日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
平塚らいてう(ひらつからいちょう)
ひらつからいちょう
(1886―1971)
女性運動の先駆者。東京生まれ。本名は明(はる)。1906年︵明治39︶日本女子大学家政科卒業。在学中より人生観を模索し続けるうちに禅に出会い、禅の修行が彼女の自我の確立に大きな影響を及ぼした。大学卒業後、生田長江(いくたちょうこう)主宰の閨秀(けいしゅう)文学会に参加、そこで知り合った作家の森田草平(そうへい)と1908年に心中未遂事件、いわゆる﹁塩原事件﹂を起こし、センセーションを巻き起こした。1911年には生田長江の勧めで、保持研子(やすもちよしこ)︵1885―1947︶、中野初子︵1886―1983︶、木内錠子(きうちていこ)︵1887―1919︶、物集和子(もずめかずこ)︵1888―1979︶とともに女性文芸誌﹃青鞜(せいとう)﹄を発刊、らいてうが書いた創刊の辞﹁元始、女性は太陽であった﹂は、女性自身による解放宣言として、大正デモクラシーの風潮のなかで大きな反響をよんだ。﹃青鞜﹄はしだいに﹁婦人問題誌﹂の色彩を増し1916年︵大正5︶2月まで続いたが、しばしば発売禁止処分にあった。青鞜社員の言動は﹁新しい女﹂の出現としてジャーナリズムの脚光を浴びたが、非難中傷されることが多かった。この間、らいてうは年下の画家奥村博史(ひろし)︵1889―1964︶と恋愛、同棲(どうせい)するが、あえて家族制度の下での婚姻手続を踏まない共同生活を実行し、これも話題となった。1918、1919年の母性保護論争では、﹁女権主義﹂の立場にたつ与謝野晶子(よさのあきこ)らと対立し、﹁母性主義﹂を唱えた。1920年には市川房枝、奥むめおの協力を得て新婦人協会を結成、女性の政治活動を禁止した治安警察法第5条の改正や花柳(かりゅう)病男子の結婚制限法制定の請願運動をおこし、前者の一部修正を実現させた。しかし、らいてうと市川の対立などから新婦人協会は1922年12月解散され、以後らいてうは執筆活動中心の生活に入った。昭和初期には高群逸枝(たかむれいつえ)らの﹃婦人戦線﹄の同人となり、また消費組合運動にも参加した。第二次世界大戦後は反戦・平和運動に力を注ぎ、日本婦人団体連合会会長、国際民主婦人連盟副会長などを務めた。
﹇北河賢三﹈
﹃平塚らいてう著﹃わたくしの歩いた道﹄︵1955・新評論社︶﹄▽﹃﹃平塚らいてう著作集﹄7巻・補巻1︵1983~1984・大月書店︶﹄▽﹃﹃元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝﹄全4冊︵大月書店・国民文庫︶﹄▽﹃小林登美枝・米田佐代子編﹃平塚らいてう評論集﹄︵岩波文庫︶﹄▽﹃大森かほる著﹃平塚らいてうの光と蔭﹄︵1997・第一書林︶﹄▽﹃米田佐代子著﹃平塚らいてう――近代日本のデモクラシーとジェンダー﹄︵2002・吉川弘文館︶﹄▽﹃奥村直史著﹃平塚らいてう――孫が語る素顔﹄︵平凡社新書︶﹄
[参照項目] |
| | | | | | |