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{{基礎情報 武士 |
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{{武士/開始|上杉定実}} |
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| 氏名 = 上杉 定実 |
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{{武士/生誕|[[文明 (日本)|文明]]10年([[1478年]])?}} |
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{{武士/官位|兵庫頭}} |
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| 生誕 = 不明 |
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⚫ | | 死没 = [[天文 (元号)|天文]]19年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]{{Sfn|池|矢田|2007|p=81}}([[1550年]][[3月14日]]) |
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{{武士/氏族|[[上杉氏]]、[[上条上杉家]]([[藤原氏]])}} |
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{{武士/父母|父:[[上杉房実]] 母:[[山吉久盛]]の娘}} |
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| 別名 = |
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{{武士/兄弟|'''定実'''、[[上条定憲|定憲]]、[[上杉定明|定明]]、姉([[積翠院]]?)}} |
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| 諡号 = |
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{{武士/妻|[[正室]]:'''[[上杉房能]]の娘''' <br> [[継室]]:'''[[長尾能景]]の娘'''}} |
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| 神号 = |
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{{武士/子|娘([[蘆名氏]]正室?)、娘([[伊達稙宗]][[側室]]?)<br>娘([[中条氏]][[正室]]?)、娘([[長尾晴景]]正室)<br>猶子:''長尾晴景''}} |
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| 戒名 = 永徳院殿{{Sfn|池|矢田|2007|p=81}} |
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{{武士/終了}}'''上杉 定実'''(うえすぎ さだざね)は[[日本]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の人物。[[越後国|越後]][[守護]][[上杉氏]]の当主。[[上杉房能]]の養子。[[長尾為景]]の[[妹]]を後妻に迎えており、[[上杉謙信]]は[[甥]]、そして[[婿]]の弟にあたる。 |
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| 霊名 = |
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| 主君 = |
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| 藩 = |
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| 氏族 = [[上条上杉家]]→[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]] |
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| 父母 = 父‥[[上杉房実]]{{Efn|﹁山吉家伝記之写﹂では上杉掃部守定俊が定実の実父であるとしている。森田真一は、山吉家や﹁[[上杉家文書]]﹂に残る定俊の発給文書より、定俊は[[蒲原郡]]を本拠地とする上条上杉家の庶流と推定している{{Sfn|森田真一|2001|pp=1-27}}。}}<br />養父‥''[[上杉房能]]''?
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| 兄弟 = [[積翠院]]{{Efn|[[仙台藩]]の史料では定実を積翠院の父とするが、積翠院が長男・[[伊達稙宗|稙宗]]を産んだのは[[長享]]2年︵[[1488年]]︶であり、年代的には全く整合性がとれない。このため実際には、積翠院は定実の実姉︵15歳以上年長か︶と考えられている{{Sfn|長谷川伸|1995|pp=5-23}}。}}︵[[伊達尚宗]]正室︶、'''定実'''、[[上条定憲]]、[[上杉定明|定明]]
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| 妻 = 正室‥'''[[上杉房能]]娘'''<br/>継室‥'''[[長尾能景]]娘'''{{Efn|﹁長尾系譜﹂﹁上杉系図并長尾系図﹂︵米沢市立中央図書館蔵上杉文書︶では為景の娘の一人が定実夫人とされ、検討が必要とされている{{Sfn|前嶋敏|2008|pp=807-819}}。}}
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| 子 = [[長尾晴景]]正室、[[蘆名氏]]室{{要出典|date=2014年5月}}<br/>猶子{{Efn|「日本随筆大成」に所収されている[[江戸時代]]中期の[[神沢杜口]]の[[随筆]]「翁草」には、定実が為景の姉妹を娶った際に、為景の嫡子・六郎(のちの晴景か)を猶子とする約定を取り交わした書かれているが、{{要出典範囲|date=2017年4月|同時代史料では確認できない}}。}}{{Efn|{{Harvnb|豊田武編|1965}}には長尾晴景の妻は定実の娘と書かれているが、出典不明であり{{要出典範囲|date=2017年4月|史料で確認できない}}。}}:''[[伊達実元]]''<small>(※養子になる予定だったがのち中止)</small> |
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| 特記事項 = |
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}} |
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'''上杉 定実'''(うえすぎ さだざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[守護大名]]。[[越後国]][[守護]]。[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]8代(最後の)当主。{{要出典範囲|date=2017年4月|[[上杉房能]]の従弟で、養子とされるが確証はない}}。[[上杉謙信]](初名:長尾景虎)は義理の甥<!--、そして[[婿]]の弟-->にあたる<!--<ref>定実が[[長尾為景]]の妹を後妻に迎えており、その娘が[[長尾晴景]]に嫁いでいるため。</ref>-->。 |
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[[伊達尚宗]]の妻である[[積翠院]]の父とする記録も存在するが、年代的には全く整合性がとれないので信憑性は低い(尚宗は定実より一世代上の人物である)。実際のところは、定実の実姉(年代的に15歳以上年長か?)が尚宗に嫁いだとするのが妥当と思われる<ref>[[長谷川伸]] 「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」 『地方史研究』第254号、[[1994年]]</ref>が、いずれも明確な資料に欠けている。 |
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== 生涯 == |
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[[上条上杉家]]に生まれ、[[文亀]]3年︵[[1503年]]︶[[6月 (旧暦)|6月]]に越後国守護・[[上杉房能]]の娘を正室に迎えて、その婿となる{{Sfn|池|矢田|2007|p=17}}。その際に﹁定実﹂と名乗っていた事から既に成人していたと考えられるが、生年は不明であり、これ以前の定実については上条上杉家の出自である事以外に詳しい資料がない。実際に養子となったかは不明だが、もし定実の父が房実なら、上杉房能は従弟である事になる(房能の父は上杉房定であり、房実は房定の弟にあたる)。
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[[永正]]4年︵[[1507年]]︶8月、越後国[[守護代]]・[[長尾為景]]に担がれて房能を倒すと{{Sfn|池|矢田|2007|p=19}}、永正5年︵[[1508年]]︶[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]に正式に守護となった{{Sfn|池|矢田|2007|p=21}}。ただ、実質的には為景の傀儡に過ぎず、その際に為景の妹を娶ったとされ︵{{要出典範囲|date=2017年4月|正室であった房能息女はこの時点で死去していた可能性が高い}}︶、[[宇佐美房忠]]から名刀﹁宇佐美貞光﹂を献上されている。
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しかし、[[関東管領]][[上杉顕定]]︵房能の実兄︶の侵攻により、[[1509年]]︵永正6年︶に[[越中]]・[[佐渡]]へ敗走する。[[1510年]]︵永正7年︶、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、為景とともに佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し、[[長森原の戦い]]で顕定を敗死させた。[[1513年]]︵永正10年︶、為景の傀儡であることに不満を抱いて、守護家家臣筋の[[宇佐美氏]]︵[[宇佐美房忠]]、[[宇佐美定満]]︶や実家上条氏の[[上条定憲]]、[[揚北衆]]の諸氏の勢力などを糾合して[[春日山城]]を占拠して、断続的に抵抗を続けたが失敗し、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。
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この当主交代の報復のため、房能の実兄で[[関東管領]]・[[上杉顕定]]が侵攻すると、永正6年︵[[1509年]]︶に長尾為景と共に[[越中国]]へ敗走する{{Sfn|池|矢田|2007|p=22}}。永正7年︵[[1510年]]︶、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]に定実と為景の軍勢は越中から[[佐渡国]]を経由して蒲原津に上陸する{{Sfn|池|矢田|2007|p=23}}。佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し越後各地で顕定方の軍勢を破り、[[長森原の戦い]]で顕定を敗死させた{{Sfn|池|矢田|2007|p=24}}。
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その後、上条定憲らが再度、反為景勢力を結集したため、為景は隠居に追い込まれたが、その後も定実が実権を握ることはできなかったらしい。
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ところが次第に為景の傀儡であることに不満を抱き、永正10年︵[[1513年]]︶、守護家家臣筋の宇佐美房忠・[[宇佐美定満|定満]]父子や実家上条氏の[[上条定憲]]︵弟、あるいは甥︶、[[揚北衆]]の諸氏の勢力などを糾合して[[春日山城]]を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した{{Sfn|池|矢田|2007|pp=32-34}}。その後、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し{{Sfn|池|矢田|2007|pp=56-61}}、天文5年︵[[1536年]]︶[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]に為景を隠居に追い込んだが{{Sfn|池|矢田|2007|p=61}}、定実が実権を握るまではできなかった。それでも為景の跡を継いだ[[長尾晴景]]は求心力に欠けていたため、定実の権力は一応の回復を見せた。
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為景の跡を継いだ[[長尾晴景]](定実の婿、当初は[[偏諱]]によって定景)は、為景と比べると求心力に欠けたため、定実の権力は一応の回復を見せた。 |
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定実には男子がいなかったため |
天文7年︵[[1538年]]︶頃、定実に養子の話が持ち上がる。定実には男子がいなかったため、縁戚︵定実の甥︶である[[陸奥国]]の大名・[[伊達稙宗]]の子である[[伊達実元|時宗丸]]︵のち偏諱によって'''実'''元と名乗る︶との[[養子縁組]]を[[中条藤資]]︵実元の母は藤資の妹︶らと推進する。長尾為景もこの入嗣を積極的に支援し、その費用を捻出するため[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]には頸城郡内に段銭を課している{{Sfn|池|矢田|2007|p=64}}。そのような中で、天文8年︵[[1539年]]︶9月に入嗣反対派であった阿賀北小泉荘の[[本庄房長]]領に[[伊達氏]]の軍勢が侵入し、越後北部や[[出羽国]]での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた{{Sfn|池|矢田|2007|pp=64-72}}。天文11年︵[[1542年]]︶[[4月 (旧暦)|4月]]、定実は長尾晴景に対して自らの出家を希望する起請文を送り入嗣の進展を迫る{{Sfn|池|矢田|2007|p=72}}。[[6月 (旧暦)|6月]]に晴景は伊達氏の元に重臣の[[直江氏]]と[[平子氏]]を使いに送り、定実の諱である﹁実﹂の字を時宗丸に与えること、上杉氏重代の腰刀﹁長光﹂と﹁竹に雀﹂の家紋を贈ること、[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]に時宗丸が越後へ出発することが決まった{{Sfn|池|矢田|2007|p=72}}。だが[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]、伊達氏における内訌︵[[天文の乱]]︶が発生したため縁組は中止され、定実のもくろみは頓挫した{{Sfn|池|矢田|2007|p=73}}。
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天文年間末期には[[黒田秀忠]]の反乱も起きて越後は動揺するが、これを晴景 |
天文年間末期には[[黒田秀忠]]の反乱も起きて越後は動揺するが、これを晴景の弟・長尾景虎︵後の上杉謙信︶が鎮圧したことで{{Sfn|池|矢田|2007|pp=76-78}}、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。天文17年︵[[1548年]]︶、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した{{Sfn|池|矢田|2007|p=79}}。
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晩年は出家して'''玄清'''と名乗り、天文19年︵[[1550年]]︶に病死。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]の命令で景虎が越後守護を代行した{{Sfn|池|矢田|2007|p=81}}。
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== 偏諱を受けた人物 == |
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*[[伊達実元|伊達'''実'''元]]([[又甥]](甥・伊達稙宗の子)、※養子になる予定だったが、前述の通り縁組は中止。なお「実」の字は実元の子の[[伊達成実|成実]]、成実の養子の[[伊達宗実 (亘理伊達家)|宗実]]と受け継がれ、その末裔の[[亘理伊達家]]でも通字としてたびたび用いられた) |
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*[[宇佐美定満|宇佐美'''定'''満]](房忠の子) |
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*[[長尾晴景|長尾'''定'''景]](のち晴景に改名) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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===注釈=== |
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== 参考文献 == |
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* {{Citation |和書|editor1-last=池|editor1-first=亨|editor2-last=矢田|editor2-first=俊文|editor1-link=|editor2-link=矢田俊文 (歴史学者)|others=長谷川伸・福原圭一・片桐昭彦・木村康裕・水澤幸一・市村清貴・[[黒田基樹]]・栗原修・広井造・竹田和夫・西澤睦郎執筆|date=2007-3|edition=増補改訂|title=上杉氏年表 : 為景・謙信・景勝|publisher=高志書院|isbn=9784862150196|ncid=BA81497747|id={{全国書誌番号|21185666}}|oclc=675847679|page=|ref=harv}} |
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2024年1月3日 (水) 06:43時点における最新版
上杉 定実 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天文19年2月26日[1](1550年3月14日) |
改名 | 定実→玄清(号) |
戒名 | 永徳院殿[1] |
幕府 | 室町幕府 越後守護 |
氏族 | 上条上杉家→越後上杉家 |
父母 |
父:上杉房実[注釈 1] 養父:上杉房能? |
兄弟 | 積翠院[注釈 2](伊達尚宗正室)、定実、上条定憲、定明 |
妻 |
正室:上杉房能娘 継室:長尾能景娘[注釈 3] |
子 |
長尾晴景正室、蘆名氏室[要出典] 猶子[注釈 4][注釈 5]:伊達実元(※養子になる予定だったがのち中止) |
生涯[編集]
上条上杉家に生まれ、文亀3年︵1503年︶6月に越後国守護・上杉房能の娘を正室に迎えて、その婿となる[5]。その際に﹁定実﹂と名乗っていた事から既に成人していたと考えられるが、生年は不明であり、これ以前の定実については上条上杉家の出自である事以外に詳しい資料がない。実際に養子となったかは不明だが、もし定実の父が房実なら、上杉房能は従弟である事になる(房能の父は上杉房定であり、房実は房定の弟にあたる)。 永正4年︵1507年︶8月、越後国守護代・長尾為景に担がれて房能を倒すと[6]、永正5年︵1508年︶11月6日に正式に守護となった[7]。ただ、実質的には為景の傀儡に過ぎず、その際に為景の妹を娶ったとされ︵正室であった房能息女はこの時点で死去していた可能性が高い[要出典]︶、宇佐美房忠から名刀﹁宇佐美貞光﹂を献上されている。 この当主交代の報復のため、房能の実兄で関東管領・上杉顕定が侵攻すると、永正6年︵1509年︶に長尾為景と共に越中国へ敗走する[8]。永正7年︵1510年︶、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、4月20日に定実と為景の軍勢は越中から佐渡国を経由して蒲原津に上陸する[9]。佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し越後各地で顕定方の軍勢を破り、長森原の戦いで顕定を敗死させた[10]。 ところが次第に為景の傀儡であることに不満を抱き、永正10年︵1513年︶、守護家家臣筋の宇佐美房忠・定満父子や実家上条氏の上条定憲︵弟、あるいは甥︶、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した[11]。その後、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し[12]、天文5年︵1536年︶8月3日に為景を隠居に追い込んだが[13]、定実が実権を握るまではできなかった。それでも為景の跡を継いだ長尾晴景は求心力に欠けていたため、定実の権力は一応の回復を見せた。 天文7年︵1538年︶頃、定実に養子の話が持ち上がる。定実には男子がいなかったため、縁戚︵定実の甥︶である陸奥国の大名・伊達稙宗の子である時宗丸︵のち偏諱によって実元と名乗る︶との養子縁組を中条藤資︵実元の母は藤資の妹︶らと推進する。長尾為景もこの入嗣を積極的に支援し、その費用を捻出するため10月24日には頸城郡内に段銭を課している[14]。そのような中で、天文8年︵1539年︶9月に入嗣反対派であった阿賀北小泉荘の本庄房長領に伊達氏の軍勢が侵入し、越後北部や出羽国での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた[15]。天文11年︵1542年︶4月、定実は長尾晴景に対して自らの出家を希望する起請文を送り入嗣の進展を迫る[16]。6月に晴景は伊達氏の元に重臣の直江氏と平子氏を使いに送り、定実の諱である﹁実﹂の字を時宗丸に与えること、上杉氏重代の腰刀﹁長光﹂と﹁竹に雀﹂の家紋を贈ること、6月23日に時宗丸が越後へ出発することが決まった[16]。だが6月20日、伊達氏における内訌︵天文の乱︶が発生したため縁組は中止され、定実のもくろみは頓挫した[17]。 天文年間末期には黒田秀忠の反乱も起きて越後は動揺するが、これを晴景の弟・長尾景虎︵後の上杉謙信︶が鎮圧したことで[18]、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。天文17年︵1548年︶、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した[19]。 晩年は出家して玄清と名乗り、天文19年︵1550年︶に病死。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した[1]。偏諱を受けた人物[編集]
- 伊達実元(又甥(甥・伊達稙宗の子)、※養子になる予定だったが、前述の通り縁組は中止。なお「実」の字は実元の子の成実、成実の養子の宗実と受け継がれ、その末裔の亘理伊達家でも通字としてたびたび用いられた)
- 宇佐美定満(房忠の子)
- 長尾定景(のち晴景に改名)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 池 & 矢田 2007, p. 81.
- ^ 森田真一 2001, pp. 1–27.
- ^ 長谷川伸 1995, pp. 5–23.
- ^ 前嶋敏 2008, pp. 807–819.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 17.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 19.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 21.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 22.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 23.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 24.
- ^ 池 & 矢田 2007, pp. 32–34.
- ^ 池 & 矢田 2007, pp. 56–61.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 61.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 64.
- ^ 池 & 矢田 2007, pp. 64–72.
- ^ a b 池 & 矢田 2007, p. 72.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 73.
- ^ 池 & 矢田 2007, pp. 76–78.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 79.
参考文献[編集]
●池亨; 矢田俊文 編﹃上杉氏年表 : 為景・謙信・景勝﹄長谷川伸・福原圭一・片桐昭彦・木村康裕・水澤幸一・市村清貴・黒田基樹・栗原修・広井造・竹田和夫・西澤睦郎執筆︵増補改訂︶、高志書院、2007年3月。ISBN 9784862150196。 NCID BA81497747。OCLC 675847679。全国書誌番号:21185666。 ●豊田武 編﹃戦国の群雄﹄ 6巻、読売新聞社︿人物・日本の歴史﹀、1965年8月。 NCID BN07593802。OCLC 123347328。全国書誌番号:65010998。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Closed_Access_logo_alternative.svg/8px-Closed_Access_logo_alternative.svg.png)