松平定信(読み)マツダイラサダノブ

デジタル大辞泉 「松平定信」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐さだのぶ〔まつだひら‐〕【松平定信】

 
17591829()()71787()()()()  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「松平定信」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐さだのぶ【松平定信】

 

(一)
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信
まつだいらさだのぶ
(1758―1829)


()()81227()8()()17743()()()1783311()()()()17876()()3()()()()()()()()()調179357()()()()()()退18107沿1812()()()1251372()

 ()12()200退退()()()()

 

19371983 121976

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信【まつだいらさだのぶ】

 
()177417831787()
 

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信 (まつだいらさだのぶ)
生没年:1758-1829(宝暦8-文政12)


8121774383311876

 9351812929513︿

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「松平定信」の解説

松平定信

没年:文政12.5.13(1829.6.14)
生年:宝暦8.12.27(1759.1.15)
江戸後期,寛政の改革を断行した老中。父は御三卿田安宗武,母は山村とや。徳川吉宗の孫。幼名は賢丸。安永3(1774)年陸奥国白河藩主松平定邦の養子となる。兄が亡くなり,絶家の危機を迎えた田安家への復帰が謀られたが実現しなかった。養子に出したのも復帰を妨げたのも,定信を恐れた田沼意次の策略といわれる。天明3(1783)年白河藩主となり,天明飢饉に餓死者を出さず名君と讃えられた。同6年将軍徳川家治が亡くなると,一橋家の15歳の家斉が将軍となった。定信が田安家にいれば将軍になった可能性は十分にあり,将軍になり損ねたといえる。その怨念もあってか田沼への憎しみは激しく,敵として2度も刺し殺そうとしたほどで,気性の激しさをみせる。一橋治済や御三家は,定信を老中にして幕政を改革させようとしたが,田沼派の妨害で実現しなかった。 天明7年江戸の大規模な打ちこわしが引き金となって田沼派が失脚すると,ついに老中に就任し寛政の改革を宣言,翌年将軍補佐役にもついて幕府の全権を掌握し強権的改革を推進した。大飢饉,百姓一揆・打ちこわしの激化,農村荒廃,幕府の財政危機,ロシアの接近など内外の深刻な危機打開のため,自分と妻子の命を賭けるとの決意を込め難局に当たった。政策は,農業を重視し,荒廃農村の再建,飢饉対策の米備蓄,七分金積立による江戸町会所設立,人足寄場設置などの封建的社会政策を採用した。棄捐令により,困窮した旗本,御家人を救済,また,朱子学を正学とする寛政異学の禁を出し,湯島の聖堂を幕府の学問所として整備拡充し幕臣教育に当たらせ,医学館,和学講談所の整備など文教を重視。大政委任論を表明し,曖昧だった朝廷との関係を明確にして幕府権威の強化をはかる一方,京都御所再建では朝廷側の復古的造営要求に押し切られたが,尊号事件では天皇の要求にも拒否を貫き,公家を処罰した。ロシア使節ラクスマンの通商要求に,内心は通商許可を覚悟しつつ鎖国は祖法であると表明し,江戸湾防備計画を自ら視察して立案,また北方防備のため北国郡代の新設など国防体制を模索。朝鮮蔑視観から通信使の延期・対馬聘礼も決定した。その政策には当初強い支持が集まったが次第に反発も強まり,しかも将軍家斉が成人し補佐役定信としっくり行かなくなり,寛政5(1793)年辞職。 その後文化9(1812)年まで藩政をみるとともに,著作活動を活発に行い,特に『集古十種』は著名。隠居し楽翁と号したが,危機意識はさらに強まり,国,幕府,藩の将来を案じ続けた。和漢の学問から獲得した学識をもって現実政治に当たり,問題を歴史的,本質的にとらえて解決しようとする学者的姿勢が強く,幕政全般にわたる改革により体制のタガを締め直し,幕府の相対的安定期を生み出した。また国家護持意識が強く,自らの神格化もはかり,守国院と諡られた。<参考文献>渋沢栄一『楽翁公伝』,藤田覚『松平定信』

(藤田覚)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信
まつだいらさだのぶ

 
[]8(1758).12.27. 
[]12(1829).5.13. 
383 (1774) 3 (1783) 75 (1793)  (1822)  (1781)   

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「松平定信」の解説

松平定信
まつだいらさだのぶ


1758.12.271829.5.13

8()10()1783(3)8793(5)()1812(9)()138

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平定信」の解説

松平定信 まつだいら-さだのぶ

1759*-1829 江戸時代中期-後期の大名。
宝暦8年12月27日生まれ。徳川吉宗の孫。田安宗武(むねたけ)の7男。松平定邦(さだくに)の婿養子となり,天明3年陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩主松平(久松)家3代。藩の農政,財政に実績をあげ,7年老中首座,翌年将軍補佐に就任。田沼政治を刷新するため旧里帰農奨励令,札差棄捐(きえん)令,風俗匡正(きょうせい)令,物価引下令,人足寄場(よせば)設置令,異学の禁などの「寛政の改革」を断行した。文政12年5月13日死去。72歳。号は花月主人,楽翁など。越中守。著作に「国本論」「集古十種」,随筆「花月草紙」,歌集「三草(みくさ)集」,自伝「宇下人言(うげのひとこと)」など。
【格言など】憂国の心あるべし,憂国の語あるべからず(「花月草紙」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「松平定信」の解説

松平定信
まつだいらさだのぶ

1758〜1829
江戸後期の幕府老中で,寛政の改革の実施者
号は白河楽翁。田安宗武の子。1783年白河藩主となり,天明の飢饉を切り抜け名声を高めた。'87年老中首座となり,11代将軍徳川家斉 (いえなり) を補佐して寛政の改革を断行したが,尊号一件や大奥の改革が原因で'93年辞職。晩年は著述に専念し,『宇下人言 (うげのひとこと) 』『花月草紙』『国本論』などを著した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「松平定信」の解説

松平定信 (まつだいらさだのぶ)

生年月日:1758年12月27日
江戸時代中期;後期の大名;老中
1829年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松平定信の言及

【宇下人言】より

…寛政改革の中心人物松平定信の自叙伝。1巻。…

【海防】より

…ロシアの千島進出による蝦夷地問題を契機に,林子平,本多利明,工藤平助らが,蝦夷地開発とともに海防の必要性を説いた。とくに,1792年(寛政4),ロシア使節ラクスマンが根室に渡来して通商を求め,江戸回航を主張するに及んで老中松平定信は,長崎以外に海防体制のない欠陥を痛感し,北国郡代設置による北方防備を構想するとともに,みずから伊豆,相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練った。1806年(文化3)以降の蝦夷地におけるロシアとの紛争,08年のフェートン号事件を契機に,10年,会津藩に相模,白河藩に上総,安房の沿岸の防備を命じて砲台を築き,江戸湾防備にあたらせた。…

【花月草紙】より

松平定信の随筆。6巻。…

【寛政異学の禁】より

…1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772‐81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。頼春水,尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里,西山拙斎らの主張,とくに西山拙斎の定信への建白が強かったという。…

【寛政改革】より

…享保,寛政,天保の三大改革の一つ。1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。
[背景]
 寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。…

【金石学】より

…しかし日本では宋代の金石学は広まらず,江戸時代に入り《大日本史》が編さんされるころにようやく,歴史が考証的に研究されはじめ,那須国造碑など金石文への注意が払われるようになった。その後,元禄時代以降,鐘銘,碑文などの収集が行われ,松平定信は《集古十種》(1800)を編み,寛政当時の金石・考古資料の集成を試みている。こうした背景のもとに江戸時代後期にいたって,日本の金石学は国学や清朝の考証学の影響下で本格的となった。…

【兼六園】より

…もと前田利長の時代からの加賀藩主の庭園で,1676年(延宝4)5代藩主綱紀が整備し,雅宴を催したことが知られるが,1759年(宝暦9)の大火後荒廃した。11代治脩(はるなか)と12代斉広が池の改修,御殿の築造をおこない,1822年(文政5)松平定信(白河楽翁)に園の命名を依頼した。〈兼六園〉とは中国宋の李格非の《洛陽名園記》からとったもので,〈宏大,幽邃(ゆうすい),人力,蒼古,水泉,眺望〉の六勝を兼ねた名園を意味している。…

【七分積金】より

…寛政改革の中で,江戸町方を対象として始められた都市政策。1791年(寛政3)12月,松平定信らを中心とする幕閣は,町奉行所を通じて江戸の名主,地主,家守(やもり)にあてた長文の町触で,江戸町方支配の大改革を行う旨を告げた。これが,町法改正,七分積金令と呼ばれるもので,以後幕末・維新期まで江戸の都市政策の根幹をなした。…

【集古十種】より

…松平定信の編纂した古宝物の模写図録集。85巻。…

【白河藩】より

…1651年本多忠義の総検地によって藩体制が確立,1716年(享保1)から36年(元文1)には農民一揆,家中騒動が発生した。天明飢饉の渦中に藩主となった松平定信は,領民救済・農村復興・殖産興業策を実施して藩の再建をはかり,また87年(天明7)老中首座に登用され寛政改革を断行した。戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟軍の拠点として激戦が展開された。…

【生祠】より

…生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。明治天皇を生祠とした例は,第2次大戦前まで全国的に分布していた。…

【徳川家斉】より


11(180430)50

【人足寄場】より


 1780(9)宿宿宿宿

【抜荷】より

…また唐・蘭船の輸入品は正徳新例(海舶互市新例)公布後はすべて,蘭貨は出島で唐貨は長崎会所で会所役人が値組と呼ばれる評価方法で買い取り,有資格の商人に入札させて落札者に輸入貨を引き渡すことになっていたから,この手続を犯して唐・蘭船と直接取引するのは抜荷であった。 幕府は1721年(享保6)日本人が外国に行ってする密貿易と,長崎その他国内でする密貿易とを区別し,後者は死刑を廃止して耳,鼻をそぐ身体刑とし,縁坐,連坐の制をも廃止したが,88年には老中筆頭松平定信の主導で寛刑方針を捨て,金・銀・銅銭を用いた密買者は額の多少にかかわらず死刑,10両以上の荷物を密買した者も死刑,また密買の再犯者をも死刑とした。しかし幕府は唐・蘭人には抜荷の刑罰を適用せず,また大名のような大物は抜荷犯として捕らえなかった。…

【長谷川平蔵】より


()西1786(6)

【藩政改革】より

…このように治憲就封前夜の藩内状況はきびしいものであった。 この緊迫度は,松平定信が党派をつくり田沼意次の暗殺を決意した同時代の事情にも通ずるものであろう。1768年12月,米沢藩医藁科(わらしな)貞祐が同志の郷村出役小川源左衛門尚篤に差し出した書簡の一節は,まことに鋭い政治的感性をもって,時代の大きく変化してゆく予兆を述べている。…

【世直し】より

…なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
[世直し騒動]
 1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。…

※「松平定信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

選挙公営

国または地方公共団体が個々の候補者の選挙費用の一部または全額を負担すること。選挙に金がかかりすぎ,政治腐敗の原因になっていることや,候補者の個人的な財力によって選挙に不公平が生じないようにという目的で...

選挙公営の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android