蘇我馬子(読み)ソガノウマコ

デジタル大辞泉 「蘇我馬子」の意味・読み・例文・類語

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】

 
?626  

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精選版 日本国語大辞典 「蘇我馬子」の意味・読み・例文・類語

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】

 

(一)
 

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百科事典マイペディア 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子【そがのうまこ】

 
()()587()592()調
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子
そがのうまこ
(?―626)


()()()()()()()()()()()()()57031使5721()()5872()()

 592560513()()()()使()()


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改訂新版 世界大百科事典 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子 (そがのうまこ)
生没年:?-626(推古34)


57031使5721587592560513使

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朝日日本歴史人物事典 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子

没年:推古34.5.20(626.6.19)
生年:生年不詳
敏達・用明・崇峻・推古朝の大臣。馬古,汗麻古,有明子とも書く。稲目の子。蝦夷,善徳,河上娘,刀自古郎女,法提郎女らの父。敏達1(572)年,天皇即位に伴い大臣に任命され,同3年には白猪屯倉(岡山県落合町)の戸籍整備に努力した。用明朝には物部守屋が穴穂部皇子を擁立しようとするのに対抗して,豊御食炊屋姫(のちの推古天皇)を奉じ,穴穂部皇子を殺させた。さらに,用明の没後には物部氏と戦い,河内国の渋川の家(八尾市)で守屋ら物部一族を滅ぼし,崇峻天皇をたてて独裁的な権力を握った。崇峻5(592)年には天皇が馬子を嫌っているのを知り,東漢直駒に命じて暗殺させた。その後,豊御食炊屋姫を擁立し推古天皇として即位させ,自身は引き続き大臣となり,「天皇記」「国記」の編纂を議するなど,厩戸皇子(聖徳太子)と共に共同執政を行った。この間,娘の刀自古郎女を厩戸皇子の,法提郎女を田村皇子(のちの舒明天皇)のそれぞれ妃とし,王族との血縁関係を強化した。推古31(623)年には新羅征討軍の派遣を強行したところ,新羅貢調使の来日と行き違いとなり出兵を後悔したという。翌年,天皇に葛城県は自身の本拠であるから賜って封県としたいと願ったが許されなかった。武略と弁才を有し,三宝を恭敬したといい,飛鳥川の傍らの家では,庭中に小島を設けたので,時の人は嶋の大臣と称したという。仏教の受容にも熱心で,敏達13年には百済からもたらされた石仏像を請い,宅の東に仏殿を建てて安置し,高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させた。翌年には大野丘の北に塔を建て仏舎利を収めたという。崇峻朝には善信尼を百済に派遣して戒律を学ばせる一方,飛鳥衣縫造の祖の家を壊して法興寺(飛鳥寺)の造営に着手,僧侶を止住させたり,仏像を造らせるなどして推古朝に完成させた。病に際しては,男女1000人を出家させたとも伝える。桃原墓に埋葬されたとあり,奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳に比定される。

(仁藤敦史)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子
そがのうまこ

 
[]?
[]34(626).5.20. 
 ()  () 2 (587) 4 (596)  ()   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子
そがのうまこ


?626.5.20

()67()()5()()()596(4)620623()624()626

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子 そがの-うまこ

 
?626 6-7
()(),2(587)(-)(),()5(592)(-),(),()()(())調,34520()  

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子
そがのうまこ

?〜626
6〜7世紀前期の大和政権の大臣
稲目の子。父のあとをうけ大臣 (おおおみ) となった。仏法を信仰し,排仏派の政敵物部守屋を587年滅ぼし専権をふるった。のちみずから擁立した崇峻天皇を殺害し,妹堅塩媛 (きたしひめ) の生んだ推古天皇を擁立,摂政の聖徳太子とともに政治を指導した。氏寺として法興寺を建立し,『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。

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世界大百科事典(旧版)内の蘇我馬子の言及

【石舞台古墳】より

…なお,古墳築造の際,小古墳群が破壊されている。626年に死んだ蘇我馬子の桃原墓にあてる説があるが,蓋然性が高い。【猪熊 兼勝】。…

【冠位十二階】より


12

【国記】より

…聖徳太子が蘇我馬子とともに編集したという歴史書。《日本書紀》の推古28年(620)条に〈天皇記及国記,臣・連・伴造・国造・百八十部幷公民等本記を録す〉とある。…

【嶋宮】より


34(626)5

※「蘇我馬子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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