デジタル大辞泉
「鈴木重胤」の意味・読み・例文・類語
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すずき‐しげたね【鈴木重胤】
(一)江戸後期の国学者。通称は雄三郎。号は橿廼家(かしのや)。淡路国︵兵庫県︶の人。本居宣長の学風を慕い、大国隆正に学び、平田篤胤没後の門人となる。のち江戸に住み、講学著述に努め、また、全国を周遊して神道を説く。尊王憂国の士との交友もしげくあったが、廃帝調査を行なったという寃罪により、尊攘派暴徒に暗殺された。主著﹁日本書紀伝﹂﹁延喜式祝詞講義﹂﹁中臣寿詞講義﹂など。文化九~文久三年︵一八一二‐六三︶
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鈴木重胤
すずきしげたね
(1812―1863)
江戸末期の国学者。幼名雄三郎、通称勝左衛門。号橿屋(かしのや)、のち厳橿本(いつかしがもと)など。文化(ぶんか)9年5月5日生まれ。淡路国津名(つな)郡仁井(にい)村︵兵庫県淡路(あわじ)市︶の出。生家は代々、里長で、父重威(しげたけ)、母岡本麗子(うらこ)の二男。大坂鴻池(こうのいけ)、神戸橋本家に寄寓(きぐう)し諸芸を習い、父の影響で国学に志し、21歳平田篤胤(あつたね)に入門名簿を送り、23歳大国隆正(おおくにたかまさ)門に入り、32歳秋田に赴いたが、篤胤没後で、大坂のち江戸日本橋村松町、さらに向島小梅(むこうじまこうめ)に住み、諸国を旅して神道(しんとう)を中心とする学風を広め尊攘(そんじょう)派と交流したが、文久(ぶんきゅう)3年8月15日小梅の自宅で刺客に暗殺された。52歳。墓所は東京都杉並区和田長延寺。
平田派から別れ、﹃延喜式祝詞(えんぎしきのりと)講義﹄﹃中臣寿詞(なかとみのよごと)講義﹄のほか、未完の大著﹃日本書紀伝﹄は客観性に欠く点もあるが、注釈詳細である。和歌の編集もあり、小論﹃世継草(よつぎぐさ)﹄はじめ日記、紀行文も多い。
﹇林 勉﹈
﹃樹下快淳編﹃鈴木重胤全集﹄全13巻︵1937~44・鈴木重胤先生学徳顕揚会︶﹄▽﹃高階成章校﹃国学大系21 鈴木重胤集﹄︵1944・地平社︶﹄▽﹃芳賀登・松本三之介注﹃世継草﹄︵﹃日本思想大系51﹄所収・1971・岩波書店︶﹄▽﹃樹下快淳著﹃贈正五位鈴木重胤真人物﹄︵1931・遺風顕彰会︶﹄▽﹃星川清民著﹃鈴木重胤伝附門人伝﹄︵1943・言霊書房︶﹄▽﹃谷省吾著﹃鈴木重胤の研究﹄︵1968・神道史学会︶﹄
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鈴木重胤
生年‥文化9.5.5(1812.6.13)
幕末の国学者。淡路国(兵庫県)津名郡仁井村(兵庫県津名郡北淡町)の庄屋・穂積重威・麗子の5男。幼名雄三郎,のち勝左衛門と称した。号は橿屋,厳橿本など。文政8(1825)年,学問の階梯を示した父に死なれ,家運回復のため大坂へ商業見習いに出たが,向学心が募るまま,天保3(1832)年江戸在住の平田篤胤へ入門名簿を送った。5年には大坂で大国隆正にも入門。10年,大坂で和歌を教授。弘化1(1844)年以降江戸に住み,平田学の継承に努めたが,﹃延喜式祝詞講義﹄(全15巻,1853年成)や﹃日本書紀伝﹄(全30巻)の古代史注釈に専念するようになってから,平田家との間に軋轢が生じ,安政5(1858)年断交。畢生の大著﹃日本書紀伝﹄未完成のまま,江戸小梅の自宅で刺客の凶刃に倒れた。当時から,廃帝の故事を調査したため,尊皇派の報復がささやかれたが,未詳。<著作>﹃鈴木重胤全集﹄全13巻<参考文献>谷省吾﹃鈴木重胤の研究﹄(神道史研究叢書4)
(ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
鈴木重胤
すずきしげたね
[没]文久3(1863).8.15. 江戸
江戸時代後期の国学者。幼名雄三郎。通称勝右衛門,府生,一平。号は厳橿本 (いつかしもと) ,橿廼舎 (かしのや) ,柱州。姓は穂積。家は代々庄屋。父は重威,母は麗子。14歳頃から,大坂鴻池家,神戸村橋本家に寄寓し,商業見習いをし,諸学を習得。のち国学に志し,天保3 (1832) 年平田門に入門。次いで同5~6年頃大国隆正門に入門。同14年平田篤胤を秋田に訪ねたがすでに病死していたために,墓前で没後の門人となった。江戸に定住し,嘉永1 (48) 年﹃延喜式祝詞講義﹄を起稿,同2年﹃世継草﹄,同6年から﹃日本書紀伝﹄の著述を始めた。その学説のため,安政4 (57) 年頃から平田家と軋轢を生じ破門された。本所小梅の自宅で何者かに暗殺された。著述は上記のほか,﹃古訓日本書紀神代﹄ (未完) ,﹃中臣寿詞講義﹄﹃天津祝詞古義﹄﹃開闢図﹄﹃古始大元図説﹄﹃詞のちかみち﹄など。
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鈴木重胤 (すずきしげたね)
生没年:1812-63(文化9-文久3)
江戸後期の国学者。通称勝左衛門。号は橿廼舎,厳橿本。淡路国仁井村の庄屋の家に生まれる。父の指導により国学を志す。大国隆正に学び,さらに1843年︵天保14︶秋田に平田篤胤をたずねるが,死去していたので,没後の門人となる。︽延喜式祝詞講義︾と︽日本書紀︾神代巻の注釈︽日本書紀伝︾︵未完︶の二大著述があり,精細な考証を特徴とする。江戸本所小梅の自宅で,刺客におそわれて死す。
執筆者‥平野 仁啓
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鈴木重胤 すずき-しげたね
1812-1863 江戸時代後期の国学者。
文化9年5月5日生まれ。はじめ大国隆正にまなび,平田篤胤(あつたね)の没後の門人となる。後年篤胤学批判をつよめ,安政5年平田銕胤(かねたね)に破門される。文久3年8月15日暗殺された。52歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。本姓は穂積。通称は勝左衛門。号は橿廼舎(かしのや),厳橿本(いつかしがもと)など。著作に「延喜式祝詞(えんぎしきのりと)講義」,「日本書紀伝」(未完)など。
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鈴木重胤 (すずきしげたね)
生年月日:1812年5月5日
江戸時代末期の国学者
1863年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の鈴木重胤の言及
【日本書紀伝】より
…注釈書。[鈴木重胤]著。1862年(文久2)30巻まで成る(未完)。…
※「鈴木重胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」