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「十河存保」の版間の差分

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これに対して、天正8年(1580年)4月頃に重臣の篠原右京進が一宮成相と結んで反乱を計画し、それを知った十河存保は讃岐を脱出を図っている。中平景介は存保が織田方に通じたのはこの時期のことであるとし、併せてその後同年11月に石山本願寺を追われた大坂牢人衆が雑賀衆や淡路衆と結んで勝瑞城を占拠し、それを見た存保は再び織田方から離反して勝瑞城を返還して貰ったことを指摘している。この説によれば、その後織田氏と長宗我部氏の関係が悪化したことで、存保は信長に従ったことになる<ref>中平景介「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」橋詰茂 編『戦国・近世初期 西と東の地域社会』岩田書院、2019年6月)ISBN 978-4-86602-074-7 P39-65.</ref>。

これに対して、天正8年(1580年)4月頃に重臣の篠原右京進が一宮成相と結んで反乱を計画し、それを知った十河存保は讃岐を脱出を図っている。中平景介は存保が織田方に通じたのはこの時期のことであるとし、併せてその後同年11月に石山本願寺を追われた大坂牢人衆が雑賀衆や淡路衆と結んで勝瑞城を占拠し、それを見た存保は再び織田方から離反して勝瑞城を返還して貰ったことを指摘している。この説によれば、その後織田氏と長宗我部氏の関係が悪化したことで、存保は信長に従ったことになる<ref>中平景介「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」橋詰茂 編『戦国・近世初期 西と東の地域社会』岩田書院、2019年6月)ISBN 978-4-86602-074-7 P39-65.</ref>。



ところが、天正10年([[1582年]])6月2日、[[本能寺の変]]で信長が死去すると存保は後ろ盾を失う。これにより同年8月、香川親和が香西佳清が立て篭もる[[藤尾城]]に攻め入り、佳清が長宗我部氏に降伏すると、同月、香川氏と香西氏は、城代・十河存之が籠城する十河城を攻めるが、落城させることはできなかった。

ところが、天正10年([[1582年]])6月2日、[[本能寺の変]]で信長が死去すると存保は後ろ盾を失う。これにより同年8月、香川親和が香西佳清が立て篭もる[[藤尾城]]に攻め入り、佳清が長宗我部氏に降伏すると、同月、香川氏と香西氏は、城代・十河存之が籠城する十河城を攻めるが、落城させることはできなかった。




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2020年4月23日 (木) 02:02時点における版

 

凡例

十河存保
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文23年(1554年
死没 天正14年12月12日1587年1月20日
別名 孫六(幼名)、三好正安、政泰、存康、義堅、三好三郎
戒名 眞光院殿義賢實存禅定門
龍雲院殿義賢實存大居士
墓所 香川県高松市の十川東町
官位 隼人正、隼人佐、阿波守、河内守、民部大輔
氏族 三好氏十河氏
父母 父:三好実休、母:岡本牧西の娘・小少将
養父:十河一存
兄弟 細川真之(異父兄)?、三好長治存保長宗我部右近大夫(異父弟)?
千松丸存英坂東保長(伊賀守)
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2157475[4]西西西調退

315754西調

3西41576西使[5]


5157737西6157821574[2]



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81580411[6]

101582628西西

9退3610[7]

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13158563[1][2]

14158633




注釈

  1. ^ a b c 天野忠幸「三好氏の権力基盤と阿波国人」(初出:『年報中世史研究』31号、2006年)/所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年、 ISBN 978-4-7924-1039-1
  2. ^ a b c d 天野忠幸「三好一族の人名比定について」(初出:天野『戦国期三好政権の研究(初版))』(清文堂、2010年)/改訂所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1
  3. ^ 場部隆弘「信長上洛前夜の畿内情勢―九条稙通と三好一族の関係を中心にー」(『日本歴史』736号、2009年)
  4. ^ 川島佳弘「天正五年元吉合戦と香川氏の動向」(橋詰茂 編『戦国・近世初期 西と東の地域社会』岩田書院、2019年6月)
  5. ^ 『香西史』第二編 第九章 織田時代
  6. ^ 中平景介「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」(橋詰茂 編『戦国・近世初期 西と東の地域社会』岩田書院、2019年6月)ISBN 978-4-86602-074-7 P39-65.
  7. ^ 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版/原著、『中世阿波細川氏考』私家版、2000年)
  8. ^ 中平景介「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」(橋詰茂 編『戦国・近世初期 西と東の地域社会』岩田書院、2019年6月)ISBN 978-4-86602-074-7、 P41-44.