法典編纂(読み)ほうてんへんさん(英語表記)codification

翻訳|codification

改訂新版 世界大百科事典 「法典編纂」の意味・わかりやすい解説

法典編纂 (ほうてんへんさん)
codification


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法典編纂」の意味・わかりやすい解説

法典編纂
ほうてんへんさん

国家の制定する体系的組織的な成文法規を法典といい、その起草から制定に至るまでの過程を法典編纂という。わが国においては、明治時代前半期に近代的法典の編纂が系統的に行われ、明治30年代初頭には基本法典の成立をみるに至った。このように法典編纂が急速に進められた背景には、欧米列強諸国による植民地化の危機を免れ、不平等条約を改正することによって国家的独立の達成を図るという明治政府の最大の課題が働いている。すなわち明治政府は、こうした課題を果たすために、強力な国家体制の確立と資本主義の強行的育成を企図し、その媒介手段として西欧近代法の原理に基づく諸法典の編纂を急いだのである。法典編纂はまた、列強諸国によっても条約改正の前提条件とされた。かくして、明治政府は成立直後から、西欧近代法の継受による諸法典の編纂に着手したが、最初に成立をみたのはボアソナード起草の刑法(旧刑法)および治罪法で、1880年(明治13)に公布、82年に施行された。ともにフランス法の影響が強い。

 その後、両法典はドイツ法の影響のもとに改正され、治罪法は1890年に刑事訴訟法にかわり、刑法は1907年(明治40)に全面改正された。大日本帝国憲法はプロイセン憲法の影響のもとに、1889年欽定(きんてい)憲法として公布され、翌年施行された(1947年、新たに国民主権の原理に基づく日本国憲法が施行された)。民法はフランス法の影響を受けて制定された民法典(旧民法)が1890年に公布され、93年より施行されることになっていたが、その実施可否をめぐる法典論争の結果、施行延期となり、その後法典調査会でドイツ民法第一草案を参酌して起草、審議され、帝国議会の可決を経て、前三編(総則、物権、債権)が96年に、後二編(親族、相続)が98年に公布され、同年民法全編が施行された(明治民法)。商法は90年に公布され(旧商法)、翌年から施行されることになっていたが、法典論争の結果、急施を要する会社、手形、破産の部分(1893年施行)を除いて再度施行延期となった。その後法典調査会の起草・審議、帝国議会の可決を経て、99年公布・施行された。民事訴訟法はドイツ民事訴訟法に基づいて草案が起草され、90年に公布、翌年より施行された。ここに成立した近代法体系=天皇制法体系は、第二次世界大戦後の改革に至るまで基幹部分を保持し続けた。

[吉井蒼生夫]

『石井良助著『明治文化史2 法制編』(1954・洋々社)』『利谷信義著『近代法体系の成立』(『岩波講座 日本歴史16 近代3』所収・1976・岩波書店)』

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世界大百科事典(旧版)内の法典編纂の言及

【法制史】より

戸籍),近代的土地制度を確立するための地券制度(1872)と地租改正条例(1873公布),近代的教育制度を確立するための学制(1872公布)・教育令(1879,1880公布),商工業を発展させるための国立銀行条例(1872公布)・日本銀行条例・為替手形約束手形条例(ともに1882公布)などであった。(2)第2期は,国際的・国内的に法体制を確立することを目標とした法典編纂条約改正の時期であり,1885年末の太政官制の廃止,内閣制度の発足から99年の改正条約の発効,法典の全面施行に至る。この時期の特徴は,自由民権運動の鎮圧後,国内的には一応天皇を中心とする統治機構が確立したものの,なお不平等条約の改正と法典編纂の完成とによる法体系完成への模索が行われた点にある。…

※「法典編纂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」