デジタル大辞泉
「笠置寺」の意味・読み・例文・類語
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笠置寺
かさぎでら
[現在地名]笠置町笠置
木(き)津(づ)川の南岸、笠置山︵国指定史跡・名勝︶の頂にある。山号は鹿鷺山。もと修験道の道場。初めは法相宗で、現在真言宗智山派。本尊は磨崖の石像弥勒菩薩。笠置山の南東部、柳(やぎ)生(ゆう)街道に面する登山口から新旧二道に分れ、右の八(はつ)丁(ちよう)坂︵旧道︶を約八〇〇メートル登ると本坊の福(ふく)寿(じゆ)院があり、弥勒石像を含む石仏群、修験道の行場、後醍醐天皇行宮跡などが所在する。
︿京都・山城寺院神社大事典﹀
〔開創伝承〕
﹁今昔物語集﹂巻一一︵天智天皇御子、始笠置寺語︶によると、天智天皇の皇子大友皇子がこの山で遊猟した時、鹿を追って断崖で進退きわまり、山神の擁護を祈念して奇禍から免れた。後日の指南としてその場所に藺笠を置き、のち報恩のため天人の助成を得て彫った弥勒石仏の尊像を本尊として創建したと伝え、﹁笠ヲ注(しるし)ニ置タレバ、笠(かさ)置(おき)ト可云也、其レヲ只和(やはら)カニ、カサギトハ云也ケリ﹂と記す。なお﹁東大寺要録﹂は﹁天智天皇第十三皇子建立有縁起﹂とし、﹁笠置寺縁起﹂は白鳳一一年︵六八二︶の草創とするが明確でない。曾禰好忠の歌に﹁河上や笠置のいは屋けを寒み苔を莚とならす優婆塞﹂︵曾丹集︶とあるように、古くから山中修行者である優婆塞・聖の修行の霊地で、﹁一代峯縁起﹂は天武天皇一二年に役行者の来山を説いている。また﹁笠置寺縁起﹂に載せる伝承では、聖武天皇の時、奈良東大寺造営にあたって良弁が千(せん)手(じゆ)窟に籠って秘法を行い、﹁笠置之磐石﹂を破り︵安元元年一二月日﹁東大寺衆徒解案﹂東大寺文書︶、船筏の通路を開いた。その後良弁の高弟実忠も天平勝宝三年︵七五一︶一〇月、当寺の竜穴に入って弥勒の﹁都率之内院﹂にいたり、同四年正月堂で十一面観音悔過法を感得し、弘仁年中︵八一〇―八二四︶空海も虚空蔵の宝前で求聞持法を修したと伝える。高さ一五・七メートル、幅一二・七メートルにおよぶ弥勒石仏のほか、薬師・文殊・虚空蔵の石仏群は奈良時代末期のものといわれ、当寺の創立を暗示する。
延暦一七年︵七九八︶には、大和岩(いわ)淵(ぶち)寺︵現奈良市︶の勤藻によって始められた法華八講が当寺でも行われたらしく、建久四年︵一一九三︶貞慶の作成とみられる笠置寺二季八講料舞装束勧進状︵弥勒如来感応抄︶に﹁延暦以来四百余廻、世号之日本第三伝矣﹂と記している。延喜八年︵九〇八︶には日蔵︵道賢︶が千手窟に参籠して護法善神を勧請、これが当寺の鎮守椿(つば)本(きもと)大明神の起源とされる︵笠置寺縁起︶。
〔弥勒信仰〕
この頃から弥勒信仰にともなう修験道の霊場として吉野金峯山と並び称せられ、多くの修験山伏が競って入峰修行を行っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
笠置寺 (かさぎでら)
京都府相楽郡笠置町の笠置山頂にある寺。笠置山は木津川の南岸にあり,奈良県の柳生街道に面した登山口から登ると,本坊,弥勒石・薬師石・文殊石・虚空蔵石の石仏群があり,弥勒石の後山に後醍醐天皇の行在所︵あんざいしよ︶跡がある。笠置寺ははじめ法相宗に属したが,現在は真言宗智山派。山号は鹿鷺山。磨崖の弥勒菩薩石像を本尊とする。開創について︽今昔物語集︾︽東大寺要録︾などは天智天皇の皇子によると伝えるが,確かなことはわからない。高さ15.7m,幅12.7mの弥勒像をはじめとする石仏群は,奈良時代末の製作とされ,そのころ寺院ができたものと考えられる。東大寺の良弁︵ろうべん︶がここで秘法を修し,空海もここにこもったと伝えられるが,優婆塞︵うばそく︶や聖︵ひじり︶が多く集まっていたらしい。平安時代には,弥勒信仰の中心として知られ,吉野の金峰山と並ぶ修験の霊場となり,花山院や藤原道長をはじめ貴賤の参詣がさかんになった。さらに鎌倉時代初頭,興福寺の貞慶がここに隠退してから,諸堂が建立され,住僧も増加した。ついで東大寺の宗性が貞慶の跡を慕って入山し,ここで弥勒信仰に関する多くの書を著した。1331年︵元弘1︶,元弘の乱の際には後醍醐天皇は,東大寺別当聖尋の計らいでここを行在所とし,笠置山が戦場となったため,伽藍のほとんどが焼失した。室町時代に入って修験道の中心として復興されたが,再び火災にあい,現在の正月堂︵本堂,懸崖造︶,毘沙門堂,大師堂は15世紀末の造営とされる。江戸時代には藩主藤堂家の保護で維持され,現在はかつての子院の一つである福寿院を笠置寺と改称し,重源の寄進になる建久7年︵1196︶の銘文のある銅鐘,貞慶筆と伝える︽地蔵講式︾︽弥勒講式︾各1巻をはじめ,南北朝時代の古文書など,数多くの文化財を伝えている。
執筆者‥大隅 和雄
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笠置寺
かさぎでら
京都府相楽(そうらく)郡笠置町、笠置山上にある寺。正しくは鹿鷺山笠置寺(ろくろうざんかさおきでら)と号し、真言宗智山(ちさん)派に属する。開基は大友皇子と伝えるが不明。すでに2000年前より巨石信仰があったとみられ、山上には弥勒(みろく)石、文殊(もんじゅ)石、薬師(やくし)石、虚空蔵(こくうぞう)石など巨大な磨崖仏(まがいぶつ)が多く、高さ15メートルに及ぶ石面に刻まれた弥勒仏︵元弘(げんこう)の変で消亡し、舟形光背のみ残る︶は、古来本尊として仰がれた。縁起によると、奈良時代に東大寺の良弁(ろうべん)、実忠(じっちゅう)が参籠(さんろう)したと伝え、このころ寺の形容を整えたとみられる。その後、平安末期の末法思想の流行に伴い弥勒下生(げしょう)の霊場として貴族・庶民の信仰を集めた。1192年︵建久3︶興福寺の貞慶(じょうけい)が当寺に隠遁(いんとん)して諸堂を建立、寺勢盛んとなるが、元弘の変︵1331︶において後醍醐(ごだいご)天皇の行宮(あんぐう)となって諸堂を焼失した。現在は正月堂、毘沙門(びしゃもん)堂、鐘楼などが並ぶ。銅鐘、石造十三重塔、紙本墨書地蔵講式・弥勒講式が国重要文化財に指定されるほか、寺宝が多い。
﹇金岡秀友﹈
﹃小林義亮著﹃笠置寺激動の1300年――ある山寺の歴史﹄︵2002・文芸社︶﹄
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笠置寺【かさぎでら】
京都府相楽郡笠置町,笠置山上にあり,真言宗智山派。寺の起源は天武天皇が狩猟中に笠を置いた故事に由来。弥勒信仰に伴う修験道(しゅげんどう)の行場として知られ,役行者,空海,日蔵らが修行。1194年解脱上人貞慶が釈迦如来を安置して中興。藤原期の磨崖弥勒石像を本尊とする。
→関連項目笠置山地|蘇原御厨
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笠置寺
かさぎでら
京都府笠置町にある新義真言宗の寺。鹿鷺(ろくろ)山と号す。大友皇子の開創と伝えるが成立は未詳。奈良末期の制作と推定される弥勒仏など磨崖(まがい)石仏群で知られる。平安後期に入るとこの山が兜率(とそつ)浄土とされ,修験の霊場として貴賤の信仰を集めた。花山上皇・藤原道長・後白河上皇はじめ,多数の上皇・公卿の参詣が記録される。1192年(建久3)解脱房貞慶が入寺,般若台など伽藍と法会の整備を進めた。東大寺の宗性もここで弥勒信仰を宣揚した。1331年(元弘元)の元弘の乱で後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)となったため,兵火をうけて多くの建物を焼失。多数の寺宝を所蔵し,貞慶筆と伝える「地蔵講式」は重文。
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笠置寺
かさぎでら
京都府相楽郡笠置町笠置山にある真言宗智山派の寺。鎌倉時代末期,後醍醐天皇がこの寺に遷幸し,鎌倉幕府の大軍と戦ったことで有名。天智天皇の御代,大海人皇子が狩りに来て弥勒仏に感得して寺を建立したのに始るという。平安時代末期には弥勒信仰によって公家の信仰を受け,白河法皇も行幸したことがあり,鎌倉時代には解脱上人貞慶が隠棲した。後醍醐天皇挙兵のときをはじめ,幾度かの火災によって焼失を繰返し,現在は福寿院,毘沙門堂,鐘楼を残しているにすぎない。山上には奈良時代の弥勒,文殊,虚空蔵の摩崖仏 (まがいぶつ) があることで有名。また重源寄進の銅鐘,貞慶筆の地蔵講式,弥勒講式は重要文化財に指定されている。
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世界大百科事典(旧版)内の笠置寺の言及
【笠置[町]】より
…町域の大部分が山林であるが,木津川沿岸には耕地が開け,南岸を関西本線,北岸を国道163号線が貫通する。南部にある笠置山は,花コウ岩類岩石の風化による奇岩怪石と後醍醐天皇が行在所︵あんざいしよ︶を置いた[笠置寺]などで知られている。これと木津川峡谷をあわせて笠置山府立自然公園に指定され,多くの人を集めており,観光は町の重要な産業になっている。…
※「笠置寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」