所広郷 (ずしよひろさと) などの天保期︵1830〜44︶の改革者があげられる。なお安政期︵1854〜60︶の改革は,対外貿易・海防への関心が高かった。
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藩政改革【はんせいかいかく】
江戸時代,幕藩体制のもとで諸藩が行った財政経済政策や政治制度の改革。前期の改革では大名家臣団の地方支配︵地方知行︶から俸禄制度︵蔵米知行︶への変更を大きな柱とした。中期では特産物の増産を進め,藩専売制により財政立直しに成功した熊本藩細川重賢,米沢藩上杉治憲などの改革が有名。天保期︵1830年―1844年︶の萩藩村田清風,鹿児島藩調所(ずしょ)広郷の改革は,両藩が幕末の政局を主導する基礎をつくった。
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藩政改革
はんせいかいかく
江戸時代,内外の危機に直面した諸藩が,その危機を克服するために行った政治刷新の動き。改革は前期・中期・後期・幕末期と江戸時代を通じて各藩で実施され,危機の内容も家臣団の分裂と対立,支配機構の弛緩と動揺,藩財政の窮乏や凶作などによる領民の疲弊,百姓一揆・打ちこわしの高揚などさまざまで,後期には外国船の来航による国際的危機の激化が加わる。危機を打開するための改革の主体や政策も時期や藩によって異なる。前期の改革では会津藩の保科(ほしな)正之,水戸藩の徳川光圀(みつくに),金沢藩の前田綱紀(つなのり),岡山藩の池田光政らの改革,中期では米沢藩の上杉治憲,熊本藩の細川重賢(しげかた)らのいわゆる名君の活躍がめだつ。天保期以降では萩・鹿児島・佐賀・高知などの西南雄藩における軍事力強化を含む改革の実施が注目される。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
藩政改革
はんせいかいかく
江戸時代,各藩で行われた政治や経済の改革。財政の窮乏打開や家臣団統制の再強化を目標として行われた。幕府の三大改革をはじめ,各藩でも社会の進展状況を顧慮し,適応体制を整える必要があった。改革は初期,中期,後期に分けられる。初期は加賀藩,宇和島藩,長州藩などで農業振興を重点として行われたが,家臣団構成や知行制の変革も多かった。中期以降は,商品経済の発展に順応した殖産興業政策と藩専売の強化が行われた。幕末には,国産会所 (→産物会所 ) を設けて藩が商品流通を独占し,軍制の改革もあわせて行われることが多かった。西南雄藩の改革が典型的なものである。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の藩政改革の言及
【勧農】より
…裏作奨励に力を注いだ加賀藩でも,1675年(延宝3)裏作の小麦が翌年の田植時期を遅らせて稲作を害してしまうという理由で,本田での小麦作を禁止している。 中期以降になると,領主財政の立て直しを意図した[藩政改革]の一環として,流通過程での施策に対応した勧農が説かれる。米沢藩では財政整理の必要から諸士の次三男に土着を督励し,1801年(享和1)に酒田の本間信四郎などからの借用金を勧農金と名づけて新百姓の夫食(ぶじき)・家作・資材の資金に給付し,士分の土着を促進して開墾の実をあげた。…
【天保改革】より
…江戸時代後期の天保年間(1830‐44)に行われた幕政改革,藩政改革の総称。領主財政の窮乏・破綻,[天保の飢饉]を契機とした物価騰貴,一揆の激発などの社会的動揺,外国船来航による対外的危機などを克服し,幕藩体制の維持存続を目ざして行われた。…
※「藩政改革」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」