デジタル大辞泉
「PLO」の意味・読み・例文・類語
ピー‐エル‐オー【PLO】[Palestine Liberation Organization]
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
PLO (ピーエルオー)
パレスティナ解放機構Palestine Liberation Organizationの略称。アラビア語ではMunaẓẓama al-Taḥrīr al-Filasṭīnīya。1948年のイスラエル国家誕生︵イスラエル国︶とその後のアラブ・イスラエル紛争によってパレスティナを追われ離散したパレスティナのアラブ︵パレスティナ人︶たちの,父祖の地パレスティナへの帰還と自決を実現しようとする政治運動組織の合同体。1964年5月,アラブ連盟の指導と支配下に設立されたが,設立当初のPLOは,パレスティナ解放はアラブの大義であると唱えはしたが,ほとんど具体的かつ有効な運動は行わなかった。しかし,67年6月の第3次中東戦争によるアラブの大敗北は,PLOの無力さを暴露し,PLO議長シュケイリShuqayrīは辞任した。このいわば︿官製﹀PLOを批判しつつ,65年以降,小規模ながら独自の対イスラエル武装ゲリラ闘争を行っていたファタハFatḥ︵パレスティナ民族解放運動︶を中心とするパレスティナ・コマンド・グループは,68年3月のヨルダン渓谷のカラーメKarāmaの戦で,ヨルダン川を越えて攻撃してきたイスラエル大部隊を大きな犠牲を払いつつも撃退した。パレスティナ・コマンドの名前は,一躍パレスティナ人の間のみならず,アラブ世界に広く知られるところとなった。その結果,69年2月には,ファタハの指導者アラファートYāsir `Arafāt︵1929-2004︶がPLOの執行委員会議長となり,PLOはパレスティナ解放を目ざす独立の政治組織として全面的に再編された。それは内閣に当たる執行委員会と国会に当たるパレスティナ国民会議︵PNC︶をもち,正規軍としてパレスティナ解放軍︵PLA︶をもつ。また,PLO系の学生,労働者,女性,ジャーナリスト,法律家,医師などの組織をもっている。68年7月に採択されたパレスティナ国民憲章は,パレスティナ解放の唯一の手段を武装闘争と規定しつつも,ユダヤ人ないしユダヤ教徒とシオニストを区別し,ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も平和に共存する,進歩的・民主的・非宗派的パレスティナ国家の設立をその運動の目標に掲げた。
カラーメの戦以後,ほぼ70年代初めまで続く主としてPFLP︵パレスティナ解放人民戦線︶,PLO内の急進派による一連のハイジャックを含む過激な闘争︵1970年のヨルダン連続ハイジャック,72年9月ミュンヘン・オリンピック事件,73年8月の日航機ハイジャックなど︶は,アラブ支配層の不興を買った。とくに70年9月のヨルダン内戦では,PLOはヨルダン軍によって厳しい弾圧を受け,その活動の根拠地をこれまでのヨルダンからレバノンに移さざるをえなくなった︵この弾圧は︿黒い九月﹀とよばれる︶。しかし一方,73年10月の第4次中東戦争以後,外交分野での活動は成功を収め,74年10月のラバトのアラブ首脳会議はPLOをパレスティナ人の唯一の正式代表と認めた。また11月のアラファート議長の国連総会演説を経て国連総会はPLOをパレスティナ人の代表と認め,パレスティナ人の自決権と独立,パレスティナ難民の帰還権を決議し,さらにPLOを正式なオブザーバーと認定した。1970年代には世界中の100を超す国々がPLOを正式に承認し,日本にも77年2月東京事務所が設置された。また,アラブ連盟,イスラム諸国会議の正式メンバーとなった。
1974年6月,PNCはイスラエル占領地域でのパレスティナ国家設立を全パレスティナ解放への段階と認めたが,PLO内の諸コマンド組織の間には,パレスティナ解放および民主的パレスティナ国家設立という目標については一致しながらも,解放の戦術やイデオロギーの上では対立が激しくなるなかで,82年6月のイスラエルによるレバノン侵攻により,8月にはPLOはベイルートを撤退し,PLAとPLO傘下の各組織はアラブ諸国に分散し,本部はチュニスに置かれた。
1987年12月に,ガザで始まり,たちまちパレスティナの全イスラエル占領地域に広がったインティファーダは,子どもや女性までふくむ占領下パレスティナ人の自発的かつ大衆的な抵抗闘争として世界の注目を浴びた。インティファーダの盛り上がりを背景にして,89年11月PNCは,1947年11月のパレスティナ分割に関する国連総会決議第181号に基づくパレスティナ地域におけるパレスティナ国家の宣言を行い,アラファートをパレスティナ国家の大統領に指名し,イスラエルとの共存路線を打ち出した。ついでアラファートは,これまでのPLOの武装闘争路線の廃棄を明らかにした。
1993年1月,イスラエルは,これまでのPLOとの接触禁止を解除し,秘かにオスロでPLO代表との交渉を行い秘密協定を結んだ。この秘密協定にもとづき,ワシントンで9月,イスラエル・PLO間に︿原則の宣言﹀が調印され,占領地の一部でパレスティナ自治政府︵PNA︶が発足することとなった。さらに94年5月には,ガザ,イェリコでの先行自治協定︵カイロ協定︶が,95年9月には︿自治拡大協定﹀︵オスロⅡ︶が調印されて,イスラエル軍の占領地主要都市からの撤退が合意され,中東和平は急速に進展するかに見えたが,極右のイスラエル人によるテロ︵95年11月ラビン首相暗殺︶および,ハマースらイスラム主義組織メンバーによる対イスラエル・テロの応酬がつづいた。
→パレスティナ問題
執筆者‥前田 慶穂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
PLO【ピーエルオー】
パレスティナ解放機構Palestine Liberation Organizationの略称。パレスティナを追われ離散したパレスティナのアラブ︵パレスティナ人︶の政治組織。1964年にアラブ連盟の決定によって設立され,1974年10月のアラブ首脳会議でパレスティナ人の唯一の正統代表としての地位を認められた。また同年11月,国連総会もオブザーバーとして承認。最高指導者はアラファート民族評議会議長︵2004年没︶であった。パレスティナ民族評議会︵PNC︶が最高意思決定機関で,長くパレスティナ人の亡命政府の役割を果たしてきた。はじめアンマンに本部をおいたが,1970年ヨルダン内戦で追われ,ベイルートに移動。レバノン内戦,レバノン戦争に巻き込まれ,1982年以降はチュニスに本部を移した。当初は武装闘争によるパレスティナの解放をめざしていたが,主流派であるファタハFatahは外交重視の現実路線へと転換した。1988年パレスティナ国家の独立を宣言するとともにイスラエルと相互承認して武装闘争を放棄した。しかし湾岸戦争でイラク寄りの姿勢をとったため湾岸産油国の援助を失い,パレスティナ暫定自治を進めるにいたった。アラファートの後任M.アッバス︵1935− ︶は2005年のパレスティナ自治政府議長選挙で圧勝した。→パレスティナ問題
→関連項目アッバス|イェリコ︵地名︶|イスラエル|ガザ|シャロン|ハマース|パレスティナ自治政府|ファタハ
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
知恵蔵
「PLO」の解説
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のPLOの言及
【パレスティナ問題】より
…(4)パレスティナ問題の展開の第2期。パレスティナ人の民族的主体性の形成の段階,すなわちパレスティナ解放機構([PLO])の組織に体現されたパレスティナ民族主義の成立・展開期。(5)パレスティナ問題の展開の第3期。…
【パレスティナ問題】より
…(4)パレスティナ問題の展開の第2期。パレスティナ人の民族的主体性の形成の段階,すなわちパレスティナ解放機構([PLO])の組織に体現されたパレスティナ民族主義の成立・展開期。(5)パレスティナ問題の展開の第3期。…
※「PLO」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」