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1828年
「1828年」を含む日記
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1828年とは
2022-05-28
■
明治時代
、庄屋の娘が夫の
DV
から
逃げて
上京
し
議員
の
財政
を立て直した話
矢
島
楫
子
︵
や
じ
ま
か
じ
こ
、
1
8
3
3
年
6
月
11
日
︿
天
保
4
年
4
月
24
日
﹀
-
1
9
2
5
年
︿
大
正
14
年
﹀
6
月
16
日
︶
は
、
日
本
の
女
子
教
育
者
、
社
会
事
業
家
。
肥
後
国
上
益
城
郡
津
森
村
杉
堂
︵
現
・
熊
本
県
上
益
城
郡
益
城
町
︶
の
惣
庄
屋
矢
島
忠
左
衛
門
直
明
・
母
鶴
の
1
男
7
女
の
6
女
︵
末
子
︶
に
生
ま
れ
、
か
つ
と
命
名
さ
れ
た
。
極
端
な
男
性
社
会
に
あ
っ
て
度
重
な
る
女
児
の
誕
生
は
歓
迎
さ
れ
ず
、
名
付
け
親
は
10
歳
違
い
の
姉
で
あ
る
三
女
・
順
子
で
あ
っ
た
。
順
子
︵
竹
崎
順
子
︶
は
、
横
井
小
楠
の
高
弟
で
あ
る
竹
崎
茶
堂
と
結
婚
し
、
熊
本
女
学
校
校
長
と
な
っ
た
教
育
者
で
あ
る
。
ま
た
、
順
子
の
す
ぐ
下
の
姉
・
久
子
︵
徳
富
久
子
︶
も
同
じ
く
横
井
小
楠
の
高
弟
で
あ
る
徳
富
一
敬
と
結
婚
し
、
湯
浅
初
子
・
徳
富
蘇
峰
・
徳
冨
蘆
花
の
兄
弟
を
生
ん
で
い
る
。
蘇
峰
は
明
治
、
大
正
、
昭
和
に
か
け
て
の
大
論
客
、
蘆
花
は
明
治
、
大
正
の
文
豪
で
あ
る
。
ま
た
、
か
つ
の
す
ぐ
上
の
姉
つ
せ
子
︵
横
井
つ
せ
子
︶
は
横
井
小
楠
の
後
妻
と
な
っ
た
。
こ
の
姉
妹
4
人
は
﹁
肥
後
の
猛
婦
﹂
、
﹁
四
賢
婦
人
﹂
と
呼
ば
れ
た
。
か
つ
は
学
校
な
ど
な
い
当
時
、
一
通
り
の
教
育
を
母
か
ら
厳
し
く
身
に
つ
け
さ
せ
ら
れ
る
が
、
も
と
よ
り
勝
気
で
秘
め
た
る
情
熱
の
持
ち
主
だ
っ
た
か
つ
は
、
や
が
て
母
亡
き
あ
と
は
母
に
替
わ
っ
て
兄
・
直
方
の
た
め
に
尽
く
す
。
そ
の
兄
も
妹
の
た
め
に
良
縁
を
求
め
、
か
つ
25
歳
の
時
、
初
婚
に
は
も
は
や
遅
い
と
し
て
既
に
2
男
1
女
を
儲
け
て
い
た
富
豪
林
七
郎
︵
1
8
2
8
年
生
︶
を
家
柄
・
人
物
と
も
に
相
応
と
認
め
、
後
妻
と
し
て
嫁
が
せ
る
。
林
は
武
家
出
身
で
、
横
井
小
楠
の
弟
子
で
あ
っ
た
。
後
年
楫
子
自
身
の
口
か
ら
も
﹁
こ
の
人
は
気
品
の
高
い
、
竹
を
割
っ
た
よ
う
な
人
で
し
た
﹂
と
語
ら
せ
る
が
、
家
族
へ
の
乱
暴
な
ど
夫
の
酒
乱
の
悪
癖
に
か
つ
は
極
度
の
疲
労
と
衰
弱
で
半
盲
状
態
に
陥
り
、
か
つ
自
身
も
三
人
の
子
ま
で
儲
け
な
が
ら
、
こ
の
う
え
は
身
の
破
滅
と
思
い
、
末
子
達
子
を
連
れ
家
出
す
る
。
迎
え
に
来
た
使
い
の
者
に
見
事
に
結
い
上
げ
て
い
た
黒
髪
を
根
元
か
ら
プ
ッ
ツ
リ
切
っ
て
紙
に
包
み
、
無
言
の
離
縁
を
言
い
渡
し
た
の
で
あ
る
。
明
治
元
年
︵
1
8
6
8
年
︶
、
こ
れ
を
転
機
に
新
し
い
一
歩
を
踏
み
出
す
﹁
新
生
元
年
﹂
と
も
な
っ
た
。
妹
た
ち
の
間
を
転
々
と
す
る
間
、
兄
・
直
方
が
病
に
倒
れ
、
達
子
を
置
い
て
上
京
を
決
意
す
る
。
長
崎
発
東
京
行
き
蒸
気
船
に
乗
り
込
み
、
船
上
に
て
自
ら
﹁
楫
子
﹂
と
改
名
す
る
。
兄
は
大
参
事
︵
副
知
事
︶
兼
務
の
左
院
議
員
で
、
神
田
の
8
0
0
坪
の
屋
敷
に
書
生
、
手
伝
い
ら
は
も
と
よ
り
千
円
と
い
う
借
金
を
抱
え
て
い
た
。
楫
子
は
そ
の
放
漫
財
政
を
正
し
、
3
年
で
借
金
を
片
付
け
る
と
、
生
来
の
向
学
心
か
ら
教
員
伝
習
所
に
通
う
こ
と
と
な
る
。
明
治
6
年
学
制
が
施
行
さ
れ
全
国
に
小
学
校
が
設
置
、
訓
導
試
験
に
合
格
し
た
楫
子
は
芝
の
桜
川
小
学
校
︵
現
・
港
区
立
御
成
門
小
学
校
︶
に
採
用
さ
れ
る
。
当
時
教
員
初
任
給
3
円
の
と
こ
ろ
、
楫
子
は
5
円
と
い
う
破
格
の
待
遇
で
あ
っ
た
。
こ
の
こ
ろ
長
姉
・
藤
島
も
と
子
が
息
子
二
人
と
、
直
方
の
妻
・
糸
子
も
子
供
を
つ
れ
て
上
京
、
兄
宅
は
一
気
に
賑
や
か
に
な
っ
た
。
し
か
し
そ
う
し
た
喧
騒
の
中
、
楫
子
は
妻
子
持
ち
の
書
生
と
の
間
に
女
児
を
宿
す
。
堕
胎
や
父
親
に
渡
す
べ
き
だ
と
諭
す
姉
の
言
を
受
け
入
れ
ず
、
楫
子
は
妙
子
(
鵜
飼
猛
の
妻
、
湯
浅
清
子
の
母
)
と
名
付
け
、
練
馬
の
農
家
に
預
け
て
独
り
下
宿
生
活
に
戻
る
。
そ
ん
な
折
届
い
た
兄
か
ら
の
手
紙
で
、
熊
本
に
残
し
て
き
た
長
子
・
治
定
が
キ
リ
ス
ト
教
徒
に
な
っ
た
の
を
知
り
愕
然
と
す
る
。
熊
本
洋
学
校
生
徒
35
名
に
よ
る
花
岡
山
キ
リ
ス
ト
教
奉
教
同
盟
事
件
で
あ
る
。
治
定
だ
け
で
な
く
甥
の
横
井
時
雄
、
徳
富
蘇
峰
、
徳
冨
蘆
花
も
参
加
し
て
い
る
。
や
が
て
熊
本
洋
学
校
は
廃
校
に
な
り
、
彼
ら
の
一
部
は
、
新
島
襄
の
同
志
社
に
入
学
し
、
熊
本
バ
ン
ド
と
呼
ば
れ
る
こ
と
と
な
る
が
、
こ
の
熊
本
バ
ン
ド
は
札
幌
バ
ン
ド
、
横
浜
バ
ン
ド
と
並
び
日
本
に
お
け
る
キ
リ
ス
ト
教
の
三
大
源
流
と
言
わ
れ
て
い
る
。
教
え
子
の
居
宅
で
父
親
の
酒
害
を
目
撃
し
、
寂
し
さ
で
タ
バ
コ
を
覚
え
た
楫
子
だ
っ
た
が
、
悩
め
る
楫
子
に
と
っ
て
も
キ
リ
ス
ト
教
は
わ
が
子
の
信
じ
る
宗
教
で
あ
り
、
遠
い
異
国
の
宗
教
で
は
な
く
な
っ
た
。
明
治
11
年
︵
1
8
7
8
年
︶
、
楫
子
は
後
半
生
に
多
大
な
影
響
を
受
け
る
米
国
の
宣
教
師
で
教
育
者
の
マ
リ
ア
・
ツ
ル
ー
夫
人
と
運
命
的
に
出
会
う
。
明
治
7
年
︵
1
8
7
4
年
︶
に
B
六
番
女
学
校
と
し
て
設
立
さ
れ
た
築
地
居
留
地
に
あ
る
新
栄
女
学
校
の
教
師
に
請
わ
れ
、
住
み
慣
れ
た
下
宿
を
引
き
払
い
、
同
女
学
校
寄
宿
舎
舎
監
室
に
移
る
。
自
ら
吸
い
か
け
の
タ
バ
コ
に
よ
る
ぼ
や
騒
ぎ
を
起
こ
し
て
禁
煙
を
決
意
、
翌
12
年
︵
1
8
7
9
年
︶
築
地
新
栄
教
会
で
デ
ィ
ビ
ッ
ド
・
タ
ム
ソ
ン
か
ら
洗
礼
を
受
け
る
。
ほ
ぼ
同
時
期
に
、
三
人
の
姉
で
あ
る
徳
富
久
子
、
横
井
つ
せ
子
、
竹
崎
順
子
も
洗
礼
を
受
け
て
い
る
。
当
時
17
歳
の
キ
リ
ス
ト
教
徒
で
あ
っ
た
甥
の
徳
富
蘇
峰
は
、
純
粋
が
ゆ
え
に
楫
子
の
洗
礼
に
際
し
て
、
﹁
過
去
の
過
ち
︵
1
.
幼
い
わ
が
子
を
置
い
て
家
を
出
た
こ
と
2
.
妻
子
あ
る
人
の
子
を
産
ん
だ
こ
と
︶
﹂
を
告
白
す
べ
き
で
な
い
か
と
の
手
紙
を
送
っ
て
い
る
。
し
か
し
、
楫
子
は
幼
い
妙
子
の
こ
と
を
考
え
、
死
ぬ
ま
で
﹁
過
去
の
過
ち
﹂
を
公
表
す
る
こ
と
は
な
か
っ
た
。
明
治
14
年
︵
1
8
8
1
年
︶
夏
、
櫻
井
女
学
校
の
校
主
︵
現
在
の
校
長
と
理
事
長
を
兼
ね
た
職
︶
代
理
に
就
任
。
楫
子
は
校
則
を
作
ら
ず
、
﹁
あ
な
た
が
た
は
聖
書
を
持
っ
て
い
ま
す
。
だ
か
ら
自
分
で
自
分
を
治
め
な
さ
い
﹂
と
生
徒
た
ち
を
諭
し
た
と
い
う
。
明
治
23
年
︵
1
8
9
0
年
︶
、
櫻
井
女
学
校
と
新
栄
女
学
校
は
合
併
し
て
女
子
学
院
と
な
り
、
初
代
院
長
に
推
さ
れ
る
。
明
治
29
年
︵
1
8
9
6
年
︶
、
恩
師
の
ツ
ル
ー
夫
人
が
55
歳
で
客
死
。
楫
子
64
歳
で
あ
っ
た
。
一
方
、
恵
ま
れ
な
か
っ
た
結
婚
生
活
や
小
学
校
教
師
時
代
に
抱
い
た
心
の
疑
問
か
ら
、
楫
子
は
﹁
一
夫
一
婦
制
の
建
白
﹂
、
﹁
海
外
醜
業
婦
取
締
に
関
す
る
建
白
﹂
を
政
府
に
提
出
、
国
会
開
設
と
共
に
二
大
請
願
運
動
と
し
て
継
続
す
る
。
楫
子
の
情
熱
は
日
本
に
止
ま
ら
ず
日
本
国
外
に
も
向
か
い
、
明
治
39
年
︵
1
9
0
6
年
︶
、
74
歳
に
し
て
渡
米
、
ル
ー
ズ
ベ
ル
ト
大
統
領
と
会
見
。
激
務
の
た
め
白
内
障
を
患
う
。
大
正
9
年
︵
1
9
2
0
年
︶
に
は
欧
米
の
旅
に
出
掛
け
、
翌
10
年
︵
1
9
2
1
年
︶
に
は
満
州
に
、
同
年
か
ら
11
年
︵
1
9
2
2
年
︶
に
か
け
て
は
三
度
渡
米
、
こ
の
と
き
楫
子
89
歳
で
あ
っ
た
。
教
職
は
大
正
3
年
︵
1
9
1
4
年
︶
、
女
子
学
院
院
長
を
後
裔
に
譲
り
、
齢
81
で
名
誉
院
長
と
し
て
退
い
た
。
そ
の
後
は
禁
酒
運
動
、
公
娼
制
度
廃
止
運
動
等
に
尽
力
す
る
も
、
大
正
も
そ
の
幕
切
れ
を
迎
え
ん
と
す
る
大
正
14
年
︵
1
9
2
5
年
︶
6
月
半
ば
、
楫
子
は
眠
る
よ
う
に
大
往
生
を
遂
げ
た
。
明
治
、
大
正
と
い
う
い
ま
だ
婦
人
が
一
個
の
人
間
と
し
て
尊
重
さ
れ
る
こ
と
の
な
か
っ
た
時
代
に
、
楫
子
は
婦
人
福
祉
の
た
め
に
そ
の
一
生
を
捧
げ
た
の
で
あ
っ
た
。
大
正
時
代
、
華
族
の
娘
が
50
歳
の
男
に
売
ら
れ
た
話
a
n
o
n
d
:
2
0
2
2
0
5
2
6
1
6
0
5
5
2
P
e
r
m
a
l
i
n
k
|
記
事
へ
の
反
応
(
0
)
|
0
1
:
1
7
ツ
イ
ー
ト
シ
ェ
ア
2020-11-04
■
anond:20201104152114
h
t
t
p
s
:
/
/
w
w
w
.
u
s
a
t
o
d
a
y
.
c
o
m
/
s
t
o
r
y
/
n
e
w
s
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p
o
l
i
t
i
c
s
/
e
l
e
c
t
i
o
n
s
/
2
0
2
0
/
1
1
/
0
4
/
w
h
y
-
n
e
b
r
a
s
k
a
-
m
a
i
n
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c
o
n
g
r
e
s
s
i
o
n
a
l
-
d
i
s
t
r
i
c
t
-
m
e
t
h
o
d
-
c
o
u
l
d
-
c
r
u
c
i
a
l
/
6
0
7
3
9
8
3
0
0
2
/
1
8
2
0
年
に
マ
サ
チ
ュ
ー
セ
ッ
ツ
州
か
ら
分
離
独
立
し
た
後
、
1
8
2
8
年
の
選
挙
ま
で
、
メ
イ
ン
州
は
分
割
選
挙
人
投
票
制
を
採
用
し
て
い
た
。
そ
の
後
、
他
の
ほ
と
ん
ど
の
州
が
採
用
し
始
め
た
よ
う
に
、
同
州
は
勝
者
総
取
り
制
に
移
行
し
た
。
し
か
し
1
9
7
2
年
、
1
9
6
8
年
の
大
統
領
選
挙
で
は
、
共
和
党
の
リ
チ
ャ
ー
ド
・
ニ
ク
ソ
ン
氏
、
民
主
党
の
ヒ
ュ
ー
バ
ー
ト
・
ハ
ン
フ
リ
ー
氏
、
無
所
属
候
補
の
ジ
ョ
ー
ジ
・
ウ
ォ
レ
ス
氏
の
3
者
に
よ
る
3
者
択
一
の
レ
ー
ス
が
行
わ
れ
た
た
め
、
州
は
伝
統
か
ら
脱
却
し
た
。
こ
の
レ
ー
ス
で
は
、
州
の
有
権
者
の
半
数
以
下
に
支
持
さ
れ
て
い
る
候
補
者
に
選
挙
権
が
渡
る
こ
と
を
懸
念
す
る
声
が
上
が
っ
た
た
め
、
メ
イ
ン
州
で
は
選
挙
人
投
票
の
分
割
が
実
施
さ
れ
ま
し
た
。
ネ
ブ
ラ
ス
カ
州
も
20
年
後
に
こ
れ
に
倣
い
、
地
方
議
員
が
大
統
領
候
補
者
の
注
目
を
集
め
よ
う
と
し
た
。
共
和
党
の
議
員
た
ち
は
、
分
割
選
挙
人
投
票
制
度
の
廃
止
を
何
度
も
試
み
た
が
、
失
敗
に
終
わ
っ
た
。
P
e
r
m
a
l
i
n
k
|
記
事
へ
の
反
応
(
0
)
|
1
5
:
3
8
ツ
イ
ー
ト
シ
ェ
ア
2018-05-13
■
[
今日知った人物
]
イヴ
=ルネ・スコル
ディア
ク
イ
ニ
ー
ア
マ
ン
を
作
っ
た
人
。
1
8
2
8
年
に
生
ま
れ
、
フ
ラ
ン
ス
の
ブ
ル
タ
ー
ニ
ュ
地
方
で
パ
ン
屋
を
営
ん
だ
。
1
8
6
0
年
ご
ろ
、
ブ
ル
タ
ー
ニ
ュ
地
方
で
は
小
麦
粉
が
不
足
し
て
い
た
の
で
、
小
麦
粉
を
減
ら
す
代
わ
り
に
特
産
の
有
塩
バ
タ
ー
を
大
量
に
入
れ
て
生
地
を
作
り
、
そ
れ
を
何
度
も
折
り
た
た
ん
で
バ
タ
ー
を
馴
染
ま
せ
て
か
ら
焼
い
た
と
こ
ろ
、
美
味
し
い
ケ
ー
キ
が
出
来
た
の
で
商
品
化
し
た
と
い
う
。
ク
イ
ニ
ー
ア
マ
ン
と
は
フ
ラ
ン
ス
語
で
は
な
く
ブ
ル
タ
ー
ニ
ュ
語
︵
ブ
ル
ト
ン
語
︶
で
バ
タ
ー
菓
子
と
い
う
意
味
。
P
e
r
m
a
l
i
n
k
|
記
事
へ
の
反
応
(
0
)
|
0
7
:
3
7
ツ
イ
ー
ト
シ
ェ
ア
2017-05-19
■
副
島
種
臣
︵
そ
え
じ
ま
た
ね
お
み
、
文
政
11
年
9
月
9
日
︵
1
8
2
8
年
10
月
17
日
︶
-
明
治
38
年
︵
1
9
0
5
年
︶
1
月
31
日
︶
は
、
日
本
の
江
戸
時
代
末
期
︵
幕
末
︶
か
ら
明
治
時
代
の
佐
賀
藩
士
、
政
治
家
、
書
家
。
勲
一
等
、
伯
爵
。
初
名
は
竜
種
︵
た
つ
た
ね
︶
。
通
称
は
次
郎
︵
じ
ろ
う
︶
。
号
に
蒼
海
︵
そ
う
か
い
︶
、
一
々
学
人
︵
い
ち
い
ち
が
く
じ
ん
︶
。
目
次
[
非
表
示
]
1
生
涯
2
書
家
3
栄
典
4
参
考
文
献
4
.
1
伝
記
5
登
場
作
品
6
脚
注
7
関
連
項
目
8
外
部
リ
ン
ク
生
涯
[
編
集
]
文
政
11
年
︵
1
8
2
8
年
︶
、
佐
賀
藩
士
・
枝
吉
南
濠
︵
忠
左
衛
門
、
種
彰
、
30
石
︶
の
二
男
に
生
ま
れ
る
。
父
は
藩
校
で
あ
る
弘
道
館
の
教
授
を
努
め
る
国
学
者
で
、
兄
は
同
じ
く
国
学
者
の
枝
吉
神
陽
。
母
は
木
原
宣
審
の
娘
・
喜
勢
。
父
と
兄
の
影
響
に
よ
り
、
早
く
か
ら
尊
皇
攘
夷
思
想
に
目
覚
め
る
。
弘
道
館
で
学
び
、
こ
の
間
に
江
藤
新
平
や
大
木
喬
任
と
交
わ
る
。
嘉
永
3
年
︵
1
8
5
0
年
︶
、
兄
・
神
陽
が
中
心
に
結
成
し
た
楠
公
義
祭
同
盟
に
加
わ
る
。
嘉
永
5
年
︵
1
8
5
2
年
︶
、
京
都
に
遊
学
、
漢
学
・
国
学
な
ど
を
学
ぶ
。
こ
の
間
に
矢
野
玄
道
ら
と
交
わ
る
。
さ
ら
に
、
神
陽
の
命
を
受
け
て
大
原
重
徳
に
将
軍
廃
止
と
天
皇
政
権
に
よ
る
統
一
を
進
言
す
る
意
見
書
を
提
出
し
て
青
蓮
院
宮
朝
彦
親
王
か
ら
藩
兵
上
洛
を
求
め
ら
れ
る
が
、
藩
主
・
鍋
島
直
正
に
退
け
ら
れ
た
上
、
藩
校
で
の
国
学
教
諭
を
命
じ
ら
れ
た
。
安
政
6
年
︵
1
8
5
9
年
︶
、
父
の
南
濠
が
死
去
し
、
同
年
3
月
に
は
同
藩
士
の
副
島
利
忠
の
養
子
と
な
る
元
治
元
年
︵
1
8
6
4
年
︶
、
長
崎
に
設
け
た
藩
営
の
洋
学
校
・
致
遠
館
の
英
学
生
監
督
と
な
っ
て
英
語
等
を
学
ぶ
。
慶
応
3
年
︵
1
8
6
7
年
︶
、
大
隈
重
信
と
脱
藩
す
る
が
、
捕
ら
え
ら
れ
て
謹
慎
処
分
を
受
け
る
。
明
治
維
新
後
は
慶
応
4
年
︵
1
8
6
8
年
︶
、
新
政
府
の
参
与
・
制
度
取
調
局
判
事
と
な
り
、
福
岡
孝
弟
と
﹃
政
体
書
﹄
起
草
に
携
わ
る
。
明
治
2
年
︵
1
8
6
9
年
︶
に
参
議
、
同
4
年
︵
1
8
7
1
年
︶
に
外
務
卿
と
な
り
、
マ
リ
ア
・
ル
ス
号
事
件
に
お
い
て
活
躍
す
る
。
マ
リ
ア
・
ル
ス
号
事
件
で
は
、
助
け
を
求
め
た
中
国
人
奴
隷
を
解
放
し
た
こ
と
で
、
正
義
人
道
の
人
と
国
際
的
に
支
持
さ
れ
た
。
明
治
6
年
︵
1
8
7
3
年
︶
2
月
に
は
前
々
年
に
台
湾
で
起
き
た
宮
古
島
島
民
遭
難
事
件
︵
台
湾
出
兵
も
参
照
︶
の
処
理
交
渉
の
特
命
全
権
公
使
兼
外
務
大
臣
と
し
て
清
の
首
都
北
京
へ
派
遣
さ
れ
、
日
清
修
好
条
規
批
准
書
の
交
換
・
同
治
帝
成
婚
の
賀
を
述
べ
た
国
書
の
奉
呈
お
よ
び
交
渉
に
あ
た
っ
た
。
こ
の
間
、
清
朝
高
官
と
の
詩
文
交
換
で
そ
の
博
学
ぶ
り
を
評
価
を
さ
れ
て
い
る
。
同
年
10
月
、
征
韓
論
争
に
敗
れ
て
下
野
し
、
明
治
7
年
︵
1
8
7
4
年
︶
に
は
板
垣
退
助
ら
と
共
に
愛
国
公
党
に
参
加
、
同
年
に
は
民
撰
議
院
設
立
建
白
書
を
提
出
し
た
も
の
の
、
自
由
民
権
運
動
に
は
参
加
し
な
か
っ
た
。
西
南
戦
争
中
は
、
中
国
大
陸
中
南
部
を
旅
行
滞
在
し
て
い
る
。
明
治
12
年
︵
1
8
7
9
年
︶
、
宮
内
省
一
等
待
講
。
明
治
17
年
︵
1
8
8
4
年
︶
、
伯
爵
。
明
治
20
年
︵
1
8
8
7
年
︶
に
宮
中
顧
問
官
、
明
治
21
年
︵
1
8
8
8
年
︶
に
枢
密
顧
問
官
、
明
治
24
年
︵
1
8
9
1
年
︶
に
枢
密
院
副
議
長
に
な
り
、
明
治
25
年
︵
1
8
9
2
年
︶
に
は
第
1
次
松
方
内
閣
に
お
い
て
内
務
大
臣
を
務
め
た
。
明
治
38
年
︵
1
9
0
5
年
︶
、
脳
溢
血
の
た
め
死
去
[
1
]
。
P
e
r
m
a
l
i
n
k
|
記
事
へ
の
反
応
(
0
)
|
1
2
:
4
4
ツ
イ
ー
ト
シ
ェ
ア
2010-08-21
■
皆さんは
ホメオパシー
の
起源
を誤解しています
こ
れ
。
h
t
t
p
:
/
/
b
.
h
a
t
e
n
a
.
n
e
.
j
p
/
e
n
t
r
y
/
2
4
2
0
8
1
6
2
ブ
コ
メ
が
ひ
ど
い
で
す
ね
。
リ
ス
ト
に
挙
げ
ら
れ
た
故
人
の
名
誉
の
た
め
に
少
し
お
話
を
さ
せ
て
い
た
だ
く
必
要
が
あ
る
よ
う
で
す
。
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
は
電
波
な
医
者
が
編
み
出
し
た
電
波
な
理
論
だ
と
思
わ
れ
て
い
ま
す
が
、
そ
れ
は
違
い
ま
す
。
提
唱
さ
れ
た
当
初
は
、
当
時
の
先
端
医
療
の
延
長
線
上
に
立
て
ら
れ
た
有
意
義
な
仮
説
で
あ
り
、
当
時
の
標
準
医
療
よ
り
ま
し
な
も
の
で
さ
え
あ
り
ま
し
た
。
そ
の
当
時
の
信
奉
者
は
、
必
ず
し
も
お
か
し
な
も
の
を
妄
信
し
て
い
た
非
開
明
的
な
人
物
で
あ
る
と
は
言
え
ま
せ
ん
。
今
の
よ
う
に
、
ベ
ル
リ
ン
の
壁
を
分
子
0
.
6
個
(
平
均
値
)
し
か
残
ら
な
い
ま
で
に
薄
め
た
も
の
を
教
室
や
会
社
に
噴
霧
す
れ
ば
非
コ
ミ
ュ
の
お
前
ら
も
い
じ
め
ら
れ
な
く
な
る
な
ど
と
い
う
オ
カ
ル
ト
で
は
な
か
っ
た
の
で
す
。
(
ベ
ル
リ
ン
ウ
ォ
ー
ル
の
レ
メ
デ
ィ
は
、
人
間
関
係
修
復
、
い
じ
め
や
鬱
対
策
、
戦
死
者
や
テ
ロ
被
害
者
の
浄
霊
な
ど
に
効
果
が
あ
り
ま
す
。
)
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
は
ワ
ク
チ
ン
の
拡
張
理
論
症
状
を
引
き
起
こ
す
物
質
を
薄
め
て
体
内
に
入
れ
る
こ
と
で
症
状
に
対
抗
す
る
と
い
う
理
屈
。
何
か
に
似
て
い
る
と
思
い
ま
せ
ん
か
?
非
常
に
薄
め
た
菌
を
植
え
て
抵
抗
力
を
獲
得
す
る
、
ワ
ク
チ
ン
で
す
ね
。
エ
ド
ワ
ー
ド
・
ジ
ェ
ン
ナ
ー
が
種
痘
の
接
種
に
成
功
し
た
の
は
1
7
9
6
年
、
発
表
は
1
7
9
8
年
。
そ
れ
以
前
か
ら
天
然
痘
の
接
種
は
行
わ
れ
て
い
ま
し
た
が
、
な
に
せ
病
人
の
膿
を
そ
の
ま
ま
植
え
る
の
で
、
結
構
発
病
し
て
死
に
ま
し
た
。
薄
め
て
接
種
す
る
こ
と
で
危
険
性
を
下
げ
、
う
ま
く
効
果
だ
け
を
得
る
方
式
を
編
み
出
し
た
の
が
ジ
ェ
ン
ナ
ー
な
の
で
す
ね
。
一
方
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
の
始
祖
で
あ
る
ド
イ
ツ
の
医
師
、
サ
ミ
ュ
エ
ル
・
ハ
ー
ネ
マ
ン
が
類
似
の
法
則
を
初
め
て
世
に
問
う
た
の
は
1
7
9
6
年
(
医
学
誌
に
エ
ッ
セ
ー
を
発
表
。
こ
れ
を
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
と
名
付
け
た
の
は
1
8
0
7
年
?
で
、
体
系
付
け
て
理
論
書
に
ま
と
め
る
の
は
1
8
1
0
年
)
。
こ
の
時
点
で
は
薄
め
る
こ
と
を
条
件
と
し
て
い
な
い
よ
う
で
す
が
、
1
8
0
0
年
に
は
希
釈
し
た
ベ
ラ
ド
ン
ナ
を
用
い
た
記
録
が
確
認
で
き
ま
す
。
は
い
。
ワ
ク
チ
ン
と
ご
く
初
期
の
同
種
療
法
は
、
同
時
代
の
似
通
っ
た
発
想
な
の
で
す
。
ハ
ー
ネ
マ
ン
は
希
釈
と
い
う
手
法
を
お
そ
ら
く
は
ワ
ク
チ
ン
研
究
か
ら
取
り
入
れ
、
薬
草
で
も
同
様
に
毒
性
を
下
げ
て
薬
効
を
得
ら
れ
る
の
で
は
な
い
か
と
考
え
た
の
で
し
ょ
う
。
当
時
の
最
先
端
医
療
を
勉
強
し
、
さ
ら
に
拡
張
し
て
薬
草
の
効
果
に
ま
で
敷
衍
で
き
な
い
か
と
考
え
た
の
で
は
な
い
で
し
ょ
う
か
。
毒
を
薄
め
て
薬
に
す
る
薬
草
は
結
構
多
い
で
す
し
ね
。
結
果
的
に
は
同
種
療
法
の
考
え
方
は
誤
っ
て
い
た
も
の
の
、
当
時
お
か
し
く
は
な
い
着
想
で
あ
り
、
悪
く
な
い
医
学
上
の
仮
説
で
あ
っ
た
と
言
え
ま
す
。
ハ
ー
ネ
マ
ン
は
ア
ホ
で
は
な
い
。
真
摯
な
学
究
の
徒
で
し
た
。
砒
素
中
毒
に
関
す
る
ま
っ
と
う
な
専
門
書
を
書
き
残
し
て
も
い
ま
す
。
だ
か
ら
こ
そ
砒
素
や
水
銀
を
処
方
し
て
い
た
当
時
の
医
療
を
嫌
っ
て
独
自
の
療
法
に
走
っ
た
の
で
あ
り
、
先
端
医
療
か
ら
希
釈
と
い
う
発
想
を
取
り
入
れ
る
聡
明
さ
も
持
ち
合
わ
せ
て
い
ま
し
た
。
ふ
と
思
い
付
い
て
キ
ナ
皮
を
飲
ん
で
み
た
ら
マ
ラ
リ
ア
類
似
の
症
状
に
な
っ
た
こ
と
か
ら
同
種
療
法
を
考
え
付
い
た
と
い
う
逸
話
が
有
名
で
す
が
、
こ
こ
に
薄
め
る
手
続
き
は
あ
り
ま
せ
ん
よ
ね
。
そ
こ
は
他
人
の
先
端
研
究
を
意
欲
的
に
取
り
入
れ
た
部
分
で
す
。
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
が
ま
っ
た
く
新
し
い
オ
リ
ジ
ナ
ル
の
着
想
だ
と
言
い
た
い
ホ
メ
オ
パ
ス
が
元
ネ
タ
を
隠
蔽
し
た
た
め
に
こ
こ
が
ミ
ッ
シ
ン
グ
リ
ン
ク
に
な
っ
て
い
る
の
で
す
。
も
っ
と
も
、
ハ
ー
ネ
マ
ン
自
身
も
そ
う
だ
っ
た
の
か
も
し
れ
ま
せ
ん
。
そ
の
ま
ま
採
用
す
る
の
が
癪
で
、
薄
め
れ
ば
薄
め
る
ほ
ど
有
効
な
ど
と
い
う
蛇
足
を
加
え
た
の
か
も
し
れ
ま
せ
ん
。
同
種
療
法
が
伝
染
病
に
効
い
た
!
同
種
療
法
は
ハ
ー
ネ
マ
ン
の
元
で
ほ
そ
ぼ
そ
と
試
さ
れ
て
い
た
の
で
す
が
、
こ
れ
が
世
間
の
知
る
と
こ
ろ
と
な
っ
た
の
は
、
1
8
0
0
年
の
猩
紅
熱
の
流
行
で
す
。
若
草
物
語
で
三
女
の
ベ
ス
が
死
の
淵
を
さ
ま
よ
う
病
気
で
す
ね
。
こ
の
時
、
上
で
述
べ
た
通
り
、
希
釈
し
た
ベ
ラ
ド
ン
ナ
を
使
用
し
て
い
ま
す
。
ワ
ク
チ
ン
ま
で
も
開
発
さ
れ
た
ご
時
世
で
は
あ
り
ま
し
た
が
、
標
準
医
療
と
し
て
は
依
然
、
瀉
血
と
(
動
物
の
血
の
)
輸
血
が
行
わ
れ
て
い
ま
し
た
。
そ
ん
な
も
ん
、
ぴ
ん
ぴ
ん
し
て
て
も
死
ん
で
ま
う
わ
。
の
ち
に
ナ
イ
チ
ン
ゲ
ー
ル
が
語
っ
た
通
り
、
害
の
あ
る
行
為
よ
り
は
意
味
の
な
い
行
為
の
方
が
ま
し
で
す
。
な
の
で
、
同
種
療
法
は
標
準
医
療
よ
り
生
存
率
を
高
め
ま
し
た
!
お
め
で
と
う
ご
ざ
い
ま
す
。
最
先
端
医
療
で
あ
る
同
種
療
法
の
有
効
性
が
確
か
め
ら
れ
ま
し
た
。
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
の
零
落
と
再
興
か
く
て
華
々
し
い
実
績
を
引
っ
さ
げ
て
デ
ビ
ュ
ー
し
た
同
種
療
法
は
や
が
て
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
と
名
を
変
え
、
1
8
3
0
年
代
ま
で
は
標
準
医
療
に
追
わ
れ
な
が
ら
も
果
敢
に
戦
っ
て
い
た
よ
う
で
す
。
が
、
1
8
2
8
年
頃
に
は
、
ハ
ー
ネ
マ
ン
が
次
々
思
い
付
く
新
理
論
に
つ
い
て
い
け
な
い
ホ
メ
オ
パ
ス
も
現
れ
て
い
ま
し
た
。
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
は
も
は
や
ま
っ
た
く
医
学
上
の
一
仮
説
で
は
な
く
な
っ
て
し
ま
っ
て
お
り
、
理
論
を
信
じ
て
従
っ
て
き
た
者
と
ど
こ
ま
で
も
ハ
ー
ネ
マ
ン
に
付
く
者
と
い
う
形
で
ホ
メ
オ
パ
ス
同
士
の
内
部
抗
争
が
始
ま
り
ま
し
た
。
1
8
3
0
年
か
ら
の
コ
レ
ラ
大
流
行
で
英
仏
が
水
際
作
戦
に
失
敗
し
た
た
め
近
代
医
療
へ
の
不
信
が
高
ま
っ
た
こ
と
が
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
の
最
後
の
味
方
と
な
り
ま
し
た
。
ハ
ー
ネ
マ
ン
は
若
い
妻
を
娶
り
、
パ
リ
の
社
交
界
に
招
か
れ
さ
え
も
し
て
、
幸
せ
な
晩
年
を
送
り
ま
す
。
し
か
し
、
そ
れ
が
最
後
の
輝
き
。
所
詮
は
誤
っ
た
仮
説
で
あ
っ
た
の
で
、
医
療
の
目
覚
し
い
進
展
に
伴
い
取
り
残
さ
れ
て
し
ま
い
ま
し
た
。
お
疲
れ
様
で
し
た
。
役
目
を
果
た
し
終
え
た
仮
説
に
用
は
あ
り
ま
せ
ん
。
誤
謬
で
し
か
な
か
っ
た
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
は
、
そ
の
ま
ま
マ
イ
ナ
ー
な
代
替
療
法
の
一
種
に
零
落
し
て
い
っ
た
の
で
し
ょ
う
。
で
す
が
、
第
一
次
世
界
大
戦
終
戦
後
の
暗
い
世
相
の
中
、
ホ
メ
オ
パ
シ
ー
は
再
び
胎
動
を
始
め
る
の
で
し
た
…
…
。
ハ
ー
ネ
マ
ン
の
遺
稿
(
と
称
す
る
も
の
)
が
1
9
2
0
年
に
刊
行
さ
れ
る
ほ
ど
に
。
お
知
ら
せ
こ
の
エ
ン
ト
リ
は
あ
く
ま
で
当
方
の
史
観
を
示
す
読
み
物
で
す
。
P
e
r
m
a
l
i
n
k
|
記
事
へ
の
反
応
(
0
)
|
1
8
:
0
7
ツ
イ
ー
ト
シ
ェ
ア
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