藤原鎌足(読み)フジワラノカマタリ

デジタル大辞泉 「藤原鎌足」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐かまたり〔ふぢはら‐〕【藤原鎌足】

 
614669()()()()()()()()()()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「藤原鎌足」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐かまたり【藤原鎌足】

 

(一)()()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原鎌足」の意味・わかりやすい解説

藤原鎌足 (ふじわらのかまたり)
生没年:614-669(推古22-天智8)


6451鹿︿6687︿669101516西6709

 2643-66511221


殿鹿1174鹿1317-19鹿13281437鹿鹿鹿鹿3宿鹿婿鹿鹿婿鹿鹿

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原鎌足」の意味・わかりやすい解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり
(614―669)


7()()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()61422()()()()鹿()()()()()()()退6443()()()()()

 644()()鹿()()2()()()6451()649647()6545()651()150006643()()使()()668()使()()()

 668()()()66981016()()()6573()()()()()()()



19661973

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百科事典マイペディア 「藤原鎌足」の意味・わかりやすい解説

藤原鎌足【ふじわらのかまたり】

 
()()()()()()
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原鎌足」の解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり


614669.10.16

7()()退()()()645()6調鹿()()退()655()663()()()()()()()()

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原鎌足」の意味・わかりやすい解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり

[生]推古22(614)
[没]天智8(669).10.16.
大化改新の推進者。一名,鎌子。本姓は中臣。御食子 (みけこ) の長子。皇極3 (644) 年神祇伯に任じられたが,病と称して出仕せず,翌年中大兄皇子,軽皇子 (かるのみこ) らとはかって蘇我蝦夷,入鹿父子を誅し,大化改新を断行。孝徳天皇 (軽皇子) 即位後,内臣 (うちつおみ) となり,大錦冠を授けられて改新の諸政を推進。白雉5 (654) 年紫冠を授けられ,天智7 (668) 年に制定された『近江令』 (22巻) の編纂を主宰,翌年病にかかり,臨終に際して大織冠,内大臣,藤原姓を賜わり藤原氏の祖となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原鎌足」の解説

藤原鎌足 ふじわらの-かまたり

614-669 飛鳥(あすか)時代,藤原氏の祖。
推古天皇22年生まれ。中臣弥気(なかとみの-みけ)の子。中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智(てんじ)天皇)とともに蘇我(そが)氏打倒をはかり,皇極天皇4年(645)蘇我入鹿(いるか)を殺害。大化の新政府で内臣(うちつおみ)となり,中大兄を補佐して律令制への改革をすすめた。臨終に際し大織冠(たいしょっかん)と大臣の位,藤原朝臣の氏姓をあたえられる。天智天皇8年10月16日死去。56歳。初名は鎌子。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原鎌足」の解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり

 
614669

 ()  () 645 ()  () 鹿 ()  () 669  

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世界大百科事典(旧版)内の藤原鎌足の言及

【飛鳥時代】より


鹿鹿()()()2綿645鹿()

【阿武山古墳】より


 

【乙巳の変】より

…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…

【妹背山婦女庭訓】より

…角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳,苧環(おだまき)伝説を加えて脚色したもの。道行は,豊後系の浄瑠璃にも改作されている。…

【入鹿】より

…上演記録の初出は1581年(天正9)(《家忠日記》)。藤原鎌足による蘇我入鹿退治の物語で,舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに奈良春日神社,興福寺の縁起譚(えんぎたん)をなす。本曲では鎌足の出生地を常陸国鹿島とし,名の由来を幼時に狐の与えた鎌にちなむとし,その鎌で入鹿の首を打ち落としたとする。…

【蘇我入鹿】より

…つまり入鹿は終始,王権にたいする簒奪(さんだつ)者の典型として形象されている。藤原鎌足[伝承]【阿部 泰郎】。…

【大化改新】より


鹿643(2)

 ()()6456鹿()()7調

【大織冠】より

…上演記録の初出は1553年(天文22)(《言継卿記》)。大織冠藤原鎌足は娘の紅白女(こうはくによ)を唐の太宗に嫁がせる。太宗はその返礼に万戸将軍を使者として釈迦の霊物を納めた玉をはじめ多くの宝物を鎌足に贈る。…

【武内宿禰】より


67宿宿

【多武峰】より

…号(なづ)けて両樹(ふたつき)宮とす〉とあるのが地名の初見で,高所に営まれた両槻宮は,道教の影響があるのではないかとされる。多武峰が一躍著名となるのは,藤原鎌足の墓所が営まれたことによってである。鎌足の子の僧定恵(じようえ)は,678年(天武7)ころ(異説もある)亡父の遺骸を摂津国安威(あい)山から当山に移して十三重塔婆(大織冠廟)を建立したといわれ,ついで塔の南に3間四面の堂を建てて妙楽寺と号し,さらに塔の東に方3丈の聖霊院を建てて鎌足の木像を安置したという(《多武峯縁起》《多武峯略記》)。…

【中臣氏】より

…しかし〈延喜本系〉では欽明朝以後,黒田―常磐(ときわ)―方子(かたのこ)―御食子(みけこ)と代々朝廷に仕え,推古・舒明朝では御食子が〈前事奏官兼祭官〉すなわち朝廷の政務を決定する会議に参加する大夫(まえつぎみ)で神官を兼ねていたといい,鎌子・勝海らと黒田以下との系譜関係には触れないので,中臣の嫡流は勝海で絶え,常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いだとの説もある。 ともかく御食子の子の鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族であった。だが鎌子すなわち鎌足は神官の職を継がず,大化改新(645)以後は内臣(うちのおみ)として中大兄(後の天智天皇)を補佐し,669年(天智8)に病没したときには大織冠,内大臣という冠位,官職と藤原という氏を賜った。…

【藤原氏】より



※「藤原鎌足」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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