源氏物語(読み)ゲンジモノガタリ

デジタル大辞泉 「源氏物語」の意味・読み・例文・類語

げんじものがたり【源氏物語】

 
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精選版 日本国語大辞典 「源氏物語」の意味・読み・例文・類語

げんじものがたり【源氏物語】

 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源氏物語」の意味・わかりやすい解説

源氏物語
げんじものがたり

平安時代中期の11世紀初め、紫式部によって創作された長編の虚構物語。正しい呼称は「源氏の物語」で、「光源氏(ひかるげんじ)の物語」「紫の物語」「紫のゆかり」などの呼び方もある。後世は「源氏」「源語」「紫文」「紫史」などの略称も用いられた。主人公光源氏の一生とその一族たちのさまざまの人生を70年余にわたって構成し、王朝文化の最盛期の宮廷貴族の生活の内実を優艶(ゆうえん)に、かつ克明に描き尽くしている。これ以前の物語作品とはまったく異質の卓越した文学的達成は、まさに文学史上の奇跡ともいうべき観がある。以後の物語文学史に限らず、日本文化史の展開に規範的意義をもち続けた古典として仰がれるが、日本人にとっての遺産であるのみならず、世界的にも最高の文学としての評価をかちえている。

[秋山 虔]

巻冊数・成立事情

現存の『源氏物語』は次の54巻からなる。

 1桐壺(きりつぼ) 2帚木(ははきぎ) 3空蝉(うつせみ) 4夕顔(ゆうがお) 5若紫(わかむらさき) 6末摘花(すえつむはな) 7紅葉賀(もみじのが) 8花宴(はなのえん) 9葵(あおい) 10賢木(さかき) 11花散里(はなちるさと) 12須磨(すま) 13明石(あかし) 14澪標(みおつくし) 15蓬生(よもぎう) 16関屋(せきや) 17絵合(えあわせ) 18松風(まつかぜ) 19薄雲(うすぐも) 20朝顔(あさがお) 21少女(おとめ) 22玉鬘(たまかずら) 23初音(はつね) 24胡蝶(こちょう) 25蛍(ほたる) 26常夏(とこなつ) 27篝火(かがりび) 28野分(のわき) 29行幸(みゆき) 30藤袴(ふじばかま) 31真木柱(まきばしら) 32梅枝(うめがえ) 33藤裏葉(ふじのうらば) 34若菜(わかな)上 35若菜下 36柏木(かしわぎ) 37横笛(よこぶえ) 38鈴虫(すずむし) 39夕霧(ゆうぎり) 40御法(みのり) 41幻(まぼろし) 42匂宮(におうのみや) 43紅梅(こうばい) 44竹河(たけかわ) 45橋姫(はしひめ) 46椎本(しいがもと) 47総角(あげまき) 48早蕨(さわらび) 49宿木(やどりぎ) 50東屋(あずまや) 51浮舟(うきふね) 52蜻蛉(かげろう) 53手習(てならい) 54夢浮橋(ゆめのうきはし)
 紫式部が『源氏物語』の執筆に着手したのは、夫の藤原宣孝(のぶたか)(?―1001)に死別した1001年(長保3)から、一条(いちじょう)天皇中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した1005、1006年(寛弘2、3)までの間と推定されるが、54巻が、どの時点でどのあたりまで書かれたのかは明らかにしがたい。全部が完成したのちに発表されたのではなく、1巻ないし数巻ずつ世に問われたらしいが、まず最初の数巻が流布することによって文才を評価された式部は、そのために彰子付女房として起用されたのであろう。宮仕えののちも、しばしば里邸に下がって書き継いだとおぼしいが、また、すでに書かれた巻々の加筆改修も行われたらしいことが『紫式部日記』の記事によって知られる。なお、現行の巻序の順に書かれたのかどうか、現行の54巻の形態が当初のものであったのかどうかなど、論議が重ねられているが、決着をみない。その擱筆(かくひつ)の時期は、紫式部の没年について定説のないこととあわせて、明確にしがたい。

[秋山 虔]

あらすじ


11332344134254

 
第1部「桐壺」~「藤裏葉」

1()()()()()()()2()3()()殿()1()12()()2()()

 20殿()退()()()()()()()()()()23()()()殿()殿26()退1()()()

 2()32()()()

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第2部「若菜上」~「幻」

ところが第2部に入ると、物語の世界の基調は暗転し、朱雀院の重い病から語り起こされる。院は出家を願うが、すでに母女御に先だたれている内親王女三の宮(おんなさんのみや)の将来が憂慮されるので日夜思案に迷っていた。婿選びに苦慮したすえ、結局源氏にゆだねることによって出家することができたが、しかし女三の宮の源氏への降嫁によって、源氏と紫の上との年来の信頼関係を軸として保たれてきた六条院の調和が崩れ始める。もっとも源氏の世間的栄華は従前と変わりなく、むしろ増さるものであったといえよう。そして紫の上に養育されて東宮妃となった明石の姫君に男子が誕生し、この男子が将来帝位に上るであろうことも確実ゆえ、源氏の家門の末長い繁栄は約束されている。もとより誇り高く賢明な紫の上は、その知恵をもって六条院世界の秩序・調和の維持に努めたが、ついには心労のため病を得、六条院を去って二条院で養生する身となる。その紫の上の看病に源氏が余念のないころ、女三の宮は、かねてより彼女に思慕を寄せていた柏木(かしわぎ)に迫られ、身を許して身ごもった。この真相を知った源氏は、この事態を、かつて父院を裏切って藤壺と密通した罪の報いとして受容するほかない。女三の宮は罪の子薫(かおる)を生んでまもなく出家し、柏木は犯した罪の重みに堪えられず病み臥(ふ)していたが、源氏の長男夕霧に後事を託して世を去った。夕霧は柏木の遺族をいたわるうちに、残された妻落葉(おちば)の宮への同情はやがて恋慕に変じて、一方的に思いを遂げた。そのために夕霧と正妻雲居雁との仲も険悪化するに至る。こうして源氏の身辺には数々の不幸な事態が生起するが、そのなかで病状の悪化した紫の上は、源氏51歳の年に死去した。源氏は紫の上を追慕しわが生涯を顧みながら1年を過ごし、出家への心用意を整えた。こうして第2部は、源氏の無類の栄華が崩落していく過程が、さながら必然的な姿で語られている。現世の富も名声も、そして愛も絶対ではないのである。

[秋山 虔]

第3部「匂宮」~「夢浮橋」

第3部になると、源氏亡きあとの縁者の物語であるが、若干の後日譚(たん)を経て、いまは20歳となっている罪の子薫(かおる)と宇治の姫君たちとの交渉が宇治の地を背景として新しく語り起こされ、巻45の「橋姫」から最終巻「夢浮橋」の10巻は「宇治十帖(うじじゅうじょう)」とよばれている。わが出生の秘密を感じ取って世間への執着を断ち、出家への本願を抱く薫は、宇治に隠棲(いんせい)する俗聖(ぞくひじり)八の宮を求道の先達と仰いで通ううちに、その娘大君(おおいぎみ)にひかれ、やがて八の宮の死後大君に求婚するが、大君は薫と結ばれたなら、相手を理想化しての敬愛関係が崩壊するであろうことを恐れて、拒否した。かわりに妹の中の君を薫にめあわせようとするが、薫は、いまは中宮となっている明石の姫君の皇子匂宮(におうのみや)と中の君との仲をとりもち、結婚させた。しかし中の君の身の上を憂慮した大君は、心労の果てに病死した。大君を失った薫は、彼女のおもかげを中の君に求めたが、中の君から異腹の妹浮舟の存在を知らされ、尋ね出して宇治に住まわせた。しかし浮舟はやがて匂宮に迫られて契りを交わすはめになり、ついに進退に窮したすえ、宇治川に身を投じようと決意したが、横川(よかわ)の僧都(そうず)に救われて小野の山里に隠れ住み、僧都の得度により出家した。失踪(しっそう)した浮舟を捜し求めた薫は、その生存を聞きつけ、浮舟の弟を使者にたて浮舟を訪ねさせたが、浮舟はこれを見ず知らずの人として背を向けるのであった。現世における諸縁を断とうと努め、誦経(ずきょう)と手習いに明け暮れる浮舟は、薫の手の届かぬ境地を生きる人となっていた。

[秋山 虔]

享受・影響

『更級(さらしな)日記』に語られる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『源氏物語』への心酔は、同時代の享受の例として知られるが、これはかならずしも特殊な例ではあるまい。『源氏』は宮廷社会に限らず一般の貴族の家庭にも急速に流布した。貴族社会の繁栄期は、紫式部の生存した藤原道長の時代以後衰退の一途をたどったが、そうなれば過去の文化の盛栄を憧憬(しょうけい)する人々の心に『源氏』はますます権威をもって君臨することになる。院政期に、その一部が現存する『源氏物語絵巻』のような絵画芸術が宮廷の事業として制作されたことも、『源氏』が名作として評価されたことを示す。『狭衣(さごろも)物語』『浜松中納言(はままつちゅうなごん)物語』『夜の寝覚(ねざめ)』や『堤(つつみ)中納言物語』以下中世にかけてつくられた擬古物語はもとより、摂関時代の編年史の『栄花(えいが)物語』や以後の史書にも『源氏』の影響は著しい。和歌の詠作にも『源氏』がよりどころとなり、「源氏見ざる歌よみは遺恨(ゆいこん)の事なり」という『六百番歌合』の藤原俊成(しゅんぜい)の発言は、以後、中世の歌壇・連歌壇の風潮を規制するものとなった。宴曲、能楽にも『源氏』に取材する例が多く、さらに下って浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)の世界にも『源氏』は浸透したが、俳諧(はいかい)、川柳(せんりゅう)、雑俳(ざっぱい)などへの投影ともあわせて、それらは『源氏』が民間伝承と化した状態を物語るといえよう。中世から近世へかけての新旧文化の交代期を反映して『源氏物語』の受容は大衆化し、『湖月抄(こげつしょう)』ほかの啓蒙(けいもう)的な注釈や本文が数多く版行され、梗概(こうがい)書や俗語解・俗訳書も少なくはなく、『源氏』のもじりとして特筆される井原西鶴(さいかく)の『好色一代男』や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』もそうした基盤のうえにつくられたのであった。

 近代に入っても、与謝野晶子(よさのあきこ)、窪田空穂(くぼたうつぼ)、谷崎潤一郎(じゅんいちろう)、円地文子(えんちふみこ)などによって現代語訳が行われ、舟橋聖一や北条秀司(ひでじ)によって演劇化されるほか、多くの梗概書、翻案などが読者を獲得しているのは、『源氏物語』に日本人の美意識や感受性の原型がみいだされるからでもあろう。

 なお、『源氏』は早くA・ウェーリーの優れた英語訳(1923~1933)によって海外にその価値が認められ、この英訳に基づくさまざまの外国語訳が生まれた。第二次世界大戦後、欧米における日本古文化の研究の進みとともに『源氏』への関心も深まり、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の1965年度(昭和40)の世界偉人暦に紫式部が最初の日本人として登載されもした。E・G・サイデンステッカーの英語訳(1978)、シフェールRené Sieffert(1923―2004)の仏語訳(1978)や林文月(りんぶんげつ)(1933―2023)の中国語訳(1974~1978)、豊子愷(ほうしがい)(1898―1975)の同じく中国語訳(1980~1982)がそれぞれ全訳として話題をよんだ。I・モリスの『光源氏の世界』(1964、日本語版1969)のごとき精緻(せいち)な研究も生まれた。ペカリックAndrew Pekarik編集の『浮舟――源氏物語の愛』(1982)には、サイデンステッカーやA・マイナーらアメリカの研究者のさまざまの方法による論文10編が収められている。

[秋山 虔]

諸本と研究


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 (1)(7)194619551418 (1)(5)19581963122196419661217 (1)(6)19701976 (1)(10)197619851423 (1)(10)19831988196019648195319561419841985 19691982819711973919801984 1983197321978198219796 19791997

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改訂新版 世界大百科事典 「源氏物語」の意味・わかりやすい解説

源氏物語 (げんじものがたり)


54

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 西西192233

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百科事典マイペディア 「源氏物語」の意味・わかりやすい解説

源氏物語【げんじものがたり】

 
541008()10︿︿︿︿︿
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源氏物語」の解説

源氏物語
げんじものがたり


541001(3)10(7)13313441242543123()800()

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源氏物語」の意味・わかりやすい解説

源氏物語
げんじものがたり

 
54 (100412) 31姿23 ()   

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旺文社日本史事典 三訂版 「源氏物語」の解説

源氏物語
げんじものがたり

 

1154  

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デジタル大辞泉プラス 「源氏物語」の解説

源氏物語〔漫画〕

牧美也子による漫画作品。平安時代を舞台にした希代の貴公子・光源氏を主人公にした王朝絵巻。『ビッグコミックフォアレディ』1988~1990年に連載。小学館FL COMICS全10巻。第34回(1988年度)小学館漫画賞 青年一般部門受賞。
 

 
195110  

源氏物語〔煎茶〕

京都府宇治市に本店を置く茶専門店、三星園(みつぼしえん)上林三入(かんばやしさんにゅう)本店が販売する煎茶。

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防府市歴史用語集 「源氏物語」の解説

源氏物語

 平安時代に紫式部[むらさきしきぶ]の書いた物語で、光源氏[ひかるげんじ]を中心に物語が進みます。全部で54巻あります。現在伝えられているものに、青表紙本[あおびょうしぼん]・河内本[かわちぼん]・別本[べつぼん]の3つがあります。

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世界大百科事典(旧版)内の源氏物語の言及

【ウェーリー】より

…イギリスの東洋学者。ケンブリッジ大学古典学科を卒業,大英博物館版画部門に勤めつつ,日本語,中国語を独習,《中国詩百七十篇》(1918,改訂1927)を手はじめに漢詩の翻訳を手がけ,さらに《源氏物語》の翻訳(6巻,1925‐33),《枕草子》の翻訳(1928)によって日本古典文学を世界に紹介した。彼の漢詩の翻訳は,エズラ・パウンドのそれのようにイメージを中心にしたものとは異なって,原詩のリズムを写すことによって新しい詩法を編み出すことになった。…

【小野】より

…もと南淵年名の小野山荘のあとで,一乗寺から比叡山の登山道〈雲母坂(きららざか)〉があり,この付近を西坂本と称し,軍記物語などにしばしばあらわれる。また,《源氏物語》では,柏木に死別した落葉宮が幽棲した所として〈夕霧〉巻に華麗に描かれ,山荘を訪れた夕霧大将の歌に〈里遠み小野の篠原分けてきて我もしかこそ声も惜しまね〉がある。同書〈手習〉巻では横河(よかわ)僧都の住居をここにあったとし,入水した浮舟が介抱されたとしている。…

【河海抄】より

…南北朝時代の《源氏物語》注釈。20巻。…

【花鳥余情】より

…室町時代の《源氏物語》注釈。30巻。…

【細流抄】より

…室町時代の源氏物語注釈。《公条(きんえだ)聞書》《三条西家抄》とも呼ばれた。…

【更級日記】より

…作者は上総介であった父孝標とともに東国に過ごし,1020年(寛仁4),任期満ちた父とともに帰京の途につくが,その年から起筆し,59年(康平2)ころまでのことを記しているので,その年以後まもなく成立したと考えられる。〈あづま路の道のはてよりもなほ奥つかたに生ひ出でたる人,いかばかりかはあやしかりけむを……〉と,東国に生い立った自分を第三人称で書き起こし,そのころの作者が姉や継母によって語られるさまざまの物語,ことに《源氏物語》によって空想をかきたてられ,早く上京して多くの物語を見たいという熱い願いを抱きつづけたことをまず述べているが,やがて念願かなって13歳の年に上京の日が到来する。以下,京への途次の風物を印象深く叙し,〈まののてう〉の古跡,竹芝寺伝説,足柄の遊女,富士川の除目(じもく)にまつわる奇譚など土俗的な伝承や見聞に筆をさきつつ,入京まで3ヵ月を要した旅の記がつづられる。…

【紫明抄】より

…鎌倉時代の《源氏物語》注釈。著者は素寂(そじやく)。…

【女流文学】より

…この日記は藤原兼家の妻としての悲喜哀歓を克明に内面的に記しているが,《和泉式部日記》も敦道親王との愛の交渉を物語風に語る特異な作品である。一条天皇の時代(986‐1011)は女流文学の最盛期で,清少納言の《枕草子》は,日本文学史上最初の随筆文学として独自の美意識の体系を創出し,また紫式部の《源氏物語》は従来童幼婦女子の娯楽の具とされていた物語を男性知識人も無視することのできない創作文学へと高めた。和漢の先行文学を縦横に引用する格調高い文章によって書かれたこの作品は,壮麗な虚構の同時代史であるとともに深い人間省察の文学であった。…

【寝殿造】より

… 平安時代の結婚の形態には夫婦同居制と別居制の両方があったようだが,同居の場合でも夫婦は別々の棟で生活するのが普通だった。たとえば《源氏物語》の主人公,光源氏は二条院を居所としていたが,光は寝殿を,妻の紫の上は西の対を生活の場としていた。そして日常生活に必要な樋殿(ひどの)(便所)や湯殿(浴室)などの設備もそれぞれ別個に設けられ,食事さえ別々に行われた。…

【本説】より

…本説に依拠して詠歌することは,〈本歌取り〉と同様に,表現内容を豊かにし余情を深める技法として古くから行われたが,もっとも盛んであったのは新古今時代である。特に藤原俊成が《六百番歌合》の判詞で《源氏物語》尊重を主張して以来,《源氏物語》をはじめとする平安朝物語を典拠とすることが中世の歌人たちに広く行われた。また《白氏文集》《和漢朗詠集》なども重んじられた。…

【岷江入楚】より

…《源氏物語》の注釈書。中院通勝(なかのいんみちかつ)著。…

【無名草子】より

…著者は新古今歌人の藤原俊成女と推定される。内容は,《源氏物語》を中心に《狭衣(さごろも)物語》《夜半の寝覚(ねざめ)》《浜松中納言物語》その他散逸物語に及ぶ20編の物語についての論評,《万葉集》《古今集》以下《千載集》に至る勅撰集を取り上げた歌集評,および小野小町,清少納言,和泉式部など平安時代の代表的女流歌人に対する人物評からなり,それらを女房たちの会話の形で述べる。なかでも中心となるのは《源氏物語》に関する部分で,桐壺巻をはじめとする代表的な巻々についての批評,作中人物評,作中の印象的な場面の指摘など,それだけで本書の3分の1を占める。…

【物語文学】より

…ここにいう物語文学も,こうした広い意味での物語の一つの特殊な形態と考えていい。〈物語の出で来はじめの祖〉(《源氏物語》)なる《竹取物語》以下,平安中期から鎌倉時代にかけて作られ,おもに貴族の間でもてはやされた物語冊子の類を,日本文学史ではとくに物語文学と呼ぶ。《今昔物語集》や《平家物語》などは,物語の名がついているけれど,ふつう物語文学のなかには入れず,それぞれ説話文学,戦記文学または軍記(物語)という例になっている。…

【夕顔】より

…旅の僧(ワキ)が京都の五条あたりを通ると,ある家から和歌を吟ずる声がする。僧が言葉をかけると,それは若い女性(前ジテ)で,ここは《源氏物語》に書かれた某(なにがし)の院の旧跡であると教える。女はさらに,夕顔上と光源氏が結ばれたときのことから,某の院に泊まった夜に,怨霊のたたりで夕顔上が突然死去したことを物語り,姿を消す(〈クセ〉)。…

※「源氏物語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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