日本歴史地名大系 「高市郡」の解説
高市郡
たかいちぐん
面積:四九・六四平方キロ
奈良盆地の南部に位置し、南半は竜りゆ門うもん山塊︵多武峯・高取山︶から派生する低丘陵と幅狭の谷からなり、北半はやや開けて、西端を曾我川、中央部を高取川、東部を飛鳥川が北流。東は桜井市、西は御ご所せ市、南は吉野郡、北は橿かし原はら市。
古代の高市郡は現高市郡および橿原市のほぼ全域、大和高田市・御所市の一部を包含する地域で、中心は高市御県が設置された橿原市雲うな梯て町一帯とされ、葛上郡・葛下郡・吉野郡との境は時代によって若干の出入りがあった。
郡名の初見は﹁日本書紀﹂欽明天皇一七年一〇月条に﹁蘇我大臣稲目宿禰等を倭国の高市郡に遣して﹂とあり、﹁古事記﹂雄略天皇段に﹁倭の この 多気知に 小高る 市の高処﹂とうたわれ、﹁日本書紀﹂推古天皇一五年条には高市池を築いたことがみえる。﹁和名抄﹂には﹁多介知﹂の訓注があり、古代にはタケチと読んだことがわかる。
〔原始〕
この地域に人が住みついたのは縄文時代の中期以降で、飛鳥川流域の大だい官かん大寺跡下層遺跡が最も古く、次いで飛鳥京下層があり、現明日香村大字岡おか・島しま庄のしよう周辺でも晩期の土器の散布が知られている。
弥生時代になると、岡地域の飛鳥京下層から前期の土器、島庄周辺では竪穴住居跡一棟が発見されている。一方、高取町内を流れる吉き備び川流域は大字松まつ山やま・吉備周辺でサヌカイトの散布や土器片の出土が知られているが、散布範囲は狭い。古墳時代になっても生活の場所として飛鳥川右岸の岡や島庄地域が利用され、岡地域では八棟、島庄では五棟の住居跡を確認、中期後半の年代が推定された。
古墳は明日香村・高取町を合わせ約八〇〇基が存在するが、いずれも後期前半―終末期にかけてのものが多い。越おち智お岡か丘陵の南斜面には五〇―六〇基を小単位とする群集墳が存在し、木棺直葬墳が多い。しかしこれら群集墳と重複する形で真まゆ弓みか鑵んす子づ塚か古墳など花崗岩を積上げた天井の高い横穴式石室が存在する。吉備川流域では前方後円の市いち尾おは墓かや山ま古墳や市いち尾おみ宮やづ塚か古墳が存在する。いずれも家形石棺を内蔵する六世紀前半期の古墳。飛鳥周辺では石いし舞ぶた台い古墳を中心として細ほそ川かわ谷だに古墳群の性格が注目される。檜ひの隈くま地域には欽明陵をはじめ天武持統合葬陵、鬼おにの雪せつ隠ちん・鬼おにの俎まないた古墳、高たか松まつ塚づか古墳、中なか尾おや山ま古墳など問題の古墳が多く、檜隈地域に点在する終末期古墳は飛鳥京・藤原京の京域外に営まれた天皇家一族の墳墓と推定されよう。
〔古代〕
三世紀後半から五世紀にかけて奈良盆地南部には高市県があり、これが後の高市郡名に継承された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報