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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…国共合作崩壊後,瞿秋白(くしゆうはく)を中心とする中共指導部が,大衆的基盤をもつ広州でおこしたもので,秋収蜂起等の極左路線の一環である。葉挺らの指導のもとに,12月11日早朝,2000余の武装労働者の隊伍が広州全市を制圧してソビエト政府を樹立した。主席には香港海員スト(省港ストライキ)以来の輝ける指導者蘇兆徴が選ばれ(在モスクワ),実質的に計画をすすめた中共広東省委責任者の張太雷(1898‐1927)が代行した。…
… 孫文逝世後,広東政府は汪兆銘を中心とする国民政府に改組され,26年7月,蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始した。国民革命軍はソ連赤軍に学んで党代表制を取り入れ,政治教育を行ったため,軍閥軍に比べて戦闘精神にひいで,とりわけ葉挺の独立団をはじめ,共産党員が重要な役割を果たした。農民運動が燃えあがった湖南はいうまでもなく,湖北でも江西でも民衆の支援を得た北伐軍は3ヵ月ばかりで長沙,武漢,南昌を手中にした。…
…4ヵ支隊。軍長葉挺,副軍長項英)とした。国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。…
※「葉挺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」