日本歴史地名大系 「足立区」の解説 足立区あだちく 面積:五三・二〇平方キロ 東京都の北東部、おおむね西を隅田川、東を中川に限られた地域で、東は葛飾区、南は荒川区と一部墨田区、西は北区に接し、北は毛(けな)長(が)川を境に埼玉県川口市・鳩ヶ谷市・草加市・八潮市に接する。区域はおおむね海抜零メートルから四メートルの低地帯。古代以来の武蔵国足立郡の南端部にあたり、近世には葛飾郡とは中川および古(ふる)隅(すみ)田(だ)川、豊島郡とは現在の隅田川、埼玉郡とは綾(あや)瀬(せ)川が境界であった。今日では海岸線からかなり内陸になるが、これらの河川は淡水と潮水が干満によって上下する。そのため農業用水への利用には適していなかった。しかし潮汐は舟運に利用されるなど利点もあったという。土地は沖積層が厚く堆積しており、土壌は河川によって運ばれた﹁ヘナ土﹂などと称される粘土質土壌および砂である。沖積層の基底面となる洪積層は古東京川の浸食作用により大深度にあり、区域東端の中川付近で六〇―七〇メートルに達する。南北に東武鉄道伊勢崎線︵営団地下鉄日比谷線と相互乗入れ︶が通り、西(にし)新(あら)井(い)で大師線が分岐する。南端部を京成電鉄本線・JR常磐線︵営団地下鉄千代田線と相互乗入れ︶が通る。道路は中央を南北に国道四号︵日光街道︶が貫通し、その西を尾(おぐ)久(ば)橋(し)通︵主要地方道台東―鳩ヶ谷線︶が通り、東西には環状七号︵環七通︶が貫通する。荒川には東から千住新橋・西新井橋・扇(おう)大(ぎおお)橋・江(こう)北(ほく)橋・鹿(しか)浜(はま)橋が架けられている。首都高速道路は六号三郷線・中央環状線・川口線がある。 〔原始・古代〕 縄文海進前の人間活動の痕跡は、かつて大(おお)鷲(とり)神社付近の花(はな)畑(はた)遺跡から縄文時代前期に属する繊維土器が出土したといわれているが、詳細は不明。縄文海進後の資料は花畑遺跡・伊(いこ)興(う)遺跡から縄文後期の堀之内式土器が出土している。関東の奥地まで入り込んだ海岸線が縄文後期頃には埼玉県境を流れる毛長川付近まで後退していた様子がうかがわれる。その後しばらく活発な人間活動を示す痕跡はみられないが、弥生時代の終り頃から古墳時代前期にかけて毛長川右岸の微高地上に集落が営まれるようになる。伊興遺跡・舎(とね)人(り)遺跡からは多くの東海系の土師器とともに、当該期の竪穴住居跡や方形周溝墓が発掘されている。古墳時代中期の代表的な遺跡としては祭祀遺跡として有名な伊興遺跡をあげることができる。古墳時代後期になると伊興遺跡・舎人遺跡のほかに伊興の若宮八幡神社遺跡でも集落が営まれ、白(しら)旗(はた)塚(づか)古墳群や大鷲神社付近にも古墳群が形成されるようになる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足立区」の意味・わかりやすい解説 足立〔区〕あだち 東京都23特別区の一つ。東京都北東部に位置し,北は埼玉県に接する。全区が平坦な低湿地で,南部を荒川と荒川放水路,東を中川が流れる。 1932年区制。 1947年特別区制。江戸時代,千住は奥州街道沿いの宿場町として繁栄。かつては水田耕作地帯。いまでも北部には野菜畑,花卉,植木栽培地がある。第1次世界大戦後,しだいに工場,商店,住宅の混合地区が増加し,特に第2次世界大戦後は農地減少と住宅団地の増加が目立つ。区の中部に国宝の鋳銅刻画蔵王権現像を所蔵する総持寺 (西新井大師) がある。JR常磐線,京成電鉄本線,東武鉄道伊勢崎線,東京地下鉄日比谷線,千代田線,首都高速道路川口線,6号三郷線が通り,加平インターチェンジがある。面積 53.25km2。人口69万5043︵2020︶。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報