東家 楽遊(2代目)
アズマヤ ラクユウ
職業
浪曲師
本名
中村 幸吉
別名
前名=東家 小楽,後名=東家 悟楽斎
生年月日
明治14年
出生地
東京・神田松枝町
経歴
初代東家楽遊の門下大吉の弟子となり小楽と名乗った。楽遊は孫弟子の小楽の才を高く評価、明治末年2代目楽遊を継がせた。41年には新富座公演で3日連続満員となった。都新聞に連載された渡辺黙禅の小説﹁勤王美談小松嵐﹂を浪曲化して大ヒット、日蓄がレコード化して同社の10年間トップを続かせるドル箱となった。﹁塩原多助﹂﹁牡丹灯籠﹂﹁五寸釘寅吉﹂﹁海賊房次郎﹂﹁生首正太郎﹂などが得意の演題。晩年弟子の左楽遊に3代目を継がせた。
没年月日
昭和35年 3月10日 (1960年)
東家 楽遊(初代)
アズマヤ ラクユウ
職業
浪曲師
本名
岡部 運太郎
生年月日
安政6年10月10日
出生地
武蔵国 男衾郡小原(埼玉県 熊谷市)
経歴
生家は三峰山青物御用達を務めたといわれる。芸事を好んで各地を渡り歩き、上州で吉川花丸の一座に加わり、さらに初代東家三楽に入門して楽遊を名乗った。明治中期に東京へ出て以降、東家宗家として関東の浪曲界に重きをなした。明治39年東家三叟を、晩年は悟楽斎三叟を名乗った。淡々とした語り口で、﹁水戸黄門記﹂﹁塩原孝子伝﹂などを読んだ。
没年月日
大正14年 11月9日 (1925年)
家族
長男=東家 楽燕(浪曲師)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
東家 楽遊(2代目)
アズマヤ ラクユウ
明治〜昭和期の浪曲家
- 生年
- 明治14(1881)年
- 没年
- 昭和35(1960)年3月10日
- 出生地
- 東京・神田松枝町
- 本名
- 中村 幸吉
- 別名
- 前名=東家 小楽,後名=東家 悟楽斎
- 経歴
- 初代東家楽遊の門下大吉の弟子となり小楽と名乗った。楽遊は孫弟子の小楽の才を高く評価、明治末年2代目楽遊を継がせた。41年には新富座公演で3日連続満員となった。都新聞に連載された渡辺黙禅の小説「勤王美談小松嵐」を浪曲化して大ヒット、日蓄がレコード化して同社の10年間トップを続かせるドル箱となった。「塩原多助」「牡丹灯籠」「五寸釘寅吉」「海賊房次郎」「生首正太郎」などが得意の演題。晩年弟子の左楽遊に3代目を継がせた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
東家楽遊
あずまやらくゆう
浪曲師。初代︵1858―1925︶の孫弟子にあたる2代目︵1881―1960︶がもっとも有名。桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)に対抗して、1908年︵明治41︶の新富座公演では連日満員の成功を収めた。当時評判の新聞小説による﹃勤皇美談小松嵐(こまつあらし)﹄の一節﹁殺さば殺せ馬子のとき……﹂は広く大衆に愛唱されたという。ほかにも﹃塩原多助﹄﹃五寸釘寅吉(ごすんくぎとらきち)﹄﹃生首正太郎(なまくびしょうたろう)﹄﹃義士伝﹄などで高い人気を博し、後年弟子の左楽遊(さらくゆう)に3代目︵1896―1964︶を譲った。なお初代の実子東家楽燕(らくえん)︵1887―1950︶も名人といわれ、﹃召集令﹄その他で東家の名をさらに高めた。
﹇秩父久方﹈
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
東家楽遊(2代) あずまや-らくゆう
1881-1960 明治-昭和時代の浪曲師。
明治14年6月3日生まれ。初代東家楽遊の孫弟子。はじめ小楽を名のる。渡辺黙禅の新聞小説を浪曲化した「勤王美談小松嵐」は大評判をえた。「塩原多助」「牡丹灯籠」などを得意とした。昭和7年弟子の左楽遊に3代をゆずり,東家悟楽斎と称した。昭和35年3月10日死去。78歳。東京出身。本名は中村幸吉。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
東家 楽遊(2代目) (あずまや らくゆう)
生年月日:1881年6月3日
明治時代-昭和時代の浪曲師
1960年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報