関東大震災(読み)カントウダイシンサイ

デジタル大辞泉 「関東大震災」の意味・読み・例文・類語

かんとう‐だいしんさい〔クワントウ‐〕【関東大震災】

 
121923911158()()7.96134514
48197321  

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精選版 日本国語大辞典 「関東大震災」の意味・読み・例文・類語

かんとう‐だいしんさいクヮントウ‥【関東大震災】

 

(一)西
 

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改訂新版 世界大百科事典 「関東大震災」の意味・わかりやすい解説

関東大震災 (かんとうだいしんさい)


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関東大震災」の意味・わかりやすい解説

関東大震災
かんとうだいしんさい

1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。

[木坂順一郎]

被害状況

震源地は相模湾北部(東経139.3度、北緯35.2度)の地点で、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9であった。ちょうど昼食時であったため、地震による家屋の倒壊によって134か所から出火し、9月3日午後2時に鎮火した。その間、大火災のために気温が上昇、東京では1日夜半には46℃に達し、初震以来5日午前6時までに人体に感じた余震は936回を数え、各地に津波が襲来した。そのため日本の心臓部である京浜地帯は壊滅的な打撃を受け、被害は東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1府6県に及んだ。東京市役所編『東京震災録 前輯(ぜんしゅう)』(1926)によれば、被災者は約340万人(1府6県の人口の29%、うち横浜市は人口の93%、東京市は人口の75%)、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯、損害額は推定約55億円余にも及んだ。1922年度の一般会計予算が約14億7000万円であるのと比較すれば、その損害額がいかに莫大(ばくだい)であったかがわかるであろう。

[木坂順一郎]

歴史的背景


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第二次山本内閣の救援復興活動


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政治的反動と朝鮮人・中国人の虐殺


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大正デモクラシーの屈折と敗北

こうしたなかで財界人の間では、大震災は、近年ぜいたくと放縦に慣れ、危険思想に染まりつつある国民に対する天罰であるという「天譴論(てんけんろん)」が唱えられていた。11月10日には「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布され、天皇は「浮華放縦(ふかほうしょう)ノ習」と「軽佻詭激(けいちょうきげき)ノ風」を戒め「質実剛健」の国民精神を作興せよと国民に呼びかけ、思想善導政策の先鞭(せんべん)をつけた。さらに12月27日の虎の門事件は、民衆の間に「主義者」に対する恐怖心と嫌悪感を植え付け、しかもこの年には、中国の旅順大連(りょじゅんだいれん)回収運動の高揚と、アメリカの排日移民法制定の動きに触発され、世論が排外主義の方向へ向かい始めた。こうして1918年(大正7)の米騒動以来高揚を続けてきた大正デモクラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入った。その後1924年1~5月の第二次憲政擁護運動を経て、6月に第一次加藤高明(たかあき)内閣が成立し、翌1925年3月の議会で普通選挙法と治安維持法が抱き合わせで可決され、ここに政党政治が確立した。しかし政治の民主化を求めてやまなかった大正デモクラシー運動は、普通選挙法の制定によって目標の一部を達成したが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北し、やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至るのである。このような後の流れをみると、関東大震災は単なる天災ではなく、歴史の流れを変える決定的な転換点となった災害であったといえよう。

[木坂順一郎]

『姜徳相・琴秉洞編『関東大震災と朝鮮人』(『現代史資料6』1963・みすず書房)』『松尾尊兌著『民本主義の潮流』(『国民の歴史21』1970・文英堂)』『中島陽一郎著『関東大震災』(1973・雄山閣出版)』『関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査委員会編『歴史の真実――関東大震災と朝鮮人虐殺』(1975・現代史出版会)』『姜徳相著『関東大震災』(中公新書)』

 

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百科事典マイペディア 「関東大震災」の意味・わかりやすい解説

関東大震災【かんとうだいしんさい】

 
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調  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関東大震災」の意味・わかりやすい解説

関東大震災
かんとうだいしんさい

 
192391115844M 7.9西142000調1050001313456 122 182cm 94cm 139cm 157cm 1m 4m
9259392974039932000  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「関東大震災」の解説

関東大震災
かんとうだいしんさい

1923年(大正12)9月1日午前11時58分,関東地方南部を襲った相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の大地震。死者9万9331人,行方不明者4万3476人,負傷者10万3733人,全被災者は約340万人。小田原・根府川方面の地震は激烈で,東京・横浜では地震による火災が加わり大きな被害を出した。戒厳令が2日東京市に,翌3日には東京府・神奈川県に施行された。1日夕刻から「朝鮮人投毒・放火」などの流言が広まり,自警団・軍隊・警察などによって数千人の朝鮮人が虐殺され,また亀戸事件・甘粕事件・王希天(おうきてん)事件などがおこった。震災後の帝都復興事業は,後藤新平内相らを中心に計画的に進められた。丸の内のオフィス街と山の手の郊外住宅地域などが急速に発達し,東京・横浜などの都市計画作成の契機となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「関東大震災」の解説

関東大震災
かんとうだいしんさい

1923年9月1日,関東地方南部・静岡県・山梨県を襲った地震と直後の火災
震源地は相模湾北西部。東京・神奈川・千葉南部の被害が特に著しく,家屋の全焼・全壊70万余戸,罹災者総数340万余,死者・行方不明14万人余にも及んだ。山本権兵衛内閣は戒厳令をしいて混乱収拾に努力したが震災恐慌にみまわれた。一方,人心の不安が高まる中で甘粕事件・亀戸事件・朝鮮人虐殺事件などがひきおこされた。

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世界大百科事典(旧版)内の関東大震災の言及

【災害復旧事業】より

…レンChristopher Wrenらが作成した1666年ロンドン大火復興計画案は拒絶されたとはいえ,建築物の不燃化と形態規制,道路の幅員14フィート以上への拡幅と舗装は実現し,レン設計のセント・ポール大聖堂のドームと多数の尖塔がロンドンの面目を一新した。1923年関東大震災後の東京復興においても,焦土全面買上げによる新都の造営という当初の計画は放棄されたが,焼失した既成市街地において3000haをこえる土地区画整理が実施され,隅田川の新橋梁,昭和通り等が新たな都市像を現出させた。【山田 学】。…

【都市計画】より


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【都市災害】より


使1923︿1891︿

【避難】より


19236()9

【保険業】より


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※「関東大震災」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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