広田弘毅内閣(読み)ひろたこうきないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広田弘毅内閣」の意味・わかりやすい解説

広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく


1936.3.91937.2.2 1112
()麿()退()()()()()()568()西()()11()1937193712322()



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百科事典マイペディア 「広田弘毅内閣」の意味・わかりやすい解説

広田弘毅内閣【ひろたこうきないかく】

 
193639193721
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「広田弘毅内閣」の解説

広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく

広田弘毅を首班とする内閣(1936.3.9~37.2.2)。2・26事件による岡田内閣総辞職の後をうけて1936年(昭和11)成立。閣僚人事はクーデタ再発防止の見地から陸軍の意向をくむものとなった。陸軍主導下に粛軍による人事を円滑に行う必要から軍部大臣に人事権を集中させるため,軍部大臣現役武官制を復活させた。内閣は組閣当初「庶政一新」を唱え,内政改革の意向を表明した。五相会議決定の「国策の基準」は,東京裁判で南進への最初の共同謀議とされ有名だが,南北両進を併記した妥協の産物とも読める。華北分離工作が進められ,また11月25日日独防共協定を締結した。馬場鍈一(えいいち)蔵相は大幅な軍事費拡大を容認する財政政策(馬場財政)をとり,経済的には準戦時体制などともいわれた。37年1月21日の衆議院で,立憲政友会の浜田国松が陸軍の政治関与を批判して寺内陸相と腹切り問答を行ったが,その対応に関する閣内不一致から1月23日総辞職した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「広田弘毅内閣」の解説

広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく

広田弘毅(1878〜1948)を首班とする挙国一致内閣(1936〜37)
二・二六事件後の1936年3月,近衛文麿の組閣辞退により,前外相の広田が組閣。軍部の圧力に屈し「庶政一新・広義国防」をスローガンに軍部大臣現役武官制を復活し,五相会議(首相・蔵相・外相・陸相・海相による会議)を開き従来の対ソ戦略の上に対英米の南進路線を強化する国策を定め,軍備大拡張を推進。外交では,日独防共協定締結,華北分離工作を進めるなど準戦時体制を確立。軍部と政党の対立から崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内の広田弘毅内閣の言及

【帝国議会】より

…また,満州事変以後では政党に対する軍部の批判を顧慮して政党の政権獲得への意欲は消極的となり,とくに36年の二・二六事件以後,その傾向はさらに顕著になった。しかし,広田弘毅内閣が軍部の要求により行政機構の改革と並行して議会制度の改革に着手しようとして政党側の反発を招いたこと,37年には政友会幹部の浜田国松が軍部を批判,寺内陸相との腹切り問答を展開したこと,また,林銑十郎内閣が政党を無視して組閣し,軍と癒着した諸政策を推進しようとして政党側の反撃にあい退陣したことなどは,政党側が受身ながら軍部への抵抗を示した事例といえよう。
[翼賛体制への移行]
 政党の発言権の落傾向はとどめ難く,1937年6月成立した近衛文麿の内閣は各界の期待を担って登場したが,政党からの入閣者は近衛に近い者の中から民政,政友両党から各1名にすぎなかった。…

※「広田弘毅内閣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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