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新美南吉について
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南吉はいつ生まれたの?
大正2年︵1913︶7月30日に生まれました。
南吉はどこで生まれたの?
戸籍では、父渡辺多蔵の実家である愛知県半田町字西折戸61番地の3︵現在の半田市新生町1丁目99番地︶で生まれたことになっています。しかし、その頃すでに多蔵は独立していましたし、岩滑の風習では最初の子どもは嫁の在所で、二番目からは暮らしている家で産むことになっていたので、実際は半田町字東山86番地︵現在の半田市岩滑中町1丁目83番地︶の畳屋で生まれたと考えられます。ただ、母りゑの在所である半田町字東平井2番地の1︵現在の半田市平和町7丁目60番地︶の新美家で産んだ可能性も残ります。
▲畳屋と下駄屋をしていた渡辺家
南吉の干支は?
丑︵うし︶です。
南吉の本名は?
新美正八︵にいみしょうはち︶です。8歳の時に新美家の養子になるまでは渡辺正八といいました。正八の名前は、お父さんが好きだった講談の豪傑、梁川庄八︵やながわしょうはち︶からとったといわれています。はじめ明治45年に生まれたお兄さんにつけられましたが、生まれてわずか18日で亡くなったので、次男の南吉にお兄さんの分まで強く生きてほしいと願って同じ名前がつけられました。
南吉はどんな人だったの?
南吉は小学生の頃から作文が好きで、中学生になると、将来、立派な文学者になりたいと考えるようになりました。繊細で豊かな感受性を持った南吉は、自然や人間を深く観察する作家としての天性を持っていました。時には人間を意地悪く見るようなところもありましたが、ユーモアとペーソスをもった人でもありました。
南吉の身長は何cm?
昭和11年3月︵南吉23歳︶の東京外国語学校の名簿によると、身長166.5cm、体重48.2kgでした。
南吉の好きな食べ物は?
ようかんなど甘いものが好きでした。
南吉の嫌いなものは?
雷が怖かったようです。
南吉はどんな学校で勉強したの?
半田第二尋常小学校︵現在の半田市立岩滑小学校︶を卒業した後、当時、知多半島でただ一つの中学校だった半田中学校︵現在の愛知県立半田高等学校︶に進学します。中学卒業後は、一時、先生をして働きましたが、その後、東京外国語学校︵現在の東京外国語大学︶に入学し、英文学の勉強をしました。この時期、南吉はヨーロッパやアメリカの文学から多くのことを学びました。
▲当時の半田中学校
南吉が得意だった教科は?
国語です。特に作文がとても上手でした。それ以外の教科も小学校6年間を通してほぼ全部が甲︵最高評価︶でとても優秀な成績でした。
南吉が苦手だった教科は?
体育です。南吉は体が弱かったせいか、あまりスポーツが好きではありませんでした。
南吉はどんな仕事をしていたの?
半田第二尋常小学校、河和第一尋常高等小学校、安城高等女学校で先生をしていました。特に安城高等女学校には5年近く英語の先生として勤めていました。先生以外では、海外に東京のお土産を紹介する東京土産品協会や家畜のエサをつくる杉治︵すぎじ︶商会で働いていたこともあります。
▲当時の安城高等女学校
南吉が好きだった作家は?
フランスの作家フィリップやロシアの作家チエーホフなどが好きでした。その他にアンデルセンやドストエフスキーからも多くの影響を受けました。また、童謡の手ほどきを受けた北原白秋や、会ったことはありませんでしたが宮沢賢治も尊敬していました。
南吉には恋人がいたの?
南吉は生涯に3人の女性と恋愛をしたようです。初めは同じ岩滑に住んでいた木本咸子︵みなこ︶さん、次が河和小学校で同僚の先生だった山田梅子さん、最後が﹁ごん狐﹂に登場する中山さまの子孫で医者だった中山ちゑさんです。しかし、結局誰とも結婚せず、独身のまま亡くなりました。
▲中山ちゑ
お父さんはどんな人?
南吉のお父さんの渡辺多蔵︵わたなべたぞう・明治17年~昭和35年︶は、岩滑新田の農家の三男坊として生まれました。小学校を卒業してから畳をつくる修行をしたのち、畳屋として独立しました。商売上手で、仕事の上でも新しい機械を入れるなど工夫をしていました。節約家で、南吉の無駄づかいをいつもいましめていましたが、南吉を東京の学校にやったり、村の神社に多額の寄付をするなど、けちなばかりではありませんでした。
▲父、渡辺多蔵
お母さんはどんな人?
南吉を生んだお母さん、りゑ︵明治21年~大正6年︶は、岩滑新田でたくさんの土地を持っていた新美家の長女として生まれました。大柄で器量よしでしたが、南吉を産んだのち病気になって入院し、南吉が4歳の時、29歳の若さで亡くなってしまいました。
南吉の二人目のお母さん、志ん︵明治21年~昭和25年︶は、りゑが亡くなった翌年に渡辺家にやってきて、益吉を産みました。社交的な性格で、自分でも下駄を商いながら、南吉と益吉を育てました。以前は、自分が産んだ子ではない南吉に辛くあたったともいわれましたが、実際はそうしたわけへだてはしない人だったようです。
▲継母、志ん
弟はどんな人?
南吉の弟、渡辺益吉︵わたなべますきち・大正8年~昭和20年︶は、南吉が5歳の時に生まれました。南吉とはお母さんが違いますが、とても仲のよい兄弟で、子どもの頃は南吉からお話を聞かせてもらい、大人になってからもよく一緒に映画や喫茶店に行っていました。南吉は、酒や味噌をつくる会社に勤めていた益吉のことを思って、﹁弟﹂という詩もつくっています。しかし、益吉は太平洋戦争で兵隊にとられ、戦争が終わる直前にフィリピンで戦死してしまいました。
▲南吉と歩く益吉(左)
巽聖歌とはどんな関係?
巽聖歌︵たつみせいか︶は岩手県出身の詩人で、童謡﹁たきび﹂の作者として知られています。北原白秋の下では南吉の先輩にあたり、南吉を弟のように可愛がりました。南吉が半田に戻った後も、いつも南吉のことを気にかけ、作品を発表する場を与えてくれました。南吉の初めての童話集﹃おぢいさんのランプ﹄の出版も巽聖歌の助けによるものです。南吉が亡くなった後は遺された原稿を集め、童話集を出したり、全集をつくるなどして、南吉文学を日本中の人々に紹介しました。
▲巽聖歌
南吉にはあだ名があったの?
ナンキー、ナンちゃん、ショッパ︵本名の正八から︶などと呼ばれることがありました。
ペンネームの"新美南吉"はいつから使いだしたの?
現在わかっているかぎりでは、昭和4年10月号の雑誌﹃愛誦﹄に童謡﹁空家﹂が新美南吉のペンネームで載ったのが最初です。しかし、その後しばらくは、違うペンネームを使ったり、本名で投稿したりすることが多く、﹁南吉﹂が定着したのは昭和6年の半ばからです。
どうして"新美南吉"というペンネームにしたの?
まず﹁新美﹂は南吉の養家の姓ですから、本当の苗字です。
﹁南吉﹂については、どういう理由でつけられたのか、はっきりはわかっていません。
ただ、﹁新美南吉﹂というペンネームを使う前、﹁新美弥那鬼﹂︵にいみみなき︶というペンネームを使っていた時期があります。﹁みなき﹂の﹁みな﹂が﹁みなみ︵南︶﹂につながり、それを音読みにして﹁なん︵南︶﹂に転じたとすると、﹁南吉﹂の﹁南﹂は方角ではなく、訓読みの﹁みなみ﹂の方により意味がこめられていると考えられます。
ペンネームを使いだした中学生時代、新美南吉は幼馴染みの木本咸子︵みなこ︶さんに恋い焦がれていましたから、もしかすると自分のペンネームの中に初恋の女性の名前をしのばせたのかもしれません。その後使い続けた﹁新美南吉︵にいみなんきち︶﹂の中にも﹁みな﹂が隠されていますので、おそらくそうなのではないかと新美南吉記念館では考えています。
▲木本咸子さん
ペンネームは"新美南吉"だけだったの?
新美南吉以外にも﹁新美弥那鬼︵にいみみなき︶﹂、﹁古美北吉︵こみきたきち︶﹂、﹁宇須野呂吉︵うすのろきち︶﹂などのペンネームを使ったこともあります。また俳句を作るときには﹁耳鳴︵じめい︶﹂という号を使うことがありました。
南吉は何歳の頃から童謡や童話を書き始めたの?
本格的に描き始めたのは、中学2年生︵14歳︶の頃からと思われます。
南吉はどうして童謡や童話を書くようになったの?
とにかく文章を書くことが好きだったからでしょう。小学生の頃から作文が上手だった南吉は、先生から﹁この分でいけば小説家ですよ﹂とほめられたこともあって、自分に文学の才能があることを自覚し、その才能を磨こうと努力したのです。
南吉が初めて出した本は?
昭和16年10月1日に学習社から発行された﹃良寛物語 手毬と鉢の子﹄︵りょうかんものがたり てまりとはちのこ︶です。良寛という江戸時代のお坊様の伝記物語です。
▲﹃良寛物語 手毬と鉢の子﹄
南吉は宮沢賢治を知ってたの?
宮沢賢治は南吉がまだ東京外国語学校の学生だった昭和8年に亡くなりました。南吉は賢治と会ったことはありませんでしたが、早くから彼の作品を読み、高く評価していました。昭和9年に開かれた﹁宮沢賢治友の会﹂という文学者たちの集まりにはちゃんと出席しています。安城で女学校の先生をしていた頃には、授業で賢治の詩を使っています。
南吉は子どもの頃にどんな遊びをしていたの?
南吉の小説﹁塀﹂には、竹馬、メンコ、パチンコ、草の実鉄砲、タコ、陣取りなど、南吉が子どもの頃にしていた遊びがたくさん書かれています。また小説﹁花を埋める﹂に出てくる土の中に埋めた花を探す遊びや、石でヨモギの葉をつぶして草ダンゴをつくるままごと遊びもしました。その頃の遊びの多くは屋外でするもので、道具もほとんど自分でつくりました。
南吉はいつ亡くなったの?
昭和18年3月22日に亡くなりました。まだ29歳7ヵ月という若さでした。墓は半田市内の北谷墓地にあります。
▲南吉の墓
南吉はどうして亡くなったの?
結核が原因で亡くなりました。現在はよく効く薬がありますが、戦前の日本では死亡原因の一位だった病気で、南吉の友人や教え子もたくさんこの病気で亡くなっています。