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「山西省」の意味・読み・例文・類語
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さんせい‐しょう‥シャウ【山西省】
(一)中国の省の一つ。太行山脈の西に位置するのでこの名がある。黄土高原の東部で、北辺を長城、西辺と南辺の半ばを黄河で、それぞれ区切られている。省都太原のほか、大同、長治、陽泉などの都市がある。鉱産物に富み、石炭、鉄、食塩、硫黄、石膏などを産す。山右。晉。山西。
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山西[省] (さんせい)
Shān xī shěng
中国の華北平原の西,黄河の中流地帯に位置する行政地域。太行山脈の西に当たるのでその名が生まれた。別名は晋︵しん︶。面積15万6300km2,人口3247万︵2000︶。省都は太原市。5地区,6地級市,16県級,85県を管轄する。
自然
地勢は北東から南西に向かって傾斜し,黄土高原の東部を形成するが,普通に山西高原といい,平均標高1000m前後である。東部と南東部とでは太行山脈が河北省,河南省との,南部では中条山脈が河南省との境界をなし,西は黄河によって陝西省と隔てられ,北は万里の長城︵外長城︶が内モンゴル自治区との間を区切っている。地形は断層や流水の作用によって複雑だが,つぎの3区に大別される。︵1︶晋中盆地 本省中部を縦貫する断層地溝帯で,北から南に向かって次の五つの河谷盆地が並ぶ。北東に流れる桑乾河︵そうけんが︶流域の大同,忻︵きん︶県盆地,南に貫流する汾河︵ふんが︶︵汾水︶流域の太原,臨汾︵りんふん︶盆地,その南の涑水河︵そくすいが︶流域の運城盆地がそれで,盆地底部は標高250~1000m。いずれも土壌が肥え灌漑は便利で,本省の主要な農業地帯であり,経済活動の中心である。︵2︶晋東山地 おもに東部と南東部にわたり,太行山脈を中心として北東から南西へ恒山,五台山,繫舟︵けいしゆう︶山,太岳山,中条山の諸山脈が走っている。すべて標高1500m以上で,山間に長治,平定,晋城,寿陽等の盆地が散在し,太行山脈中には娘子関︵じようしかん︶,天井関︵てんせいかん︶︵太行関︶など,山西高原から華北平原に通ずる重要な峠道がある。北の内長城線には雁門関︵がんもんかん︶,平型関等の要害があり,とくに雁門関の南北では気候と農作物に大差がみられる。︵3︶晋西高原山地 黄河と晋中盆地との間にあって,呂梁︵りよりよう︶山脈を主軸とし中央部に位置する主峰の関帝山付近は標高2000m以上,南部は1500m前後。黄土層の厚さは10m以上30mを超えるところもあるが,無数の渓谷に切断されて平地は少なく,ことに西部は省内でも水土の流失がもっとも激しい地域である。
つぎに黄河は陝西省との間の断層谷を通過するとき,呂梁山脈の南西端で壺口や竜門の急流となり,東に方向を転ずると,河南省との間にかつては三門峡の険所をつくっていた。しかし,三門峡には1960年ダムが完成し,河南省側に大型水利センターが建設された。黄河の支流としては汾河,涑水河,沁河︵しんが︶等がある。汾河は黄河第2の支流で,全長716km,本省の水利,交通の大動脈であるが,増水期には水量が渇水期の100倍にも達するので,段々畑︵梯田︵ていでん︶︶の造成と山地の緑化を積極的に進めて,泥砂の流失を防止している。本省東部の河川はみな東に流れて河北省に至り,桑乾河は永定河となり,滹沱河︵こだか︶は子牙河に,清漳河︵せいしようが︶と濁漳河は衛河に入り,合流して海河となって天津市付近で渤海湾に注ぐ。湖沼では運城の解池︵塩池︶が最大で,食塩を産出し,解塩の名で古来有名である。
一般に地勢が高く東と南を山脈に囲まれているので,華北平原に比べて気温は低く,冬は寒冷で夏は比較的涼しい。年平均気温は北から南へ行くに従って5~15℃の差がみられ,最冷の1月は-2~-12℃,最熱の7月は22~27℃である。降水量も北から南へ行くに従い平均年330~600mmと増加し,夏季の降水量は全年の60%以上を占める。
歴史
本省の南部,汾河の下流域は旧石器時代にさかのぼり,中国最古の文化が発達したところのひとつであり,夏王朝の都は安邑︵あんゆう︶︵現,夏県︶にあったと伝えられる。周の初めにこの地方から起こった晋は全省を平定し,春秋時代には全盛期を迎えたが,戦国時代になると韓・魏・趙の3国︵三晋という︶に分かれた。秦が天下を統一したとき,南西部を河東郡,南東部を上党郡,中央部を太原郡とし,漢代ではそのほかに北辺部に西から雲中,定襄,雁門,代の4郡を設けた。河東郡を除いた6郡の地域を幷州︵へいしゆう︶に所属させ,後漢になるとその行政中心を太原においたのである。漢代の河東郡は東の河内︵かだい︶郡,南の河南郡と合わせて三河と呼ばれ,天下の文化・経済の中心であるとともに,西・北方面に向かう交通貿易路の通過地であった。後漢の末には匈奴がしだいに内地に入りこみ,漢民族を圧迫しつつ北部の要地を占拠した。やがて,その後方から鮮卑が南下してきた機会に,匈奴の劉淵︵りゆうえん︶は漢王と称して離石に都をおき,ついで平陽︵現,臨汾市︶に移って五胡十六国時代のさきがけをなしたのである。この時代,当地は趙︵後趙︶,秦︵前秦︶をへて燕︵西燕。都は初め平陽,のち聞喜より長子に移る︶の領有となったが,鮮卑拓跋︵たくばつ︶氏が西燕に代わった燕︵後燕︶を滅ぼし,397年︵皇始2︶平城︵現,大同市︶に魏︵北魏︶王朝を立てた。魏の孝文帝が平城から洛陽に都を移したのは493年︵太和17︶である。魏ののちは東魏と西魏,斉︵北斉︶と周︵北周︶が対立し,本省南部が争奪地となったが,長安を根拠とする周の勢力に屈して斉は滅んだ。このころ北方では突厥︵とつくつ︶が強力で,北周に代わった隋はこれに悩まされ,唐は突厥の後援を得て隋を倒すことができたのである。唐の根拠地であった太原は建国ゆかりの地として北都といわれ,唐代を通じ本省は河東道に属し,中期以後,河東・河中・沢潞︵たくろ︶3節度使が分置された。
五代になると,晋︵後晋︶が建国にさいし遼︵契丹︶の援助を受けた代償に,今日の大同︵雲州︶と北京︵燕州︶地方を含んだ,いわゆる燕雲︵えんうん︶十六州を譲与したので,万里の長城内の本省北部は中国の直接支配から離れたのである。その後,太原には漢︵後漢︶の残党が遼の援助のもとに北漢を立てた。この国は宋に滅ぼされ,その支配下に帰したが,大同を中心とする北方領土は回復することができず,宋ではその他の地域を河東路に所属させた。宋に代わって金︵女真︶が華北を領有すると,初め河東・西京の両路とし,のちには河東南・北路に分けた。元では中書省に直属して晋寧︵しんねい︶・冀寧︵きねい︶・大同の三路を管轄した。明に至って山西等処承宣布政使司を太原においたので,ここに初めて山西省の名が生まれた。明代には北のモンゴル民族に対する軍需基地となったため,当地の商人は北京官界にも進出し,山西商人といわれて後世まで中国の経済界に大勢力をもった。清になると,帰化城,綏遠︵すいえん︶ほか現在の内モンゴル自治区の一部を所轄に加えたが,中華民国では綏遠省が成立してこれらの土地はその所属に移った。
産業,交通
かつて本省は水利が発達せず,水土の流失のため耕地が少なく農業は遅れていた。解放後,︿水土保持工作﹀が唱えられ,ダムの建設や段々畑の造成によって灌漑面積が増大したほか,北部では防護林を作って風砂の侵害や地表の水分蒸発を防いでいる。太行山脈中の昔陽県の大寨︵たいさい︶は,このような新中国の農業政策を代表する模範的農村として有名であった。本省の耕地は全省面積の約1/4を占め,穀物では麦を第1としてトウモロコシ,コーリャンがこれに次ぎ,綿花,タバコ,ゴマ,ラッカセイ,ダイズなども栽培される。雁門関以北では農作物は1年1熟で,耐寒性の強いアワ,莜麦︵ユーマイ︶︵ソバの一種︶,ゴマなどを主とし少量の春小麦がとれるが,雁門関以南では2年3熟で,冬小麦と綿花を主とし汾河下流域と運城盆地とがその中心である。牧畜は北西地域に盛んで,森林は呂梁山脈北部と中条山脈一帯に発達している。鉱物資源は豊富で,とくに石炭の埋蔵量は全国6000億t中の1/3を占め,品質はすこぶる優良である。その分布は全省の2/3にわたり,大同,太原の西山,陽泉等の諸炭田が有名である。鉄鉱も各地から出るが,長治を中心とした南東部と陽泉を中心とした東部に集中している。さらに中条山脈の銅,平陸のセッコウのほか硫黄,ボーキサイト,運城の食塩などが重要である。これに応じて製鉄,機械製造工業が発達し,紡績,織物,食品,製紙,日用化学工業などの軽工業も興ってしだいに自給が可能となり,近年ではセメント,化学肥料等の重工業も開始された。伝統的な特産品としては汾陽杏花︵きようか︶村の汾酒,清源︵太原市清徐県︶の陳醋︵ちんさく︶︵中国酢︶などが有名である。交通は鉄道を主とし,自動車道路は全省の人民公社の約90%にまで通じている。省内を縦貫する同蒲線︵大同~孟︶が大動脈で,中間の太原を境にして北線と南線とに分かれ,北端の大同で京包線︵北京~包頭︶と,南端では黄河を渡って隴海︵ろうかい︶線︵蘭州~連雲港︶と,連絡する。同蒲線の原平では京原線︵北京~原平︶,太原南東の楡次︵ゆじ︶では石太線︵石家荘~太原︶,楡東線︵楡次~河南省の焦作︶と接続する。
都市,名勝
太原︵人口256万。2000︶は太原盆地の北端に位置し,西は汾河に臨む政治・経済・文化の中心で,石炭,鋼鉄,機械製造,発電,化学工業などが行われる。その南西の晋祠︵しんし︶は古来知られた名勝地で,聖母殿は北宋の建築として有名。付近の天竜山は斉︵北斉︶時代に開かれた石窟寺院である。大同︵人口116万。1994︶は大同盆地の中央を占め,同蒲・京包両線の交点で,石炭工業を主とし,機械やセメント製造などの工業が発達している。市内には上・下華厳寺や善化寺など遼・金時代の建築で有名な仏寺があり,西方の雲岡石窟は北魏時代に開かれた,仏教芸術の最大傑作である。省内南東部の長治市は石炭,鋼鉄,機械製造などの工業を主とし,太原南東の楡次市は同蒲・石太両線の交点で農産物の集散地,紡織機械の製造,綿紡績なども行われている。陽泉市は太行山脈の西側にあって石太線に沿い,石炭,鉄,硫黄等の資源が多いので関連工業が発達している。臨汾市は汾河下流の東岸に位置し,同蒲線に沿う本省南部の物資集散地で,機械,食品,紡績,織物などの工業中心である。侯馬市はやはり同蒲線に沿い,陝西・河南両省に通ずる自動車路の集中点で,発電,機械,紡績,織物等の新興工業都市。太原,臨汾の中間にある介休︵かいきゆう︶では付近に石炭,セッコウ等を産出するので,紡績,織物,製紙,冶金製錬等の工業が盛んである。
名勝としては,大同市の南方,応県の仏宮寺の釈迦塔,朔県の崇福寺の弥陀殿などは遼・金時代の建築,東南の渾源︵こんげん︶県の懸空寺は特異な崖造りの仏殿をもって知られる。臨汾市北方の洪洞県の広勝寺の元代壁画や,ここで発見された金代刻版の大蔵経,省内南端の黄河岸に近い芮城︵ぜいじよう︶県の永楽宮の元代建築や壁画も有名。北東部の五台山は標高3058m,古くから文殊菩薩の霊場として名高い聖地で,山中には多くの仏寺があり,とくに仏光寺と南禅寺の仏殿は唐代の建築として貴重である。
執筆者‥日比野 丈夫
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