高村光太郎(読み)タカムラコウタロウ

デジタル大辞泉 「高村光太郎」の意味・読み・例文・類語

たかむら‐こうたろう〔‐クワウタラウ〕【高村光太郎】

 
18831956
321957  

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精選版 日本国語大辞典 「高村光太郎」の意味・読み・例文・類語

たかむら‐こうたろう【高村光太郎】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高村光太郎」の意味・わかりやすい解説

高村光太郎
たかむらこうたろう
(1883―1956)


16313()()()()()使190235西1900()19061909西1911()()()()1912()()19131914310

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改訂新版 世界大百科事典 「高村光太郎」の意味・わかりやすい解説

高村光太郎 (たかむらこうたろう)
生没年:1883-1956(明治16-昭和31)


1906091910︿1114︿調調194141西西7195052564273




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百科事典マイペディア 「高村光太郎」の意味・わかりやすい解説

高村光太郎【たかむらこうたろう】

 
19061909
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高村光太郎」の意味・わかりやすい解説

高村光太郎
たかむらこうたろう

 
[]1883.3.13. 
[]1956.4.2. 
 ()  1897稿 1906 B.091214 (1926)  ()  (27) 27 (16)  (42)  (41)  (50)  (02)  (16)  (23)   

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朝日日本歴史人物事典 「高村光太郎」の解説

高村光太郎

没年:昭和31.4.2(1956)
生年:明治16.3.13(1883)
大正昭和期の彫刻家,詩人。本名は光太郎。東京下谷生まれ。父光雲は木彫家として東京美術学校(東京芸大)教授,帝室技芸員となる。母はわか(通称とよ)。東京美術学校在学中に与謝野鉄幹の新詩社同人となり『明星』に短歌,詩などを寄稿。明治35(1902)年彫刻科卒業。研究科に進みロダンに傾倒。38年研究科修了,洋画科に再入学した。39年渡米。翌年ロンドンに移り,荻原守衛,バーナード・リーチらと親交を深める。41年パリに渡る。このときの体験はのちに「私はパリで大人になった」(「パリ」1950年刊『典型』所収)と歌われるほど全人格的な影響を与えた。42年帰国。「緑色の太陽」などの芸術評論を発表する一方,北原白秋らのパンの会に参加し詩作を開始。大正1(1912)年岸田劉生らとフュウザン会を結成。3年には詩集『道程』を刊行。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ではじまる「道程」や「根付の国」などを収める。同年,画家長沼智恵子と結婚。彫刻,詩,批評,翻訳などの分野に旺盛な活動を続ける。このころの彫刻作品に「裸婦座像」「手」「老人の首」「鯰」などがある。昭和13(1938)年発狂し入院していた智恵子が死亡。16年彼女への愛情をテーマとした『智恵子抄』を刊行した。17年文学報国会詩部会会長に就任。20年戦災により岩手県に疎開。27年帰京したが,31年結核により死去。西欧の文化,芸術への憧憬に根ざした大正期の活動から,戦時中の戦争協力的態度,戦後の戦争責任をめぐる自己反省へと,振幅の大きい一生だった。<参考文献>草野心平編『高村光太郎研究』

(菅原克也)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高村光太郎」の解説

高村光太郎 たかむら-こうたろう

1883-1956 明治-昭和時代の詩人,彫刻家。
明治16年3月13日生まれ。高村光雲の長男。ロダンの影響をうけ,明治39年から欧米に留学。帰国後彫刻,絵画の制作をおこない,またパンの会に参加して美術評論,詩を発表。昭和17年詩集「道程」で芸術院賞。戦後,連詩「暗愚小伝」で戦時中の自己責任を追及した。昭和31年4月2日死去。73歳。東京出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は光太郎(みつたろう)。詩集に「智恵子抄」,彫刻作品に「手」など。
【格言など】僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る(「道程」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高村光太郎」の解説

高村光太郎
たかむらこうたろう


1883.3.131956.4.2

1900(33)060914(3)2

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旺文社日本史事典 三訂版 「高村光太郎」の解説

高村光太郎
たかむらこうたろう

1883〜1956
明治〜昭和期の彫刻家・詩人
光雲の子。東京の生まれ。渡欧してロダンに感銘をうけ,その影響が作品に反映。また明星派・白樺派に参加して,詩・評論を発表したが,第二次世界大戦中は,日本文学報国会の中心として多くの戦争詩を書いた。代表的詩集に『道程』『智恵子抄』など。

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世界大百科事典(旧版)内の高村光太郎の言及

【印象主義】より

…明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。しかし,色彩の主観的表現を重視する高村の考え方は,表現主義的傾向が強く,印象派の導入がその後の前衛絵画運動と結びついていった日本の特殊性をよく示している。…

【画商】より

…東京美術俱楽部は東京のほか大阪,京都,名古屋,金沢に俱楽部をもち,入札競売のほか毎年〈五都展〉を開く。一方,洋画商の草分けは1910年,高村光太郎が開いた琅玕堂(ろうかんどう)で,大正初期に田中喜作の田中屋,川路柳虹の流逸荘,野島康三の兜屋がつづく。昭和初期に牧師出身の長谷川仁がはじめた日動画廊は,戦前は上海,戦後はパリをふくむ10都市以上に支店をもった。…

【典型】より

高村光太郎の詩集。1950年刊。…

【道程】より

高村光太郎の第1詩集。1914年(大正3)刊。…

【土門拳】より

…39年に同工房を退社し,〈国際文化振興会〉の嘱託として,大型カメラによる室生寺,文楽等の撮影を開始した(のち写真集として出版)。また43年には,初め雑誌《写真文化》に掲載されのちに写真集《風貌》(1953)に収録された,画家,作家等のポートレートによって〈第1回アルス写真文化賞〉を受賞,このとき高村光太郎は,土門の写真について〈土門拳の写真はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく〉と評している。…

【明治・大正時代美術】より

… 一方,明治美術会には長沼守敬,菊地鋳太郎(1859‐1944),大熊氏広が参加して彫塑部が置かれ,99年には岡倉らの去った東京美術学校に洋風彫塑の課程が置かれた。美術学校彫塑科の初代教授に長沼,まもなくそのあとを藤田文蔵が継ぎ,白井雨山(1864‐1928),渡辺長男(1876‐1952),武石弘三郎(1878‐1963),高村光太郎らが育つ。彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。…

※「高村光太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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