デジタル大辞泉
「更衣」の意味・読み・例文・類語
ころもがえ【更衣】[曲名]
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こう‐いカウ‥【更衣】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 衣服を着かえること。衣がえ。こうえ。また、初夏の衣がえ。
(一)[初出の実例]﹁奉入縑三疋。右更衣之間。為レ代二葛衣一奉入如レ件﹂(出典‥明衡往来︵11C中か︶上本)
(二)﹁更衣(コロモカヘ)︵︿注﹀カウイ︶一日 白重(しらかさね)﹂(出典‥俳諧・増山の井︵1663︶四月)
(三)② 後宮女官の名。もと、天皇の衣がえの御用を勤める役であったが、後には、天皇の妻の呼称となる。納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、地位は女御の下。ふつう五位、まれに四位に進む者があった。︹続日本後紀‐承和九年︵842︶︺
(一)[初出の実例]﹁いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に﹂(出典‥源氏物語︵1001‐14頃︶桐壺)
(四)③ 便所に行くこと。︹医案類語︵1774︶︺
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更衣 (ころもがえ)
︿こうい﹀ともよむ。毎年,季節に応じて着物を着かえたり調度を改めたりする日をいう。1年を2期に分けて,4月朔日︵1日︶から9月晦日までを夏装束,10月朔日から3月晦日までを冬装束とし,4月と10月の朔日に,それぞれ服飾はもとより室内の調度を改めるのを例としたので,この日を更衣といった。︽建武年中行事︾にも︿四月ついたち,御衣がへなれば,所々御装束あらたむ,御殿御帳のかたびら,おもてすずしに,胡粉︵ごふん︶にて絵をかく,壁代︵かべしろ︶みなてっす,よるの御殿もおなじ,灯籠の綱,おなじ物なれど,あたらしきをかく,畳おなじ,しとねかはらず,御服は御直衣︵のうし︶,御ぞすずしの綾の御ひとへ,御はり袴,内蔵寮︵くらのつかさ︶より是をたてまつる,女房きぬあはせのきぬども,衣がへのひとへからぎぬ,すずし,裳︵も︶,常のごとし﹀とある。この風は宮廷だけではなく,一般民衆の間にも浸透して,江戸末期の︽東都歳事記︾に︿四月朔日,更衣,今日より五月四日迄貴賤袷衣︵こうい︶︵あわせ︶を着す。今日より九月八日まで足袋をはかず。庶人単羽織︵ひとえばおり︶を着す﹀とみえ,4月1日から綿入れの衣を脱ぐことからして,四月一日と書いて︿わたぬき﹀とよむ風が起こったことが︽碧山日録︾にみえている。
執筆者‥鈴木 敬三
更衣 (こうい)
古代の天皇の︿きさき﹀の称。本来は天子の衣替えに奉仕する女官の称という。令外の︿きさき﹀としては,女御︵にようご︶の下位にあり,ともに令制の嬪︵ひん︶の下位に位置づけられた。位階は五位または四位止りであった。その成立は9世紀初頭。嵯峨朝における源氏賜姓と深くかかわる。更衣の生んだ皇子女は,更衣たちが皇親系諸氏,藤原氏,橘氏等有力氏族出身者である場合を除いてすべて源氏を賜姓した。史料的には後三条朝を下限とする。
→後宮
執筆者‥玉井 力
更衣 (ころもがえ)
催馬楽︵さいばら︶の曲名。歌詞は︿ころもがへせむや さきんだちや わが衣︵きぬ︶は 野原篠原 萩の花摺や さきんだちや﹀。平調︵ひようぢよう︶音を宮︵きゆう︶とする律の部に属し,拍子13。室町末期に伝承が絶えたが,江戸時代中期に古譜によって再興され,今日に至る。︽伊勢海︾︽安名尊︵あなとうと︶︾などと共に催馬楽の有名曲。
執筆者‥田辺 史郎
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更衣(ころもがえ)
ころもがえ
季節によって衣服、調度を改める行事。平安時代、宮中では4月1日と10月1日に行った。内蔵(くら)寮が装束類を、掃部(かもん)寮が御殿の調度類を用意する。夏になると壁代(かべしろ)︵壁のかわりに垂らした几帳(きちょう)のようなもの︶をかたづけて帷子(かたびら)︵几帳、帳(とばり)などに用いる一重の布︶をかけ、御座を敷き改め、衣服は単(ひとえ)とする。室町時代以後、綿入れ、帷子︵裏をつけない一重の服︶が用いられるようになり、4月1日に綿入れを脱ぎ、袷(あわせ)を着、寒いときには下に白小袖(こそで)を着る。このことから、4月1日を綿抜(わたぬき)の一日ともいう。また、武家ではこの日より足袋(たび)を用いずという規定もあった。江戸幕府の定めでは、4月1日から袷を着、5月5日から帷子︵一重の着物︶に着替える場合もあり、これを﹁五月の更衣﹂という。また、袷は4月1日から5月4日までと、9月1日から8日まで用いる風習もあった。そして、9月9日から綿入れ、袷小袖を用いる例もあり、﹁九月の更衣﹂ともいった。このため、10月1日を﹁後(のち)の更衣﹂ということもある。一般には江戸時代以後、現代に至るまで、平安時代の宮中の更衣の基準に倣っているのが普通である。
﹇山中 裕﹈
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普及版 字通
「更衣」の読み・字形・画数・意味
【更衣】こう(かう)い
着かえる。その室。また、便所。︹論衡、四
︺夫(そ)れ
衣の室は、
(くさ)しと謂ふべし。
字通﹁更﹂の項目を見る。
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更衣【こうい】
平安時代の女官で天皇の妾(しょう)。本来は天皇の身辺の世話をした。一般に中下級貴族の娘。四,五位に叙せられ,女御(にょうご)に次ぐ地位となる。
→関連項目淑景舎|御息所
更衣︻ころもがえ︼
季節に応じて着物を改める日をいう。古く宮中では旧暦4月1日と10月1日を更衣の日とし,冬から夏に,夏から冬に,それぞれ衣装を替え調度類をも改めた。この風はのち民間にも浸透した。神もまた更衣するものとして更衣祭を行う神社も少なくない。
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更衣
こうい
古代の令外のキサキの一つ。女御(にょうご)の次に位置し,五位または四位。皇子女をもうけた後は御息所(みやすどころ)とよばれたが,出身が皇親氏族・藤原氏・橘氏など有力氏族以外の更衣所生の皇子女は源氏となった。成立は9世紀初頭で,桓武朝との説もあるが,確実な史料上の初見は嵯峨朝。本来は天子の衣がえに奉仕した女官であり,﹁西宮記﹂によれば女蔵人(にょくろうど)らに下知し,天皇の日常の御盥(みたらい)や朝膳に奉仕することを日課とした。
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更衣
こうい
平安時代,後宮の女官の一つ。初めは,天皇が衣服を着替えるために設けられた便殿 (べんでん) を更衣と称したが,のちにはそばに仕える女官をさすようになった。女御 (にょうご) の次位にあって天皇の御寝に侍し,四,五位に叙された。最初は近衛の次将や受領の娘が任じられたが,次第に公卿の娘が任官するようになった。
更衣
ころもがえ
催馬楽 (さいばら) の曲名。﹁ころもがへせむや…﹂という歌い出しを曲名とする。朝覲 (ちょうきん) 行幸の宴席の御遊 (ぎょゆう) などに演奏された律の曲の代表曲として,﹁伊勢海﹂とともに知られたが,室町時代に廃絶。明治期に再興された。平調を主音とし,三度拍子というリズムパターンによる曲。
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世界大百科事典(旧版)内の更衣の言及
【後宮】より
…一方,宮人全体の地歩も高まり,777年(宝亀8)ごろから︿[女官]︵によかん︶﹀としての位置づけが明確化した。そして︽延喜式︾(927成立)には妃,夫人,[女御]︵にようご︶の后妃がみえるが,定員のない女御は光仁朝に登場したと推測され,平安初期には[更衣]︵こうい︶も生まれて,妃,夫人の称号も廃絶した。なお平安京の内裏では承香︵しようきよう︶殿,[常寧殿],[貞観︵じようがん︶殿],[弘徽︵こき︶殿],登華殿,麗景殿,宣耀︵せんよう︶殿の7殿,[昭陽舎],[淑景︵しげい︶]舎,[飛香︵ひぎよう︶舎],凝華︵ぎようか︶舎,襲芳︵しゆうほう︶舎の5舎を後宮という。…
【更衣】より
…毎年,季節に応じて着物を着かえたり調度を改めたりする日をいう。1年を2期に分けて,4月朔日(1日)から9月晦日までを夏装束,10月朔日から3月晦日までを冬装束とし,4月と10月の朔日に,それぞれ服飾はもとより室内の調度を改めるのを例としたので,この日を更衣といった。︽建武年中行事︾にも︿四月ついたち,御衣がへなれば,所々御装束あらたむ,御殿御帳のかたびら,おもてすずしに,胡粉︵ごふん︶にて絵をかく,壁代︵かべしろ︶みなてっす,よるの御殿もおなじ,灯籠の綱,おなじ物なれど,あたらしきをかく,畳おなじ,しとねかはらず,御服は御直衣︵のうし︶,御ぞすずしの綾の御ひとへ,御はり袴,内蔵寮︵くらのつかさ︶より是をたてまつる,女房きぬあはせのきぬども,衣がへのひとへからぎぬ,すずし,裳︵も︶,常のごとし﹀とある。…
【生活季節】より
…人間生活に関係の深い季節現象をいう。衣がえの初終日,冷暖房使用の初終日,蚊帳つりの初終日などがおもなものである。衣がえには夏服,冬服,オーバー,手袋などの着用の開始,終了がある。夏服の着用期間は北海道で6月末~9月半ばであるが,九州では6月初め~10月初めと長い。また,冬服については,北海道で10月半ば~5月初めであるが,九州では11月半ば~4月初めである。オーバーを着る期間は北で130日以上にもおよぶが,南では90日程度にすぎない。…
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