町田忠治(読み)マチダチュウジ

デジタル大辞泉 「町田忠治」の意味・読み・例文・類語

まちだ‐ちゅうじ〔‐チユウヂ〕【町田忠治】

 
18631946便201945退  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「町田忠治」の意味・読み・例文・類語

まちだ‐ちゅうじ【町田忠治】

 

(一)
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治
まちだちゅうじ
(1863―1946)


()3330()便189528191210192615()()()調19351019401944()1945201946211112

 

19501996

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治
まちだちゅうじ

 
[]3 (1863).3.30. 
[]1946.11.12. 
1887 1888便18951899西19121019261192919312193419351937麿194421946退  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「町田忠治」の解説

町田 忠治
マチダ チュウジ

 




,,,(),



=



3330(1863)







()20



283032西4345109131514629191015()



211112


 

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「町田忠治」の解説

町田 忠治
マチダ チュウジ

明治〜昭和期の政治家,実業家 農相;内相;蔵相;衆院議員(民政党);報知新聞社長。



生年
文久3年3月30日(1863年)

没年
昭和21(1946)年11月12日

出身地
秋田県秋田市

別名
号=幾堂

学歴〔年〕
大学予備門(現・東大)選科〔明治20年〕卒

経歴
犬養毅を頼って上京、大学を出て朝野新聞や報知の記者となり、欧米を視察したあと、明治28年に東洋経済新報社を設立、主幹に。30年日本銀行に入り、32年在阪の山口銀行総理事などをして関西財界の有力者となるが、43年辞職。45年政界に入り、以来、秋田県から衆院議員に当選10回。この間、大正9〜13年報知新聞社長。15年第1次若槻内閣、昭和4年浜口内閣、6年第2次若槻内閣の各農相、9年岡田内閣の商工相兼蔵相、19年小磯内閣の国務相を歴任。また10〜15年民政党総裁を務め、戦前の政党人としては恵まれたコースをたどる。戦後は日本進歩党結成の際、総裁に推されたが、公職追放となったため、その地位を幣原喜重郎に譲った。“ノントー”(のんきなとうさん)の愛称で衆望を集める一方、財政通でもあり、「財政学」の著書がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治 (まちだちゅうじ)
生没年:1863-1946(文久3-昭和21)


18871退91便93-949599191210121麿219351408245111246111

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治【まちだちゅうじ】

 
()便189519121935194521946  

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「町田忠治」の解説

町田忠治 まちだ-ちゅうじ

1863-1946 明治-昭和時代の政治家。
文久3年3月30日生まれ。明治28年東洋経済新報社を創立。翌年日本銀行にはいり,のち山口銀行総理事,報知新聞社長となる。45年衆議院議員(当選10回)。農相,商工相,蔵相,国務相などを歴任。戦後日本進歩党を結成,総裁となった。昭和21年11月12日死去。84歳。出羽(でわ)秋田出身。帝国大学卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「町田忠治」の解説

町田 忠治 (まちだ ちゅうじ)

生年月日:1863年3月30日
明治時代-昭和時代の政治家。山口銀行総理事;報知新聞社長
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の町田忠治の言及

【進歩党】より

…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…

【東洋経済新報】より

…1895年11月15日,町田忠治設立の東洋経済新報社(同日設立)から旬刊誌として創刊された,政治,経済を中心とした論説誌。1919年10月4日号から週刊となる。…

※「町田忠治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

タコノキ

タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...

タコノキの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android