ベネヴェント
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ベネヴェント Benevento | |
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![]() サンタ・ソフィア教会とマッテオッティ広場 | |
行政 | |
国 |
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州 |
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県/大都市 |
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CAP(郵便番号) | 82100 |
市外局番 | 0824 |
ISTATコード | 062008 |
識別コード | A783 |
分離集落 | #分離集落参照 |
隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 |
地震分類 | zona 1 (sismicità alta) |
気候分類 | zona C, 1316 GG |
公式サイト | リンク |
人口 | |
人口 | 59,789 [1] 人 (2018-01-01) |
人口密度 | 460.1 人/km2 |
文化 | |
住民の呼称 | beneventani |
守護聖人 |
聖バルトロメオ (San Bartolomeo) |
祝祭日 | 8月24日 |
地理 | |
座標 | 北緯41度08分0秒 東経14度47分0秒 / 北緯41.13333度 東経14.78333度座標: 北緯41度08分0秒 東経14度47分0秒 / 北緯41.13333度 東経14.78333度 |
標高 | 135 (83 - 499) [2] m |
面積 | 129.96 [3] km2 |
![]() ベネヴェント県におけるコムーネの領域 | |
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ベネヴェント︵Benevento (
音声ファイル)︶は、イタリア共和国カンパニア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約60,000人の基礎自治体︵コムーネ︶。ベネヴェント県の県都である。
ローマ人がこの地を支配下に収める以前からの古い歴史を持つ都市で、ローマ時代にはアッピア街道の重要都市として繁栄した。中世には南イタリアを統治するベネヴェント公国の首都であり、11世紀末以降は19世紀のイタリア統一まで︵ナポレオン時代を除き︶教皇領であった。この都市の周辺では、古代以来何度かの重要な戦闘が行われており、ローマがピュロス王を退けた戦い︵紀元前274年︶、第二次ポエニ戦争中の戦い︵紀元前214年、紀元前212年︶、シチリア王位をめぐる戦い︵1266年︶が著名である。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/Speaker_Icon.svg/13px-Speaker_Icon.svg.png)
名称
ローマ時代にはベネウェントゥム︵Beneventum︶の名で呼ばれた都市であるが、もともとはマレウェントゥム︵Maleventum︶、あるいはオスク語由来のマロエントン︵Maloenton︶と呼ばれていた都市である。 オスク語もしくはサムニウム語での名はおそらく Maloeis あるいは Malieis (古代ギリシア語: Μαλιείς) で、ここから Maleventum という語形が導かれたものと考えられる[4]。"-vent"は、おそらくは市場が立った場所を示しており、古代の地名としてはありふれた要素であるとする説がある[5]。 ローマ人たちは、マレウェントゥム︵Maleventum︶という地名を﹁悪い出来事﹂︵malum eventum︶[6]に通じると解し、﹁悪い﹂︵male︶を﹁良い﹂︵bene︶に改めてベネウェントゥム︵Beneventum︶とした。なお、この改名については、﹁悪い風﹂/﹁良い風﹂︵bene ventum︶とする解釈もされている[7][8]。地理
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Benevento_map.png/350px-Benevento_map.png)
位置・広がり |
歴史
ローマ以前
古代、この都市はサムニウムの主要都市のひとつでマレウェントゥム︵Maleventum︶と呼ばれ、カプア︵古代のカプアは現在のサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレの場所にあった︶の東約50kmに位置する、Calor川︵現代のカローレ川︶河畔、アッピア街道沿いの都市であった。 この都市がどの部族に属する都市であったかについては食い違う記述がある。プリニウスは明確にヒルピニ族の都市であると記しているが、リウィウスはヒルピニ族とサムニウム人をはっきり区別した上で︵ヒルピニ族はサムニウム人の一部とされることがある︶サムニウム人に属するものであろうとしている。プトレマイオスもリウィウスと同じ見方である[10]。古代の著述家たちが非常に古い都市としてこの都市を表現することは一致しており、ソリヌス (Gaius Julius Solinus) とビザンティウムのステファヌス (Stephanus of Byzantium) は都市の設立者をディオメーデースに帰している。この伝説は住民たちによって受け入れられていたもので、プロコピオスが著述した当時︵6世紀︶の住民たちは、彼らがディオメーデースの子孫であることの証拠として、カリュドーンの猪の牙だというものを示したという[11]。フェストゥス (Sextus Pompeius Festus) (s. v. Ausoniam) はそれと異なり、オデュッセウスとキルケーの息子であるアウソン (Auson) によって設立されたとしており、これはサムニウム人によって征服される以前はアウソニ人の都市であったという伝承を示しているという。 ともあれ、歴史においてはサムニウム人の都市としてあらわれている[12]。すでに強力な都市であったことは確かなようであり、古代ローマ人は紀元前4世紀半ばから3度にわたって繰り返されたサムニウム人との戦争︵サムニウム戦争︶でも最初の二度は攻撃に踏み切ってはいない。最初に現れるのは第三次サムニウム戦争︵紀元前298年 - 紀元前290年︶においてであって、正確な時期は不明であるが、ローマ人の手に落ちた。ローマ時代
紀元前274年、ピュロス戦争においてピュロス王がローマによって退けられた戦い︵ベネウェントゥムの戦い︶が近郊で行われた当時には、この都市がローマの支配下にあったことが確実である[13]。その6年後の紀元前268年には、ラテン市民権を持つコロニア︵植民市︶が設立され、その所有権を確保した[14]。この都市がベネウェントゥム (Beneventum) という名で言及されたのはこの時が最初であるが、これはそれまでのマレウェントゥム (Maleventum)という名をローマ人たちが不吉なものとして忌み、より縁起のよいものに変えたものである[15]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Benevento-Teatro_Romano.jpg/250px-Benevento-Teatro_Romano.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Via_Appia_map.jpg/300px-Via_Appia_map.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/PiranesiArchTrajanBenevento.jpg/250px-PiranesiArchTrajanBenevento.jpg)
ベネヴェント公国
詳細は「ベネヴェント公国」を参照
教皇による支配
ベネヴェント公国は1053年、バンベルク司教領 (Prince-Bishopric of Bamberg) と交換の形で、皇帝ハインリヒ3世から教皇レオ9世に平和裡に割譲された。ベネヴェント大司教ランドゥルフ2世 (Landulf II (archbishop of Benevento)) は、退陣するまでの2年の間に、改革を推進するとともにノルマン人と同盟した。
ベネヴェントは、南イタリアにおけるローマ教皇の世俗権力の基盤であった。教皇は教区司祭を任命し、教区司祭は宮殿にあってこの地の当地に当たった。
1266年にはベネヴェント近郊でシチリア王マンフレーディとシャルル・ダンジューが戦い、マンフレーディが戦死した︵ベネヴェントの戦い︶[27]。
1806年、ナポレオンはタレーランに元首の称号を与えてこの公国を与えた。タレーランはこの地に居住することも、彼の公国を実際に統治することもなかった。1815年、ベネヴェントはふたたび教皇領に戻った。1860年にイタリア王国に統一された[27]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Benevento%2C_chiesa_di_santa_sofia%2C_annuncio_a_zaccaria_%28particolare%29_affresco_fine_VIII_inizio_IX_secolo.jpg/200px-Benevento%2C_chiesa_di_santa_sofia%2C_annuncio_a_zaccaria_%28particolare%29_affresco_fine_VIII_inizio_IX_secolo.jpg)
サンタ・ソフィア教会のフレスコ画
ベネヴェントには、ローマ・カトリック教会の大司教座が置かれている (Roman Catholic Archdiocese of Benevento) 。
この都市にあるサンタ・ソフィア教会 (Santa Sofia, Benevento) は、世界遺産﹁イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 (568-774年)﹂の構成資産に指定されている。
ベネヴェントには、魔女︵ストレーガ、伊: Strega︶の伝説がある (Witches of Benevento) 。この伝説から、﹁ストレガ﹂と名付けられたリキュールがベネヴェントで生産されている。
行政
分離集落
ベネヴェントには、以下の分離集落︵フラツィオーネ︶がある。 ●Acquafredda, Cancelleria, Capodimonte masseria La Vipera, Caprarella, Ciancelle, c.da Epitaffio, Francavilla, Imperatore, Madonna della Salute, Masseria Ponte, c.da Olivola, Perrottiello, Piano Cappelle, Pino, Rosetiello, San Chirico, San Cumano, San Domenico, Sant' Angelo a Piesco, San Vitale, Scafa, Sponsilli, Torre Alfieri, Vallereccia.文化
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Benevento%2C_chiesa_di_santa_sofia%2C_annuncio_a_zaccaria_%28particolare%29_affresco_fine_VIII_inizio_IX_secolo.jpg/200px-Benevento%2C_chiesa_di_santa_sofia%2C_annuncio_a_zaccaria_%28particolare%29_affresco_fine_VIII_inizio_IX_secolo.jpg)
スポーツ
プロサッカークラブとしてベネヴェント・カルチョがある。ホームスタジアムはスタディオ・チーロ・ヴィゴリート。姉妹都市
ベツレヘム、パレスチナ 1950年
ナポリ、イタリア 1966年
トッレ・アンヌンツィアータ、イタリア 1966年
ポッツオーリ、イタリア 1970年
プーラ、クロアチア 1977年
ゴゾ島、マルタ 1987年
スプリト、クロアチア 1997年
パルマ・デ・マヨルカ、スペイン 2001年
ベルン、スイス 2002年
カンポバッソ、イタリア 2002年
ヴロラ、アルバニア 2007年
脚注
(一)^ 国立統計研究所︵ISTAT︶. “Total Resident Population on 1st January 2018 by sex and marital status” (英語). 2018年12月30日閲覧。
(二)^ 国立統計研究所︵ISTAT︶. “Tavola: Popolazione residente - Benevento (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2014年8月12日閲覧。
(三)^ 国立統計研究所︵ISTAT︶. “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Benevento (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2014年8月12日閲覧。
(四)^ James Millingen, Numnismatique de l'Italie, p. 223.
(五)^ E. McClure, British Place-Names in their Historical Settings, London (1910), pp. 32-34
(六)^ “Cenni storici”. Provincia di Benevento︵ベネヴェント県︶. 2016年10月22日閲覧。
(七)^ Colin McEvedy (2011). Cities of the Classical World. Penguin Books 2016年10月22日閲覧。(Google Books)
(八)^ 一例として、国連大学の Valeria Bello はベネヴェントという地名について“Good wind”もしくは“Good event”の意味であると紹介している。Valeria Bello (2016年7月11日). “Mygration Story: Italian Roots and Winds of Change”. United Nations University. 2016年10月22日閲覧。
(九)^ “地図上で2地点の方角・方位、距離を調べる”. 2016年4月19日閲覧。
(十)^ Pliny iii. 11. s. 16; Livy xxii. 13; Ptolemy iii. 1. § 67.
(11)^ Gaius Julius Solinus 2. § 10; Steph. B. s. v.; Procop. B. G. i. 15.
(12)^ Livy ix. 27.
(13)^ Plutarch Pyrrh. 25; Frontinus Strategemata iv. 1. § 14.
(14)^ Livy Epit. xv.; Velleius Paterculus i. 14.
(15)^ Pliny iii. 11. s. 16; Liv. ix. 27; Fest. s. v. Beneventum, p. 34; Steph. B. s. v.; Procop. B. G. i. 15.
(16)^ Liv. xxii. 13, xxiv. 14, 16, xxv. 13, 14, 15, 17; Appian, Annib. 36, 37.
(17)^ Livy xxvii. 10.
(18)^ Appian, B.C. iv. 3; Strabo v. p. 250; Cicero In Verrem i. 1. 5.
(19)^ Appian. l. c.; Lib. Colon. pp. 231, 232; Inscr. ap. Romanelli, vol. ii. pp. 382, 384; Orell. Inscr. 128, 590.
(20)^ Strabo vi. p. 283.
(21)^ Sat. i. 5, 71.
(22)^ Tacitus Ann. xv. 34.
(23)^ Pliny iii. 11. s. 16; Mommsen, Topogr. degli Irpini, p. 167, in Bull. dell'Inst. Arch. 1847.
(24)^ Procop. B. G. iii. 6; P. Diac. ii. 20; De Vita, Antiq. Benev. pp. 271, 286.
(25)^ Suet. Gram. 9; Orell. Inscr. 1178, 1185.
(26)^ Henzen, Tab. Aliment. Baebian, p. 93-108; Mommsen, Topogr. degli Irpini, p. 168-71.
(27)^ ab
この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Benevento". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 727–728.
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