改訂新版 世界大百科事典 「日中貿易」の意味・わかりやすい解説
日中貿易 (にっちゅうぼうえき)
日本と中国との間の貿易。ここでは中華人民共和国成立以降についてふれる。それ以前については︿日宋貿易﹀︿日元貿易﹀︿日明貿易﹀などの項を参照されたい。日本と中華人民共和国の貿易関係は,両国の政治状況と国際情勢に大きく左右されながら,紆余曲折を経て発展してきた。まず,新中国成立︵1949︶から第1次日中民間貿易協定が調印される1952年6月まで,両国間に協定もなく,1950年6月の朝鮮戦争勃発,アメリカの対中国輸出禁示,国連の中国・北朝鮮向け戦略物資禁輸勧告と続き,日本の対中貿易は微々たるものであった。52年,朝鮮戦争終結後,日中貿易協定が結ばれ,57年4月には広州において第1回の交易会︵広州交易会︶が開かれ,中国の第1次五ヵ年計画︵1953-57︶の順調な発展に伴って日中貿易は急速に伸びていった。しかし58年5月,長崎で開かれた中国切手剪紙展で中国の国旗が日本の右翼により引き下ろされた事件︵いわゆる長崎国旗事件︶が起こると,中国は貿易関係の打切りを通告し,実質的に日中貿易は中断した。一方,中国は中国敵視をやめ,二つの中国をつくる陰謀に加わらず,日中国交正常化を妨げないという︿政治三原則﹀を示してきた。
1960年8月,周恩来首相が︿対日貿易三原則﹀︵日中貿易は,政府間協定,民間契約,個別的配慮によるべきもの,という原則︶を提示し,ようやく貿易は再開されることになった。この第2の原則に基づき,友好貿易という形でいわゆる︿友好商社﹀が日本側の窓口になり,日中貿易をその後担っていくことになる。62年11月,高碕達之助と廖承志︵りようしようし︶との間で,長期,総合,バーター︵バーター貿易︶,延払い︵延払輸出︶を基本とする︿日中総合貿易に関する覚書﹀が取り交わされ,廖,高碕の頭文字をとったLT貿易が始まった。これは先の第1の貿易原則である政府間協定ではないが,それに準ずる︵準政府ベース︶取決めであった。翌63年には初の中国向け大型プラントである倉敷レイヨン︵現,クラレ︶のビニロン・プラントが日本政府により正式に認可された。しかし65年になると吉田書簡問題︵当時日本が唯一合法の中国政府として認めていた台湾に対して1964年春吉田茂元首相が出した手紙の中で,日本輸出入銀行の資金︵輸銀資金︶を対中輸出に使わないことが約束されていた︶や,中国に積極的であった池田勇人内閣にかわり親台湾の佐藤栄作内閣の登場で,日中貿易は再びかげりをみせ,他方,中国国内においても66年からの文化大革命により混乱し,日中貿易は縮小していった。
1968年からLT貿易にかわりMT貿易︵覚書貿易memorandum trade︶が1年ごとの更新で始まり,更新のたびに政治問題がからんで難航し,70年4月には先の政治・貿易三原則に加えて︿周四条件﹀が出され,台湾に投資している日本企業やアメリカとの合弁会社等とは取引しないなど,日中貿易の︿政治性﹀がいっそう強められることになった。しかしその後中国の国際社会への復帰が進み,日中国交が回復︵1972年9月︶すると再び日中貿易は拡大し,日本の経済界に一種の︿中国熱﹀が広がった。74年1月には︿日中貿易協定﹀︵政府間協定︶が調印され,友好貿易と覚書貿易という2本立ての貿易方式は廃止された。ところが中国国内で再び極左勢力が力を得,海外からの技術導入が︿洋奴﹀主義として批判されるに及び,日中貿易はまたかげりをみせ,76年,77年には毛沢東の死,︿四人組﹀失脚という国内の政治大変動が影響して,一時貿易は落ち込んだ。しかしその後登場した華国鋒,鄧小平政権が近代化︵いわゆる︿四つの近代化﹀︶実現のために積極的に対外開放政策を推進し,78年2月には︿日中長期貿易取決め﹀が締結されるに及んで,両国間の貿易は飛躍的に拡大することになった。78年12月には上海宝山製鉄所をはじめ,プラント成約が相次ぎ,ここに再び中国熱が日本の産業界に生まれたが,80年以後中国国内の経済調整に伴う建設プロジェクトの中断・削減が響き,これを機に,政府・民間ベースによる金融,資源開発,技術改善協力といった地道な経済協力に基づく日中貿易が展開されていくことになった。
日中貿易は1950年の5900万ドルから始まり,60年には2400万ドルと落ち込み,70年には8億2000万ドル,そして80年には94億ドルへと伸びてきた。両国の貿易総額に占める比重は,80年で日本の3.5%に対して中国では25%ときわめて高く,とりわけ中国にとり,日中貿易は経済発展に不可欠な海外からの資本・技術導入のルートになっており,かつての中ソ蜜月時代︵1950年代︶における中ソ貿易の役割を負っているといえる。中国は日本から鉄鋼,機械,化学工業品,化合繊を輸入し,これだけで対日輸入の9割を占める。他方,中国の対日輸出の6割は石油,石炭で,日中間にはいわゆる垂直的分業関係が成立している。80年代初めの段階で両国間にはまだ貿易不均衡は生まれていないが,中国産原油の供給力に限界があること,他方,日本の設備・技術の輸入に中国はきわめて熱心であることからみて,今後日本の輸出超過が構造化する素地は隠されている。
執筆者‥中兼 和津次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報