デジタル大辞泉
「霧社事件」の意味・読み・例文・類語
むしゃ‐じけん【霧社事件】
昭和5年(1930)、日本統治下の台湾台中州霧社で、高山族が差別待遇や過酷な出役労働に抗して起こした反日武装蜂起事件。
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むしゃ‐じけん【霧社事件】
(一)昭和五年︵一九三〇︶一〇月末、台湾中部山地の霧社周辺のタイヤル族先住民一一部族のうち六部族が、日本の弾圧的な差別政策などに対して起こした反日蜂起事件。台湾総督府により約二か月後に鎮圧されたが、翌年四月、六部族の残存住民を警察に教唆された別の部族が襲撃してほとんど全滅させる第二霧社事件が続いた。
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霧社事件 (むしゃじけん)
1930年10月27日に起こった台湾の霧社高山︵こうざん︶族の抗日蜂起事件。遠因は,長年つづいた権謀術策と欺瞞︵ぎまん︶に満ちた理蕃政策への総反抗,近因は,部落民への過度な強制労働ならびに指導者モーナ・ルダオ一族への凌辱︵りようじよく︶などが積み重なって引き金となったことが考えられる。蜂起高山族の計画的な一斉襲撃に日本官民側の犠牲は老幼男女を含んで134名にのぼった。霧社︵現,南投県仁愛郷︶は,︿蕃界﹀中もっとも開化が進み,教育水準も高いと折紙をつけられていた部落だった。とくに特殊な警察行政を中心に行われた理蕃事業の模範生として学費,結婚費用等を供与して育てた,兄弟でもない花岡一郎︵本名ダッキス・ノービン︶乙種巡査︵日本人は甲種巡査で,その下位に位置づけて差別した︶,花岡二郎︵本名ダッキス・ナウイ︶警手︵巡査の助手︶の2人の︿子飼い﹀が,ともにリーダーのモーナ・ルダオに同調蜂起したことは当局を仰天させた。日本側は波及をおそれ飛行機などの近代兵器を使用して弾圧を加えた。終りのころ,蜂起側は男女老幼の別なく200余人が集団自決して日本の圧政に抗議した。事後での刑死者と警察が演出した報復事件︵第2次霧社事件︶の被害者などを含めて約1000名が犠牲となり,生き残れたのは15歳以下の男子と婦女子の約230名だけだった。
→台湾
執筆者‥戴國 煇
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霧社事件
むしゃじけん
台湾の少数原住民族︵中国語圏では、﹁先住民﹂に﹁今は存在しない﹂という意味があるため、﹁原住民﹂が用いられる︶の抗日反乱事件。1930年︵昭和5︶10月27日、台中(たいちゅう)州能高(のうこう)郡霧社︵現南投(なんとう)県仁愛郷︶一帯のタイヤル族6部落300余名が、マヘボ部落のモーナ・ルーダオの指揮で一斉に蜂起(ほうき)し、奥地の警察官駐在所を襲撃、ついで霧社公学校の運動会開催中を襲い、日本人134名を殺害した。漢民族の犠牲者は流れ弾に当たったものと日本人と誤認されたもの計2名で、計画的な反日蜂起であった。台湾総督府は鎮圧のため警察官ら2700余人を投入、台湾軍からも1000人以上が出動して、激しい掃討戦を繰り広げた。反乱側の士気はきわめて高く、統制もとれ、天険にたてこもって最後まで抵抗を続けたが、11月末になって力尽き、モーナ・ルーダオらの自殺でようやく鎮定された。掃討戦には山砲、機関銃、飛行機などが用いられ、毒ガスも使われた疑いが濃い。
台湾総督石塚英蔵(えいぞう)、総務長官人見次郎、警務局長石井保らが責任を問われて翌31年1月辞任するなど、事件の波紋は大きかった。また反乱に加わった部落は、同年4月、別の部落に襲撃され︵第二霧社事件︶たすえ、5月遠隔地に強制移住させられた。蜂起の原因は、日常的差別待遇、過酷な出役労働、低賃金と警察官によるその着服などへの不満が主であった。長期にわたる日本の強圧的な民族政策で土地を失い、行動を制限されてきたことへの不満がその背景をなしていた。
﹇岡部牧夫﹈
﹃戴國煇編著﹃台湾霧社蜂起事件﹄︵1981・社会思想社︶﹄
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霧社事件【むしゃじけん】
1930年10月27日台湾の台中州霧社︵現在は南投(なんとう)県仁愛(じんあい)郷︶で起こった高山(こうざん)族の抗日蜂起(ほうき)事件。日本の植民地支配に対する原住民の不満が爆発したもので,モーナ・ルダオを指導者としてマヘボ社など6社約1500名が蜂起し日本人134名を殺害。台湾総督府は波及をおそれて飛行機・山砲等を動員,高山族1000余名を殺害して11月19日鎮定。また事件の終り頃には蜂起側の200余名が抗議の集団自決をするなど,生き残ったのは婦女子および15歳以下の男子約230名だけだった。
→関連項目台湾
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霧社事件
むしゃじけん
1930年10月27日,台湾の台中州霧社の台湾先住民が中心になって台湾総督府の統治に反抗蜂起した事件。派出所襲撃に始まり,130人以上の日本人が殺害された。総督府は軍隊,警察を出動させ,徹底した弾圧を行なった。これは台湾先住民族の性情,習慣を無視した警察政治に反発する民族運動,社会運動であるとともに農民運動でもあり,特に製糖会社による土地収奪に対する抵抗が直接の動機であった。事件後,政府は撫育費をわずかに増額しただけで,依然,警備強化策をとり,事態はほとんど改善されなかった。
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霧社事件(むしゃじけん)
日本植民地期の台湾先住民タイヤル族の蜂起。過酷な理蕃(りばん)政策への反発から,1930年10月モーナ・ルーダオを指導者とするタイヤル族霧社蕃300余名が霧社の警察官吏駐在所や公学校を襲撃,日本人130余名を殺害した。台湾総督府は軍,警察や霧社蕃と対立するタイヤル族を動員,12月までに鎮圧した。モーナ・ルーダオは11月に自殺し,蜂起側の戦死者,自殺者は639人に達した。31年,投降者も収容所で対立するタイヤル族によって虐殺された。
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霧社事件
むしゃじけん
日本の支配に対する台湾先住民族の武装蜂起事件。1930年(昭和5)10月27日未明,台湾台中州霧社の先住民部落11社のうち6社がモーナ・ルダオを指導者にして,警察駐在所や霧社公学校を襲い,日本人134人(ほかに日本人と誤認された漢族2人)を殺害,蜂起した。石塚英蔵総督は警官隊を動員する一方,台湾軍出動を要請,近代兵器を用いてこれを鎮圧。翌年4月25日能高郡警察課長は親日的な味方蕃を使嗾して,投降後収容中の保護蕃を襲撃させ,無防備の210人を殺害させた。これが第2霧社事件で,広義には霧社事件に含まれる。
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霧社事件
むしゃじけん
1930年10月27日,台湾の霧社(現在の南投県仁愛郷)高山族の起こした抗日蜂起事件
高山族の蜂起に対し,日本側は近代兵器を投入して弾圧を加え,多くの犠牲者を出した。
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