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| Label = [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]<br />[[マーキュリー・レコード#マーキュリー・ミュージックエンタテインメント|マーキュリー・ミュージックエンタテインメント]]<br />[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント]]<br />[[マーベラスAQL|マーベラスエンターテイメント]]<br />[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]

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| 演奏パート = [[ヴォーカル]]、[[ソプラノ]]

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'''本田 美奈子.'''(ほんだ みなこ、[[1967年]][[7月31日]] - [[2005年]][[11月6日]])は、[[日本]]の[[歌手]]、[[女優]]、[[声楽|声楽家]]。


''' .''' [[1967]]︿[[]]42[[731]]<ref name="djmeikan">{{Cite book ja|title=DJ 1987|url={{|12276264/70}}|url-access=registration|publisher=[[]]|date=1987-02-15|page=138}}</ref> - [[2005]]︿[[]]17[[116]][[]][[]][[#|]][[|]]


本名、'''工藤 美奈子'''(くどう みなこ)。 身長:162&nbsp;cm、体重:43&nbsp;kg、B:74&nbsp;cm、W:56&nbsp;cm、H:76&nbsp;cm。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|O型]]。[[1985年]]、シングル「[[殺意のバカンス]]」で歌手としてデビュー。[[1980年代]]はアイドル歌手として、[[1990年代]]以降は主に[[ミュージカル]]で活動した。[[2000年代]]に入ってからは[[クラシック音楽|クラシック]]との[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]に挑戦する<!--NOR : など、活躍した領域の広汎さでは日本の[[芸能]]史上出色の存在である-->。なお、姓名判断により名前の後に「'''.'''」をつけ改名したのは[[2004年]]11月からである<ref>{{Cite news |title=最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻 |newspaper=日刊スポーツ |date=2016-11-07 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1726384.html}}</ref><ref group="註">「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて[[2004年]]に'''本田 美奈子'''から画数が31画となるよう名前の後に「'''.'''」をつけ改名。読みは変わらない。</ref>。

本名、'''工藤 美奈子'''(くどう みなこ)。 身長:162&nbsp;cm、体重:43&nbsp;kg、B:74&nbsp;cm、W:56&nbsp;cm、H:76&nbsp;cm。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|O型]]。1985年、シングル「[[殺意のバカンス]]」で歌手としてデビュー。[[1980年代]]はアイドル歌手として、[[1990年代]]以降は主に[[ミュージカル]]で活動した。[[2000年代]]に入ってからは[[クラシック音楽|クラシック]]との[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]に挑戦する<!--NOR : など、活躍した領域の広汎さでは日本の[[芸能]]史上出色の存在である-->。なお、姓名判断により名前の後に「'''.'''」をつけ改名したのは2004年11月からである<ref>{{Cite news |title=最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻 |newspaper=日刊スポーツ |date=2016-11-07 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1726384.html}}</ref><ref group="註">「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて2004年に'''本田 美奈子'''から画数が31画となるよう名前の後に「'''.'''」をつけ改名。読みは変わらない。</ref>。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

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歌手になることを夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『[[スター誕生!]]』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では[[柏原芳恵]]の「[[ハロー・グッドバイ (アグネス・チャンの曲)|ハロー・グッバイ]]」を歌い、合格して決戦大会へ進出した。この時の出場者の5人の中には[[松本明子]]と[[徳永英明]]がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。15歳を迎えて出場した決戦大会では[[松田聖子]]の「[[SQUALL (松田聖子のアルバム)#.E5.8F.8E.E9.8C.B2.E6.9B.B2|ブルーエンジェル]]」を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった<ref group="註">ちなみにこの回のグランプリは松本が獲得した</ref>。

歌手になることを夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『[[スター誕生!]]』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では[[柏原芳恵]]の「[[ハロー・グッドバイ (アグネス・チャンの曲)|ハロー・グッバイ]]」を歌い、合格して決戦大会へ進出した。この時の出場者の5人の中には[[松本明子]]と[[徳永英明]]がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。15歳を迎えて出場した決戦大会では[[松田聖子]]の「[[SQUALL (松田聖子のアルバム)#.E5.8F.8E.E9.8C.B2.E6.9B.B2|ブルーエンジェル]]」を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった<ref group="註">ちなみにこの回のグランプリは松本が獲得した</ref>。



[[1983年]](昭和58年)[[4]]、東京都[[北区 (東京都)|北区]]の[[東京成徳大学中学校・高等学校|東京成徳短期大学附属高等学校]]に入学。同年7月に初めて原宿<!--渋谷区の?-->を訪れた際に、[[少女隊]]のメンバーを探していた[[ボンド企画]]のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長の[[高杉敬二]]とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。[[中原めいこ]]のヒット曲『[[君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。]]』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。<!--推定?-->

1983年(昭和58年)4月、東京都[[北区 (東京都)|北区]]の[[東京成徳大学中学校・高等学校|東京成徳短期大学附属高等学校]]に入学。同年7月に初めて原宿<!--渋谷区の?-->を訪れた際に、[[少女隊]]のメンバーを探していた[[ボンド企画]]のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長の[[高杉敬二]]とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。[[中原めいこ]]のヒット曲『[[君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。]]』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。<!--推定?-->



高校2年生の[[1984年]](昭和59年)[[9]]に第8回[[長崎歌謡祭]]に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。このことがレコードデビューのきっかけとなった。

高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回[[長崎歌謡祭]]に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。このことがレコードデビューのきっかけとなった。



[[1985年]](昭和60年)[[4月20日]]に[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から「[[殺意のバカンス]]」で[[アイドル歌手]]としてデビューした{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。同期デビューに、[[森川美穂]]・[[中山美穂]]・[[南野陽子]]・[[森口博子]]・[[斉藤由貴]]・[[大西結花]]・[[橋本美加子]]・[[芳本美代子]]・[[井森美幸]]・[[浅香唯]]、[[いしのようこ|石野陽子]]・[[松本典子]]・[[森下恵理]]・[[おニャン子クラブ]]など、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「[[Temptation(誘惑)]]」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては[[松本伊代]]・[[岩井小百合]]に続いて[[日本武道館]]コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。

1985年(昭和60年)4月20日に[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から「[[殺意のバカンス]]」で[[アイドル歌手]]としてデビューした{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。同期デビューに、[[森川美穂]]・[[中山美穂]]・[[南野陽子]]・[[森口博子]]・[[斉藤由貴]]・[[大西結花]]・[[橋本美加子]]・[[芳本美代子]]・[[井森美幸]]・[[浅香唯]]、[[いしのようこ|石野陽子]]・[[松本典子]]・[[森下恵理]]・[[おニャン子クラブ]]など、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「[[Temptation(誘惑)]]」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては[[松本伊代]]・[[岩井小百合]]に続いて[[日本武道館]]コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。



[[1986年]](昭和61年)[[2月5日]]に「[[1986年のマリリン]]」をリリース{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。[[へそ]]を露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。

1986年(昭和61年)2月5日に「[[1986年のマリリン]]」をリリース{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。[[へそ]]を露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。



[[1988年]](昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日[[SHOW-YA]]が企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『[[NAONのYAON]]』に出演。翌[[1989年]]([[平成]]元年)秋に解散した。

1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日[[SHOW-YA]]が企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『[[NAONのYAON]]』に出演。翌1989年([[平成]]元年)秋に解散した。



=== ミュージカルでの活躍 ===

=== ミュージカルでの活躍 ===

[[1990年]](平成2年)、[[ミュージカル]]『[[ミス・サイゴン]]』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。[[1992年]](平成4年)[[5月5日]]『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力が高く評価された。1992年度第30回[[ゴールデン・アロー賞]]演劇新人賞を受賞{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。

1990年(平成2年)、[[ミュージカル]]『[[ミス・サイゴン]]』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力が高く評価された。1992年度第30回[[ゴールデン・アロー賞]]演劇新人賞を受賞{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。



[[1994年]](平成6年)、『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』にホーデル役で出演。[[9月24日]]にアルバム『[[JUNCTION (本田美奈子のアルバム)|JUNCTION]]』を、翌[[1995年]](平成7年)[[6月25日]]にはアルバム『[[晴れ ときどき くもり]]』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。

1994年(平成6年)、『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『[[JUNCTION (本田美奈子のアルバム)|JUNCTION]]』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『[[晴れ ときどき くもり]]』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。



[[1996年]](平成8年)、『[[王様と私]]』にタプチム役で出演。

1996年(平成8年)、『[[王様と私]]』にタプチム役で出演。



[[1997年]](平成9年)、『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』にエポニーヌ役で出演{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。以後も繰り返しこの役で出演した。

1997年(平成9年)、『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』にエポニーヌ役で出演{{sfn|別冊宝島|2017|p=91}}。以後も繰り返しこの役で出演した。



[[1998年]](平成10年)には[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]チャリティーコンサートで「ある晴れた日に」([[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]のオペラ『[[蝶々夫人]]』より)を歌い、[[2000年]](平成12年)[[3月20日]]サリン事件チャリティーコンサートでは[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の「[[ヴォカリーズ (ラフマニノフ)|ヴォカリーズ]]」を歌った。同年[[6月19日]][[シドニーオリンピック]]を記念して開かれた[[シドニー]]の[[シドニー・オペラハウス|オペラハウス]]での日豪親善コンサートに[[服部克久]]の推薦により出演した際には「[[コン・テ・パルティロ|タイム・トゥ・セイ・グッバイ]]」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。

1998年(平成10年)には[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]チャリティーコンサートで「ある晴れた日に」([[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]のオペラ『[[蝶々夫人]]』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートでは[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の「[[ヴォカリーズ (ラフマニノフ)|ヴォカリーズ]]」を歌った。同年6月19日[[シドニーオリンピック]]を記念して開かれた[[シドニー]]の[[シドニー・オペラハウス|オペラハウス]]での日豪親善コンサートに[[服部克久]]の推薦により出演した際には「[[コン・テ・パルティロ|タイム・トゥ・セイ・グッバイ]]」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。



同じく2000年(平成12年)[[10月13日]]にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「[[天城越え (曲)|天城越え]]」や「ある晴れた日に」などを歌った。

同じく2000年(平成12年)10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「[[天城越え (曲)|天城越え]]」や「ある晴れた日に」などを歌った。



[[2002年]](平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。

2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。



=== クラシカル・クロスオーバーへの進出 ===

=== クラシカル・クロスオーバーへの進出 ===

[[2003年]](平成15年)[[5月21日]]、初のクラシックアルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』をリリース。[[ソプラノ]]的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』をリリース。[[ソプラノ]]的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。



同年東宝により[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

同年東宝により[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。



[[2004年]](平成16年)、[[地球ゴージャス]]制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年[[8月29日]]『N響ほっとコンサート』で[[NHK交響楽団]]と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。[[11月25日]]アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』をリリース。[[12月1日]]武道館での『[[アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against AIDS]]』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。

2004年(平成16年)、[[地球ゴージャス]]制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』で[[NHK交響楽団]]と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』をリリース。12月1日武道館での『[[アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against AIDS]]』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。



=== 死去 ===

=== 死去 ===

2004年(平成16年)末頃から[[風邪]]に似た症状や微熱が続いた<ref name="takasugi"/>。そんな中11月には地元・朝霞市でのコンサートや、12月23日には新宿文化センター大ホールでのクリスマスコンサート、暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となった翌2005年1月30日テレビ朝日系放送の「題名のない音楽会21」の収録に臨んだ。

2004年(平成16年)末頃から[[風邪]]に似た症状や微熱が続いた<ref name="takasugi"/>。そんな中11月には地元・朝霞市でのコンサートや、12月23日には新宿文化センター大ホールでのクリスマスコンサート、暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となった翌2005年1月30日テレビ朝日系放送の「題名のない音楽会21」の収録に臨んだ。

[[2005年]](平成17年)[[1月12日]]、[[急性骨髄性白血病]]と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された<ref name="takasugi">[http://www.gsic.jp/support/sp_02/yrt/06/02.html 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談 ゲスト:高杉敬二] がんサポート情報センター 2006年7月、2010年8月1日閲覧</ref>。

翌2005年(平成17年)1月12日、[[急性骨髄性白血病]]と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された<ref name="takasugi">[http://www.gsic.jp/support/sp_02/yrt/06/02.html 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談 ゲスト:高杉敬二] がんサポート情報センター 2006年7月、2010年8月1日閲覧</ref>。


2[[ ()|]]<ref name="takasugi"/>[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[5]][[|]]<ref name="takasugi"/>[[7]]退98[[]]<ref name="takasugi"/>退[[|NPO]]Live for Life<ref name="takasugi"/>[[]][[116]]438[[]][[]][[]]<ref name="ismedia" />{{|1967|7|31|2005|11|6}}{{sfn||2017|p=91}}

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[[法名 (浄土真宗)|法名]]は、長らく『釋 優聲(しゃく ゆうしょう)』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年に院号が追贈され、現在は『澄光院(ちょうこういん) 釋 優聲』となっている。

[[法名 (浄土真宗)|法名]]は、長らく『釋 優聲(しゃく ゆうしょう)』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年に院号が追贈され、現在は『澄光院(ちょうこういん) 釋 優聲』となっている。

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==== アイドル歌手として ====

==== アイドル歌手として ====

[[1985年]](昭和60年)[[4月20日]]のデビュー以降、[[筒美京平]]による作曲作品が多く組まれた。同年[[9月28日]]に発売された4枚目のシングル「[[Temptation(誘惑)]]」がヒットし、この年の賞レースの各種新人賞を数多くもたらした。翌年[[2月5日]]に発売された「[[1986年のマリリン]]」では、“[[へそ出しルック]]”で激しく腰を振って踊る歌唱姿が大きく注目を集め大ヒットとなった。本田は元々アイドルと呼ばれることに抵抗があったようで、アーティストと呼ばれたいと発言したこともあった。また、「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくてさらに強く個性を出そうとした結果、より過激な演出になったのだという{{sfn|天に響く歌|2007}}。後年の本人談では、10代の当時は大人っぽく見えるよう背伸びをしていた面もあると語っている。

1985年(昭和60年)4月20日のデビュー以降、[[筒美京平]]による作曲作品が多く組まれた。同年9月28日に発売された4枚目のシングル「[[Temptation(誘惑)]]」がヒットし、この年の賞レースの各種新人賞を数多くもたらした。翌年2月5日に発売された「[[1986年のマリリン]]」では、“[[へそ出しルック]]”で激しく腰を振って踊る歌唱姿が大きく注目を集め大ヒットとなった。本田は元々アイドルと呼ばれることに抵抗があったようで、アーティストと呼ばれたいと発言したこともあった。また、「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくてさらに強く個性を出そうとした結果、より過激な演出になったのだという{{sfn|天に響く歌|2007}}。後年の本人談では、10代の当時は大人っぽく見えるよう背伸びをしていた面もあると語っている。



同年[[7月23日]]発売の「[[HELP (本田美奈子.の曲)|HELP]]」は公共広告機構(現:[[ACジャパン]])のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された<ref>[http://www.ad-c.or.jp/campaign/work/1986/index.html 1986年度作品|ACジャパン]</ref>。[[1987年]](昭和62年)放送のドラマ『[[パパはニュースキャスター]]』には本人役で出演し、主題歌に採用された「[[Oneway Generation]]」(同年[[2月4日]]発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「[[孤独なハリケーン]]」([[9月9日]]発売)を歌った。この3曲で本田にとって[[オリコンチャート|オリコン]]ランキング最高位である2位を獲得した<ref name="oricon">{{Cite news |title=本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に! |newspaper=ORICON NEWS |date=2006-04-20 |url=https://www.oricon.co.jp/news/19122/}}</ref>。

同年7月23日発売の「[[HELP (本田美奈子.の曲)|HELP]]」は公共広告機構(現:[[ACジャパン]])のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された<ref>[https://web.archive.org/web/20061102212435/http://www.ad-c.or.jp/campaign/work/1986/index.html 1986年度作品|ACジャパン]</ref>。1987年(昭和62年)放送のドラマ『[[パパはニュースキャスター]]』には本人役で出演し、主題歌に採用された「[[Oneway Generation]]」(同年2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「[[孤独なハリケーン]]」(9月9日発売)を歌った。この3曲で本田にとって[[オリコンチャート|オリコン]]ランキング最高位である2位を獲得した<ref name="oricon">{{Cite news |title=本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に! |newspaper=ORICON NEWS |date=2006-04-20 |url=https://www.oricon.co.jp/news/19122/}}</ref>。



==== 洋楽からの影響 ====

==== 洋楽からの影響 ====

元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められて[[マリリン・モンロー]]や[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]など外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた{{sfn|天に響く歌|2007}}。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。

元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められて[[マリリン・モンロー]]や[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]など外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた{{sfn|天に響く歌|2007}}。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。



この[[1986年]](昭和61年)には[[ゲイリー・ムーア]]から楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「[[the Cross -愛の十字架-]]」をガイ・フレッチャー([[ロキシー・ミュージック]]の元メンバー)のプロデュースにより制作した。ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『[[CANCEL (本田美奈子.のアルバム)|CANCEL]]』にも参加している。この時に[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]での[[クイーン (バンド)|クイーン]]のコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた<ref>写真集『キャンセル』</ref>{{#tag:ref|この時点ですでにブライアン・メイのプロデュースによる楽曲制作は決まっていたらしい{{sfn|天に響く歌|2007}}。|group="註"}}。

この1986年(昭和61年)には[[ゲイリー・ムーア]]から楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「[[the Cross -愛の十字架-]]」をガイ・フレッチャー([[ロキシー・ミュージック]]の元メンバー)のプロデュースにより制作した。ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『[[CANCEL (本田美奈子.のアルバム)|CANCEL]]』にも参加している。この時に[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]での[[クイーン (バンド)|クイーン]]のコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた<ref>写真集『キャンセル』</ref>{{#tag:ref|この時点ですでにブライアン・メイのプロデュースによる楽曲制作は決まっていたらしい{{sfn|天に響く歌|2007}}。|group="註"}}。



この年には再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリスト[[ブライアン・メイ]]のプロデュースによりシングル「[[CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS]]」を制作した。本田は武道館でのコンサートで[[フレディ・マーキュリー]]の「[[ボーン・トゥ・ラヴ・ユー]]」をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあり、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した<ref>{{Cite news |title=映画ヒットで思い出す、クイーンが愛した本田美奈子 |newspaper=日刊スポーツ |date=2019-01-16 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201901160000272.html}}</ref>。シングル「[[CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS]]」は翌[[1987年]](昭和62年)に発売され、英語版も[[イギリス]]をはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた<ref group="註">この英語版では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている。</ref>。

この年には再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリスト[[ブライアン・メイ]]のプロデュースによりシングル「[[CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS]]」を制作した。本田は武道館でのコンサートで[[フレディ・マーキュリー]]の「[[ボーン・トゥ・ラヴ・ユー]]」をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあり、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した<ref>{{Cite news |title=映画ヒットで思い出す、クイーンが愛した本田美奈子 |newspaper=日刊スポーツ |date=2019-01-16 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201901160000272.html}}</ref>。シングル「[[CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS]]」は翌1987年(昭和62年)に発売され、英語版も[[イギリス]]をはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた<ref group="註">この英語版では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている。</ref>。



[[ラトーヤ・ジャクソン]]の来日公演のプロモートを[[ボンド企画]]が手がけた縁で1987年(昭和62年)に彼女とのジョイントコンサートを行い、[[:Category:ジャクソン家|ジャクソン・ファミリー]]とも親しくなった。[[ロサンゼルス]]の[[マイケル・ジャクソン]]の自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『[[OVERSEA]]』を制作した。このアルバムは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも発売された。

[[ラトーヤ・ジャクソン]]の来日公演のプロモートを[[ボンド企画]]が手がけた縁で1987年(昭和62年)に彼女とのジョイントコンサートを行い、[[:Category:ジャクソン家|ジャクソン・ファミリー]]とも親しくなった。[[ロサンゼルス]]の[[マイケル・ジャクソン]]の自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『[[OVERSEA]]』を制作した。このアルバムは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも発売された。



またこの年の[[7月]]には[[ジャマイカ]]を訪れ[[スライ&ロビー]]のライブにゲスト参加し、「[[HEART BREAK]]」と「EYE言葉はLONELY」(アルバム『[[Midnight Swing]]』収録)を歌った。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。

またこの年の7月には[[ジャマイカ]]を訪れ[[スライ&ロビー]]のライブにゲスト参加し、「[[HEART BREAK]]」と「EYE言葉はLONELY」(アルバム『[[Midnight Swing]]』収録)を歌った。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。



==== ロックバンドでの活動 ====

==== ロックバンドでの活動 ====

本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い[[1988年]](昭和63年)[[1]]に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を[[忌野清志郎]]が手がけたことなどは話題となった。

本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年(昭和63年)1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を[[忌野清志郎]]が手がけたことなどは話題となった。



[[SHOW-YA]]の提唱で開催され[[プリンセス・プリンセス]]などとともに出演した[[NAONのYAON]]はこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑でもある。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆される。

[[SHOW-YA]]の提唱で開催され[[プリンセス・プリンセス]]などとともに出演した[[NAONのYAON]]はこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑でもある。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆される。



==== ミュージカル女優として ====

==== ミュージカル女優として ====

ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、[[1989年]](平成元年)秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している{{sfn|天に響く歌|2007}}。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。

ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年(平成元年)秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している{{sfn|天に響く歌|2007}}。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。




[[]][[]]<ref group=""></ref> [[1990]]2115033584203867<ref>[http://diamond.jp/articles/-/18696?page=4   20.]</ref>[[1991]]3[[113]]3{{sfn||2007}}

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アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』、『[[王様と私]]』、『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』、『[[王様と私]]』、『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

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本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。

本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。



ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『[[JUNCTION (本田美奈子のアルバム)|JUNCTION]]』([[1994]][[9月24日]]発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久([[越路吹雪]]の担当ディレクターとしても知られる)と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した[[岩谷時子]]をプロデューサーに迎え制作が進められた。タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムは[[グレゴリオ聖歌]]を翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめ[[シャンソン]]、[[ファド]]、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。先行シングルとして発売された「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」(同年[[5月25日]]発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在として親しまれている。

ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『[[JUNCTION (本田美奈子のアルバム)|JUNCTION]]』(1994年9月24日発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久([[越路吹雪]]の担当ディレクターとしても知られる)と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した[[岩谷時子]]をプロデューサーに迎え制作が進められた。タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムは[[グレゴリオ聖歌]]を翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめ[[シャンソン]]、[[ファド]]、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。先行シングルとして発売された「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」(同年5月25日発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在として親しまれている。




[[1995]]7[[  ]][[625]][[]][[]][[]][[]]Fall in love with you --[[116]]I love you[[LIFE (.)|LIFE]]

19957[[  ]]625[[]][[]][[]][[]]Fall in love with you --116I love you[[LIFE (.)|LIFE]]


==== 声楽への進出 ====

==== 声楽への進出 ====

本田は[[1996年]](平成8年)にオペラの『蝶々夫人』を歌った<ref>{{Cite web|url=https://diamond.jp/articles/-/26460|title=「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)|publisher=[[ダイヤモンド社]]|date=2012-10-19|accessdate=2020-04-19}}</ref>。彼女が初めて声楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。

本田は1996年(平成8年)にオペラの『蝶々夫人』を歌った<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/26460|title=「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)|publisher=[[ダイヤモンド社]]|date=2012-10-19|accessdate=2020-04-19}}</ref>。彼女が初めて声楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。



前述の通り[[2000年]](平成12年)前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは[[2002年]](平成14年)[[8月31日]]に[[東京オペラシティ]]コンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。声楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していた[[日本コロムビア|コロムビア]]のプロデューサー、[[岡野博行]]はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。

前述の通り2000年(平成12年)前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年(平成14年)8月31日に[[東京オペラシティ]]コンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。声楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していた[[日本コロムビア|コロムビア]]のプロデューサー、[[岡野博行]]はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。



コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である[[岩谷時子]]が日本語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートした、編曲は[[井上鑑]]が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている{{sfn|天に響く歌|2007}}。

コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である[[岩谷時子]]が日本語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートした、編曲は[[井上鑑]]が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている{{sfn|天に響く歌|2007}}。



一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった{{sfn|天に響く歌|2007}}{{#tag:ref|本田は情報誌プチぶんか村の2002年8月号に寄稿したエッセイ「小さな幸せを大切に…」の中で「私はいつも、『人の心を動かせられる様な歌をうたえる歌手になりたい』と思っています。…でも悲しい事に、最近、愛と心と情熱で、音楽を手作りでつくる人がとても少なくなってきてしまいました」と述べていた<ref>{{Cite news |author=本田美奈子 |title=ぶんか村エッセイ(15) 小さな幸せを大切に・・・ |work=プチぶんか村 |publisher=ライン出版 |date=2002-08 |url=http://rein2000.c.ooco.jp/2002-08.html#No2}}</ref>。|group="註"}}。収録曲は100曲以上の候補の中から実際に歌いながら彼女自身の心に響く曲が選ばれた。本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会い、必ず一緒に歌って演奏者が歌の呼吸を掴んで弾きやすいようにしていた。そのまま歌を録り直さずOKになった曲もあった。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』はこうして完成し、[[2003年]](平成15年)[[5月21日]]にリリースされた。

一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった{{sfn|天に響く歌|2007}}{{#tag:ref|本田は情報誌プチぶんか村の2002年8月号に寄稿したエッセイ「小さな幸せを大切に…」の中で「私はいつも、『人の心を動かせられる様な歌をうたえる歌手になりたい』と思っています。…でも悲しい事に、最近、愛と心と情熱で、音楽を手作りでつくる人がとても少なくなってきてしまいました」と述べていた<ref>{{Cite news |author=本田美奈子 |title=ぶんか村エッセイ(15) 小さな幸せを大切に・・・ |work=プチぶんか村 |publisher=ライン出版 |date=2002-08 |url=http://rein2000.c.ooco.jp/2002-08.html#No2}}</ref>。|group="註"}}。収録曲は100曲以上の候補の中から実際に歌いながら彼女自身の心に響く曲が選ばれた。本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会い、必ず一緒に歌って演奏者が歌の呼吸を掴んで弾きやすいようにしていた。そのまま歌を録り直さずOKになった曲もあった。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』はこうして完成し、2003年(平成15年)5月21日にリリースされた。



[[2004年]](平成16年)[[11月25日]]には2枚目のアルバム『[[時 (アルバム)|時]]』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった<ref name="ave-maria">アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』のライナーノート</ref>。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、本田は従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。

翌2004年(平成16年)11月25日には2枚目のアルバム『[[時 (アルバム)|時]]』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった<ref name="ave-maria">アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』のライナーノート</ref>。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、本田は従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。



==== ジャズへの見果てぬ夢 ====

==== ジャズへの見果てぬ夢 ====

本田は[[2001年]](平成13年)に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送されたテレビドラマ『[[ハート (テレビドラマ)|ハート]]』にアメリカ帰りのジャズ・シンガーという設定の役で出演した。劇中のライブ・シーンで本田はジャズ・ピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」([[キャロル・キング]]とジェリー・ゴフィンの共作で[[アレサ・フランクリン]]の歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]」([[松田聖子]]の曲)に[[スキャット]]で参加した。また、40代になったら[[ジャズ]]を歌いたいと語っていたという<ref>{{Cite web|url=https://reminder.top/733160680/|title=本田美奈子の魅力、いつまでも輝き続ける永遠の歌姫|publisher=Re:minder|date=2017-08-10|accessdate=2020-04-19}}</ref>。

本田は2001年(平成13年)に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送されたテレビドラマ『[[ハート (テレビドラマ)|ハート]]』にアメリカ帰りのジャズ・シンガーという設定の役で出演した。劇中のライブ・シーンで本田はジャズ・ピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」([[キャロル・キング]]とジェリー・ゴフィンの共作で[[アレサ・フランクリン]]の歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]」([[松田聖子]]の曲)に[[スキャット]]で参加した。また、40代になったら[[ジャズ]]を歌いたいと語っていたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://reminder.top/733160680/|title=本田美奈子の魅力、いつまでも輝き続ける永遠の歌姫|publisher=Re:minder|date=2017-08-10|accessdate=2020-04-19}}</ref>。



=== 影響関係 ===

=== 影響関係 ===

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本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。声楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。

本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。声楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。



『[[ミス・サイゴン]]』でキム役をダブルキャストで務めた[[入絵加奈子]]は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している<ref>入絵加奈子 [http://mgkanako.hp.infoseek.co.jp/ ファンサイト] に寄せられた入絵本人からのメッセージ</ref>。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んでこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』には[[ファルセット]]を多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域の[[スキャット]]を披露している。

『[[ミス・サイゴン]]』でキム役をダブルキャストで務めた[[入絵加奈子]]は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している<ref>入絵加奈子 [https://web.archive.org/web/20051215175950/http://mgkanako.hp.infoseek.co.jp/ ファンサイト] に寄せられた入絵本人からのメッセージ</ref>。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んでこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』には[[ファルセット]]を多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域の[[スキャット]]を披露している。



本田は音楽学校などで声楽を学んだ経験はないが、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也や岡崎亮子のレッスンを受けた。特に[[オペラ]]への出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われる。岡崎は最初に会った時本田のあまりに華奢な体つきに不安になったが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したという{{sfn|天に響く歌|2007}}。1994年発表の「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった。

本田は音楽学校などで声楽を学んだ経験はないが、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也や岡崎亮子のレッスンを受けた。特に[[オペラ]]への出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われる。岡崎は最初に会った時本田のあまりに華奢な体つきに不安になったが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したという{{sfn|天に響く歌|2007}}。1994年発表の「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった。

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音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば[[通奏低音]]パートも含めて一人で歌った「[[カノン (パッヘルベル)|パッヘルベルのカノン]]」(アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』所収)に遺憾なく発揮されている。しかも本田はその広い音域を均質な響きで発することができた。『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』での共演以来公私ともに親しくしていた[[森公美子]]は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している。

音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば[[通奏低音]]パートも含めて一人で歌った「[[カノン (パッヘルベル)|パッヘルベルのカノン]]」(アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』所収)に遺憾なく発揮されている。しかも本田はその広い音域を均質な響きで発することができた。『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』での共演以来公私ともに親しくしていた[[森公美子]]は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している。



演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。一連のクラシックアルバムで編曲を務めた[[井上鑑]]は「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と評し、プロデューサーの[[岡野博行]]は「毎回歌うたびに、表情もすごく変わる」、「その歌の世界を生き、自分に起きてくる感情をすごく大切にして歌っていた」と語った{{sfn|天に響く歌|2007}}。本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた<ref>{{Cite web|url=https://news.infoseek.co.jp/article/healthpress_4836/?p=5|title=本田美奈子・享年38〜急性骨髄性白血病(AML)が奪った3オクターブの美声!|publisher=ヘルスプレス|date=2017-12-10|accessdate=2020-04-19}}</ref>。


[[]][[]]{{sfn||2007}}<ref>{{Cite web||url=https://healthpress.jp/2017/11/post-3359_2.html|title=.38AML3|accessdate=2023-09-15|publisher=HEALTH PRESS}}</ref><!-- <ref>{{Cite web|url=https://news.infoseek.co.jp/article/healthpress_4836/?p=5|title=38AML3|publisher=|date=2017-12-10|accessdate=2020-04-19}}</ref> -->


=== 作詞・作曲 ===

=== 作詞・作曲 ===


[[1989]][[531]]I love youFall in love with you --[[1995]][[116]]3

1989531I love youFall in love with you --19951163


== 人物 ==

== 人物 ==

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=== 歌への情熱 ===

=== 歌への情熱 ===

==== 『ミス・サイゴン』での事故 ====

==== 『ミス・サイゴン』での事故 ====

『[[ミス・サイゴン]]』の公演開始([[5月5日]])から2か月ほど経った[[1992年]](平成4年)[[7月4日]]、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。[[岸田敏志]]ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)[[入絵加奈子]]と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。

『[[ミス・サイゴン]]』の公演開始(5月5日)から2か月ほど経った1992年(平成4年)7月4日、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。[[岸田敏志]]ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)[[入絵加奈子]]と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。



病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の[[7月31日]]にケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。

病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日にケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。



==== 歌に捧げた人生 ====

==== 歌に捧げた人生 ====

デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」と度々話していたという<ref>{{Cite web|url=https://nana-music.com/sounds/01e386cb|title=新世界 本田美奈子|publisher=音楽コラボアプリ nana|date=2016-10-04|accessdate=2020-04-19}}</ref>。


<ref>{{Cite web||url=https://nana-music.com/sounds/01e386cb|title= |publisher= nana|date=2016-10-04|accessdate=2020-04-19}}</ref>


アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」とあいさつした。

アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」とあいさつした。



舞台には歌の神様がいると話し<ref>{{Cite news |和書 |title=特集ワイド 会いたい・2019夏 本田美奈子.さん 声と魂で訴えた愛と平和 |newspaper=毎日新聞 |date=2019-08-22 |edition=東京夕刊 |page= |url=https://mainichi.jp/articles/20190822/dde/012/040/004000c}}</ref>、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた<ref>{{Cite web|url=https://www.christianpress.jp/november-6-honda-minako-anniversary/|title=11月6日は本田美奈子が亡くなった日|publisher=CHRISTIAN PRESS|date=2019-11-06|accessdate=2020-04-19}}</ref>。[[2004年]](平成16年)[[12月22日]]のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している{{sfn|天に響く歌|2007}}<ref group="註">この翌日に同じ会場で行われたコンサートが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。</ref>。

舞台には歌の神様がいると話し<ref>{{Cite news |和書 |title=特集ワイド 会いたい・2019夏 本田美奈子.さん 声と魂で訴えた愛と平和 |newspaper=毎日新聞 |date=2019-08-22 |edition=東京夕刊 |page= |url=https://mainichi.jp/articles/20190822/dde/012/040/004000c}}</ref>、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.christianpress.jp/november-6-honda-minako-anniversary/|title=11月6日は本田美奈子が亡くなった日|publisher=CHRISTIAN PRESS|date=2019-11-06|accessdate=2020-04-19}}</ref>。2004年(平成16年)12月22日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している{{sfn|天に響く歌|2007}}<ref group="註">この翌日に同じ会場で行われたコンサートが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。</ref>。



本田の療養中に発売されたミニアルバム『[[アメイジング・グレイス (本田美奈子.のアルバム)|アメイジング・グレイス]]』のライナーノートには手書きのメッセージを寄せ、次のように述べていた。

本田の療養中に発売されたミニアルバム『[[アメイジング・グレイス (本田美奈子.のアルバム)|アメイジング・グレイス]]』のライナーノートには手書きのメッセージを寄せ、次のように述べていた。

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白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた<ref name="relay-for-life">[http://www.gsic.jp/support/sp_02/yrt/06/index.html 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談/高杉敬二さん]</ref>。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。

白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた<ref name="relay-for-life">[http://www.gsic.jp/support/sp_02/yrt/06/index.html 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談/高杉敬二さん]</ref>。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。



本田の入院中に恩師の[[岩谷時子]]が路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室で[[ア・カペラ]]で歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。この録音は全部で三十数曲にも上った。そのいきさつは[[2008年]](平成20年)のNHKの特集番組、及び同年出版の書籍で紹介され、一部の音源はCDとして発売された(後述)。

本田の入院中に恩師の[[岩谷時子]]が路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室で[[ア・カペラ]]で歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。この録音は全部で三十数曲にも上った。そのいきさつは2008年(平成20年)のNHKの特集番組、及び同年出版の書籍で紹介され、一部の音源はCDとして発売された(後述)。



38歳の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。

38歳の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。

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自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』所収)は平和への祈りの歌である。[[2004年]](平成16年)にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ<ref name="himeyuri" /> ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながらときを過ごすことの大切さを語りかけている。

自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]』所収)は平和への祈りの歌である。2004年(平成16年)にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ<ref name="himeyuri" /> ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながらときを過ごすことの大切さを語りかけている。



==== 小さな幸せ・時 ====

==== 小さな幸せ・時 ====

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== 評価 ==

== 評価 ==

=== 生前の受賞・ランキングなど ===

=== 生前の受賞・ランキングなど ===

デビューした[[1985年]](昭和60年)には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の[[日本レコード大賞]]([[第27回日本レコード大賞|第27回]])では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった<ref group="註">この年の最優秀新人賞はTBS系列のテレビドラマ『[[毎度おさわがせします]]』に出演していた[[中山美穂]]が受賞した。</ref>。

デビューした1985年(昭和60年)には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の[[日本レコード大賞]]([[第27回日本レコード大賞|第27回]])では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった<ref group="註">この年の最優秀新人賞はTBS系列のテレビドラマ『[[毎度おさわがせします]]』に出演していた[[中山美穂]]が受賞した。</ref>。



[[オリコンチャート]]で1位を獲得したこともなく、最高位は「[[HELP (本田美奈子.の曲)|HELP]]」「[[Oneway Generation]]」「[[孤独なハリケーン]]」の2位。累計24万枚超を売り上げ、彼女の最大のヒット曲となった「[[1986年のマリリン]]」は3位が最高だった<ref name="oricon" />。『[[ザ・ベストテン]]』でも1位を獲得したことがなかった<ref group="註">『[[ドリーム・プレス社]]』の追悼特集ではスタジオに『ザ・ベストテン』放送当時のセッティングが用意され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。</ref>。

[[オリコンチャート]]で1位を獲得したこともなく、最高位は「[[HELP (本田美奈子.の曲)|HELP]]」「[[Oneway Generation]]」「[[孤独なハリケーン]]」の2位。累計24万枚超を売り上げ、彼女の最大のヒット曲となった「[[1986年のマリリン]]」は3位が最高だった<ref name="oricon" />。『[[ザ・ベストテン]]』でも1位を獲得したことがなかった<ref group="註">『[[ドリーム・プレス社]]』の追悼特集ではスタジオに『ザ・ベストテン』放送当時のセッティングが用意され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。</ref>。

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[[ファイル:Tobu Asaka Sta south place.jpg|thumb|記念碑が建設された朝霞駅前。時計塔の右下の部分にあるのが記念碑]]

[[ファイル:Tobu Asaka Sta south place.jpg|thumb|記念碑が建設された朝霞駅前。時計塔の右下の部分にあるのが記念碑]]

幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて[[東武東上本線|東武東上線]][[朝霞駅]]の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の[[商工会]]の発案で企画されたもの。生誕40周年に当たる[[2007年]](平成19年)[[7月31日]]に本田の母、所属事務所社長の[[高杉敬二]]、親友の[[早見優]]らの臨席の元、除幕式が行なわれた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「[[新世界 (本田美奈子.の曲)|新世界]]」の歌声が流れる仕組みになっている。

幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて[[東武東上本線|東武東上線]][[朝霞駅]]の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の[[商工会]]の発案で企画されたもの。生誕40周年に当たる2007年(平成19年)7月31日に本田の母、所属事務所社長の[[高杉敬二]]、親友の[[早見優]]らの臨席の元、除幕式が行なわれた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「[[新世界 (本田美奈子.の曲)|新世界]]」の歌声が流れる仕組みになっている。



=== 関係者・評論家等の声 ===

=== 関係者・評論家等の声 ===

アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけた[[秋元康]]は、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。テレビのインタビューに答え、「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた。

アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけた[[秋元康]]は、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。テレビのインタビューに答え、「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた。



『[[ミス・サイゴン]]』でエンジニア役として共演した[[市村正親]]は、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた<ref name="nikkansports">『日刊スポーツ』公式サイトに掲載された [http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2005/pe-051106.html 「おくやみ」]</ref>。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の[[服部克久]]は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた<ref>本田の一周忌に開催された追悼コンサートでのコメント</ref>。『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った<ref>『[[朝日新聞]]』2005年11月14日、東京夕刊、10ページ</ref>。『ミス・サイゴン』や『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』の作曲者、[[クロード=ミシェル・シェーンベルク]]は『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた<ref>{{Cite news |和書 |title=進化続ける ミス・サイゴン |newspaper=読売新聞 |date=2008-07-25 |edition= |url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20080725et08.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080730131245/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20080725et08.htm |archivedate=2008年7月30日}}</ref>。

『[[ミス・サイゴン]]』でエンジニア役として共演した[[市村正親]]は、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた<ref name="nikkansports">『日刊スポーツ』公式サイトに掲載された [https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2005/pe-051106.html 「おくやみ」]</ref>。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の[[服部克久]]は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた<ref>本田の一周忌に開催された追悼コンサートでのコメント</ref>。『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った<ref>『[[朝日新聞]]』2005年11月14日、東京夕刊、10ページ</ref>。『ミス・サイゴン』や『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』の作曲者、[[クロード=ミシェル・シェーンベルク]]は『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた<ref>{{Cite news |和書 |title=進化続ける ミス・サイゴン |newspaper=読売新聞 |date=2008-07-25 |edition= |url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20080725et08.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080730131245/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20080725et08.htm |archivedate=2008年7月30日}}</ref>。



『クラウディア』での共演を通して親しくなった[[YU-KI]]は、[[2004年]](平成16年)[[12]]の『[[アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against AIDS]]』における本田の「ジュピター」と「[[1986年のマリリン]]」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」を受けたと話した{{sfn|天に響く歌|2007}}。

『クラウディア』での共演を通して親しくなった[[YU-KI]]は、2004年(平成16年)12月の『[[アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against AIDS]]』における本田の「ジュピター」と「[[1986年のマリリン]]」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」を受けたと話した{{sfn|天に響く歌|2007}}。



音楽評論家の伊熊よし子はクラシカル・クロスオーバーの領域で本田が新たに開拓した音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した<ref name="ave-maria" />。編曲を務めた[[井上鑑]]は彼女の音楽のあり方を、「一夜限りで消えてしまうような祭礼ではなく一輪の花の美しさが突然人の心をとらえて何時までも面影を残すような、そんな奇跡が当たり前のように毎日起きていた」と形容した<ref>アルバム『[[心を込めて...]]』のライナーノート</ref>。

音楽評論家の伊熊よし子はクラシカル・クロスオーバーの領域で本田が新たに開拓した音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した<ref name="ave-maria" />。編曲を務めた[[井上鑑]]は彼女の音楽のあり方を、「一夜限りで消えてしまうような祭礼ではなく一輪の花の美しさが突然人の心をとらえて何時までも面影を残すような、そんな奇跡が当たり前のように毎日起きていた」と形容した<ref>アルバム『[[心を込めて...]]』のライナーノート</ref>。

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数々のミュージカルへの出演は共演者たちとの友情を育んだ。『[[ミス・サイゴン]]』でクリス役を演じた[[岸田敏志]]とは兄妹のように親しくなった。本田は岸田のことを彼のヒット曲の歌詞にちなんで“モーニン”と呼んでいた。

数々のミュージカルへの出演は共演者たちとの友情を育んだ。『[[ミス・サイゴン]]』でクリス役を演じた[[岸田敏志]]とは兄妹のように親しくなった。本田は岸田のことを彼のヒット曲の歌詞にちなんで“モーニン”と呼んでいた。



『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』への出演はそれまで接点のなかった先輩歌手たちとの公私にわたる交遊をもたらした。[[岩崎宏美]]は舞台への不安から睡眠薬なしには眠れなくなってしまった自分を本田が絶えず気にかけてくれたことへの感謝の思いを繰り返し口にしている。食べることの好きな[[森公美子]]は本田と食事した思い出を楽しそうに語る。森の証言では本田は細身の体に似合わず森と同じ量を食べたという。アイドル歌手としての先輩である[[早見優]]はミュージカルの世界では本田の方が先輩にあたり、うまく歌えなくて落ち込んでいるときに励ましてくれたと話す。楽屋でホットケーキを作ってくれた際には、できあがったケーキのあまりにも完璧な丸さに「何事にも一所懸命な人」であることを思い知らされたという<ref>{{Cite web|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2086104&set_cookie=2|title=田村芽実、憧れの本田美奈子.さん役で女優として本格始動「天国の本田美奈子.さんに“私を選んで”とお祈りしてました」|work=[[De☆View]]|publisher=[[オリコン・エンタテインメント]]|date=2017-02-16|accessdate=2020-04-19}}</ref>。

『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』への出演はそれまで接点のなかった先輩歌手たちとの公私にわたる交遊をもたらした。[[岩崎宏美]]は舞台への不安から睡眠薬なしには眠れなくなってしまった自分を本田が絶えず気にかけてくれたことへの感謝の思いを繰り返し口にしている。食べることの好きな[[森公美子]]は本田と食事した思い出を楽しそうに語る。森の証言では本田は細身の体に似合わず森と同じ量を食べたという。アイドル歌手としての先輩である[[早見優]]はミュージカルの世界では本田の方が先輩にあたり、うまく歌えなくて落ち込んでいるときに励ましてくれたと話す。楽屋でホットケーキを作ってくれた際には、できあがったケーキのあまりにも完璧な丸さに「何事にも一所懸命な人」であることを思い知らされたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2086104&set_cookie=2|title=田村芽実、憧れの本田美奈子.さん役で女優として本格始動「天国の本田美奈子.さんに“私を選んで”とお祈りしてました」|work=[[De☆View]]|publisher=[[オリコン・エンタテインメント]]|date=2017-02-16|accessdate=2020-04-19}}</ref>。



『クラウディア』への出演は共演の[[YU-KI]]との友情を育んだ。本田がYU-KIに「[[白い恋人達]]」の歌い方を尋ねてきたことがきっかけで打ち解けるようになったという。公演の合間には二人でワインを開けたりショッピングを楽しんだりした。

『クラウディア』への出演は共演の[[YU-KI]]との友情を育んだ。本田がYU-KIに「[[白い恋人達]]」の歌い方を尋ねてきたことがきっかけで打ち解けるようになったという。公演の合間には二人でワインを開けたりショッピングを楽しんだりした。



=== 療養生活を支えた絆 ===

=== 療養生活を支えた絆 ===

本田の入院が伝えられると各方面から励ましのメッセージが寄せられた。ファンティーヌ役で出演予定だった『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』[[2005年]]公演の出演者、スタッフからは大きな紙一面に書き込まれた寄せ書きが贈られた。[[工藤夕貴]]、[[YU-KI]]、伊藤有希の“3人のゆうき”(いずれも『クラウディア』2005年公演の出演者)からはデビュー20周年の記念に「美奈子TV」と題するビデオレターが届けられた。市のイメージソングを歌った縁で[[ひたちなか市]]の小学生たちからは名前に因んで37,500羽の折り鶴がプレゼントされた{{sfn|天に響く歌|2007}}。

本田の入院が伝えられると各方面から励ましのメッセージが寄せられた。ファンティーヌ役で出演予定だった『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)|レ・ミゼラブル]]』2005年公演の出演者、スタッフからは大きな紙一面に書き込まれた寄せ書きが贈られた。[[工藤夕貴]]、[[YU-KI]]、伊藤有希の“3人のゆうき”(いずれも『クラウディア』2005年公演の出演者)からはデビュー20周年の記念に「美奈子TV」と題するビデオレターが届けられた。市のイメージソングを歌った縁で[[ひたちなか市]]の小学生たちからは名前に因んで37,500羽の折り鶴がプレゼントされた{{sfn|天に響く歌|2007}}。



同時期に白血病と診断され入院したお笑いコンビ「[[カンニング (お笑いコンビ)|カンニング]]」の[[中島忠幸]]<ref group="註">中島も本田の急逝から約1年後の[[2006年]][[12月20日]]に亡くなった。</ref> とは互いに文通で励まし合っていた。中島への手紙の中で、本田は病気になったことで自分がいかに人から愛されていたかを思い知ったと述べていた。

同時期に白血病と診断され入院したお笑いコンビ「[[カンニング (お笑いコンビ)|カンニング]]」の[[中島忠幸]]<ref group="註">中島も本田の急逝から約1年後の2006年12月20日に亡くなった。</ref> とは互いに文通で励まし合っていた。中島への手紙の中で、本田は病気になったことで自分がいかに人から愛されていたかを思い知ったと述べていた。



クラシックアルバムで編曲を担当していた[[井上鑑]]は本田の入院中に復帰第一作となる楽曲をプレゼントした。当時[[福山雅治]]のコンサートツアーに同行していた井上はバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを作成し病床の本田の許に届けた。福山のデビュー当初からのファンだった<ref group="註">本名では迷惑がかかるからと友人の名前を借りてファンクラブに入会していたほどだった。</ref> 本田は泣いて喜んだという。

クラシックアルバムで編曲を担当していた[[井上鑑]]は本田の入院中に復帰第一作となる楽曲をプレゼントした。当時[[福山雅治]]のコンサートツアーに同行していた井上はバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを作成し病床の本田の許に届けた。福山のデビュー当初からのファンだった<ref group="註">本名では迷惑がかかるからと友人の名前を借りてファンクラブに入会していたほどだった。</ref> 本田は泣いて喜んだという。

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38歳の若さでの本田の死は社会に衝撃をもって受け止められた。本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。

38歳の若さでの本田の死は社会に衝撃をもって受け止められた。本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。



葬儀で弔辞を述べた[[岸谷五朗]]やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った[[岸田敏志]]、通夜に参列した後会見を行った[[南野陽子]]などが追悼のコメントを寄せた。海外では[[ブライアン・メイ]]が彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに2日に亘り掲載した<ref>現在でも公式サイトの [http://www.brianmay.com/brian/brianssb/brianssbnov05.html#03 過去ログ] で閲覧可能。</ref>。

葬儀で弔辞を述べた[[岸谷五朗]]やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った[[岸田敏志]]、通夜に参列した後会見を行った[[南野陽子]]などが追悼のコメントを寄せた。海外では[[ブライアン・メイ]]が彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに2日に亘り掲載した<ref>現在でも公式サイトの [https://web.archive.org/web/20051124105758/http://www.brianmay.com/brian/brianssb/brianssbnov05.html 過去ログ] で閲覧可能。</ref>。



もう一人本田の訃報に反応を示した外国の音楽家が[[フィリッパ・ジョルダーノ]]だった。本田は彼女のコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。彼女は[[2005年]](平成17年)[[12]]の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」として[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の「[[エレンの歌第3番|アヴェ・マリア]]」を歌った<ref>この時の模様は現在{{YouTube|jGBypIcHE3Q|本田美奈子さんに捧ぐ}}で確認することができる。</ref>。<!-- 動画サイトにリンクしてありますが、この映像は永島智之氏が撮影し、フィリッパ・ジョルダーノさんの了解を得た上でアップロードしたものです。 -->

もう一人本田の訃報に反応を示した外国の音楽家が[[フィリッパ・ジョルダーノ]]だった。本田は彼女のコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。彼女は2005年(平成17年)12月の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」として[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の「[[エレンの歌第3番|アヴェ・マリア]]」を歌った<ref>この時の模様は現在{{YouTube|jGBypIcHE3Q|本田美奈子さんに捧ぐ}}で確認することができる。</ref>。<!-- 動画サイトにリンクしてありますが、この映像は永島智之氏が撮影し、フィリッパ・ジョルダーノさんの了解を得た上でアップロードしたものです。 -->



2005年(平成17年)[[12月16日]]には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた[[岩崎宏美]]がナレーションを務めた。ほかにこの年のうちに『[[たけしの誰でもピカソ]]』、『[[題名のない音楽会|題名のない音楽会21]]』、『[[ミュージックフェア|ミュージックフェア21]]』、『[[徹子の部屋]]』などでも追悼特集が組まれた。翌[[2006年]](平成18年)には『[[ドリーム・プレス社]]』でも追悼特集が放送された。『たけしの誰でもピカソ』ではさらに一周忌に合わせて二週にわたる詳細な特集が放送された。

2005年(平成17年)12月16日には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた[[岩崎宏美]]がナレーションを務めた。ほかにこの年のうちに『[[たけしの誰でもピカソ]]』、『[[題名のない音楽会|題名のない音楽会21]]』、『[[ミュージックフェア|ミュージックフェア21]]』、『[[徹子の部屋]]』などでも追悼特集が組まれた。翌2006年(平成18年)には『[[ドリーム・プレス社]]』でも追悼特集が放送された。『たけしの誰でもピカソ』ではさらに一周忌に合わせて二週にわたる詳細な特集が放送された。



テレビの訃報では「[[アメイジング・グレイス]]」を歌うライブ映像が繰り返し流された。また2006年(平成18年)[[7]]から1年間公共広告機構(現:[[ACジャパン]])の[[骨髄バンク]]支援キャンペーンに起用され、テレビ、ラジオのコマーシャルでは入院中に病室で[[ア・カペラ]]で歌った「アメイジング・グレイス」が流された<ref>[http://www.ad-c.or.jp/campaign/work/2006/index.html 支援キャンペーン:本田美奈子.(公共広告機構公式ページ)]</ref>。このため日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている<ref>[http://www.kenko-trendy.com/health/002095.html 本日出版!「アメージング・グレース」物語 ― ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝]</ref>。

テレビの訃報では「[[アメイジング・グレイス]]」を歌うライブ映像が繰り返し流された。また2006年(平成18年)7月から1年間公共広告機構(現:[[ACジャパン]])の[[骨髄バンク]]支援キャンペーンに起用され、テレビ、ラジオのコマーシャルでは入院中に病室で[[ア・カペラ]]で歌った「アメイジング・グレイス」が流された<ref>[http://www.ad-c.or.jp/campaign/work/2006/index.html 支援キャンペーン:本田美奈子.(公共広告機構公式ページ)]</ref>。このため日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている<ref>[http://www.kenko-trendy.com/health/002095.html 本日出版!「アメージング・グレース」物語 ― ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝]</ref>。



=== 未発表音源など ===

=== 未発表音源など ===

本田はデビュー20周年に当たる[[2005年]](平成17年)に記念アルバムを制作することを予定し、一部は前年のうちに録音が進められていた。しかしその後の病気の発覚と間もなくの急逝により実現することはなかった。それでも関係者の熱意により未発表の音源や放送局に残されていたものを集め、[[2006年]](平成18年)[[4月20日]]に一年遅れの記念アルバム『[[心を込めて...]]』が発売された。本作では、クイーンのギタリスト、ブライアン・メイが1987年に本田に贈った「Golden Days」が、ブライアン・メイ自らの手によってリメイクされたほか、「天国への階段」、「見上げてごらん夜の星を」の未発表音源および初CD化となる楽曲4曲など全13曲が収録された<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/news/19122/full/ |title=本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に! |access-date=2023-01-26 |publisher=[[オリコン|ORICON]] |date=2006-04-20}}</ref>。

本田はデビュー20周年に当たる2005年(平成17年)に記念アルバムを制作することを予定し、一部は前年のうちに録音が進められていた。しかしその後の病気の発覚と間もなくの急逝により実現することはなかった。それでも関係者の熱意により未発表の音源や放送局に残されていたものを集め、2006年(平成18年)4月20日に一年遅れの記念アルバム『[[心を込めて...]]』が発売された。本作では、クイーンのギタリスト、ブライアン・メイが1987年に本田に贈った「Golden Days」が、ブライアン・メイ自らの手によってリメイクされたほか、「天国への階段」、「見上げてごらん夜の星を」の未発表音源および初CD化となる楽曲4曲など全13曲が収録された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/19122/full/ |title=本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に! |access-date=2023-01-26 |publisher=[[オリコン|ORICON]] |date=2006-04-20}}</ref>。



また同年[[12月6日]]には、[[マーベラスAQL|マーベラスエンターテイメント]]在籍時の未発表音源をボーカル・トラック以外は新たに録音し直してリミックスしたアルバム『[[優しい世界]]』が発売された。[[2007年]](平成19年)[[4月17日]]にはアイドル時代の人気曲を中心に選曲されたベスト・アルバム『[[ANGEL VOICE 〜本田美奈子.メモリアル・ベスト〜|ANGEL VOICE]]』が発売された。これには Wild Cats を解散してソロに復帰した時期に制作されたものの未発表となっていたアルバムの音源が収録された。

また同年12月6日には、[[マーベラスAQL|マーベラスエンターテイメント]](現・マーベラス)在籍時の未発表音源をボーカル・トラック以外は新たに録音し直してリミックスしたアルバム『[[優しい世界]]』が発売された。2007年(平成19年)4月17日にはアイドル時代の人気曲を中心に選曲されたベスト・アルバム『[[ANGEL VOICE 〜本田美奈子.メモリアル・ベスト〜|ANGEL VOICE]]』が発売された。これには Wild Cats を解散してソロに復帰した時期に制作されたものの未発表となっていたアルバムの音源が収録された。



入院中に[[岩谷時子]]のためにボイスレコーダーに吹き込んでいた歌唱の音源は、一部がフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介されたほか、[[2008年]](平成20年)[[2]]にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. 最期のボイスレター 〜歌がつないだ“いのち”の対話〜』が放送された<ref group="註">[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BS hi]]で2008年2月25日に放送。3月3日に同チャンネルで再放送されたほか、3月24日には再編集されたものが[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で放送されるなど、その後も何度も再放送されている。またNHKがBS放送20周年を記念して行った視聴者のアンケートでも17位となり、BS二十歳の名作集として放送された。</ref>。このうち「[[アメイジング・グレイス]]」の録音は2006年(平成18年)[[7]]から1年間公共広告機構(現:[[ACジャパン]])の[[骨髄バンク]]支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年(平成20年)[[3月24日]]には配信限定で一般にリリースされた。2008年(平成20年)[[10月25日]]にはこのハイビジョン特集を元にした書籍『本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス』が出版され、付属のCDに「アメイジング・グレイス」を含む4曲が収録された。さらに同年[[12月10日]]にはこれらの音源のうち19曲を収録したアルバム『[[ラスト・コンサート]]』が発売された。

入院中に[[岩谷時子]]のためにボイスレコーダーに吹き込んでいた歌唱の音源は、一部がフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介されたほか、2008年(平成20年)2月にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. 最期のボイスレター 〜歌がつないだ“いのち”の対話〜』が放送された<ref group="註">[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BS hi]]で2008年2月25日に放送。3月3日に同チャンネルで再放送されたほか、3月24日には再編集されたものが[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で放送されるなど、その後も何度も再放送されている。またNHKがBS放送20周年を記念して行った視聴者のアンケートでも17位となり、BS二十歳の名作集として放送された。</ref>。このうち「[[アメイジング・グレイス]]」の録音は2006年(平成18年)7月から1年間公共広告機構(現:ACジャパン)の[[骨髄バンク]]支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年(平成20年)3月24日には配信限定で一般にリリースされた。2008年(平成20年)10月25日にはこのハイビジョン特集を元にした書籍『本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス』が出版され、付属のCDに「アメイジング・グレイス」を含む4曲が収録された。さらに同年12月10日にはこれらの音源のうち19曲を収録したアルバム『[[ラスト・コンサート]]』が発売された。



=== 今も愛される歌声 ===

=== 今も愛される歌声 ===

本田は入院中、他の入院患者とのふれ合いやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた。そして自らが病気を克服し再び元気な姿でステージに立つことが同じように難病に苦しむ人の希望になると考え、亡くなる半月ほど前の[[10月19日]]に難病患者を支援するための活動として“[[リブ・フォー・ライフ美奈子基金|LIVE FOR LIFE]]”を立ち上げた。彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって受け継がれ、現在は[[特定非営利活動法人|NPO法人]]として運営されている。この“LIVE FOR LIFE”の協賛により本田の追悼イベントが各地で開催されている。

本田は入院中、他の入院患者とのふれ合いやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた。そして自らが病気を克服し再び元気な姿でステージに立つことが同じように難病に苦しむ人の希望になると考え、亡くなる半月ほど前の10月19日に難病患者を支援するための活動として“[[リブ・フォー・ライフ美奈子基金|LIVE FOR LIFE]]”を立ち上げた。彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって受け継がれ、現在は[[特定非営利活動法人|NPO法人]]として運営されている。この“LIVE FOR LIFE”の協賛により本田の追悼イベントが各地で開催されている。



子供好きな本田は自身の晩年期、子供が虐待などの被害者となる事件が増加していることに心を痛め、恵まれない境遇にいる子供たちのために何かできることはないかと考えていた<ref group="註">アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』の発売の際の手書きの手記にはテレビの報道を見て知った[[水谷修]]の活動に感銘を受けたことを綴っている。</ref>。この思いを叶えるため、2006年(平成18年)[[9]]本田の遺族は彼女が生前使用していた車を[[インターネットオークション]]で売却し、その代金で埼玉県の[[児童養護施設]]20ヶ所に寝具100組を寄贈した<ref>『スポーツニッポン』2006年9月16日</ref>。

子供好きな本田は自身の晩年期、子供が虐待などの被害者となる事件が増加していることに心を痛め、恵まれない境遇にいる子供たちのために何かできることはないかと考えていた<ref group="註">アルバム『[[時 (アルバム)|時]]』の発売の際の手書きの手記にはテレビの報道を見て知った[[水谷修]]の活動に感銘を受けたことを綴っている。</ref>。この思いを叶えるため、2006年(平成18年)9月本田の遺族は彼女が生前使用していた車を[[インターネットオークション]]で売却し、その代金で埼玉県の[[児童養護施設]]20ヶ所に寝具100組を寄贈した<ref>『スポーツニッポン』2006年9月16日</ref>。



亡くなった翌年に[[岩崎宏美]]がカバーアルバムのシリーズ第3弾『[[Dear Friends III]]』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎は[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]と共演したアルバム『[[PRAHA]]』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。岩崎は「彼女のために生まれた歌を、私も大事に、大切に歌い継いでいきたい」と述べている<ref>アルバム『PRAHA』のライナーノート</ref>。

亡くなった翌年に[[岩崎宏美]]がカバーアルバムのシリーズ第3弾『[[Dear Friends III]]』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎は[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]と共演したアルバム『[[PRAHA]]』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。岩崎は「彼女のために生まれた歌を、私も大事に、大切に歌い継いでいきたい」と述べている<ref>アルバム『PRAHA』のライナーノート</ref>。



[[大相撲]]の[[白鵬翔|白鵬]]はファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している<ref>『スポーツニッポン』2006年1月14日</ref>。このことを知った本田の所属事務所は2006年(平成18年)の夏場所中に[[宮城野部屋]]を訪れて、この年の[[4月]]に朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した<ref>『サンケイスポーツ』2006年5月22日</ref>。

[[大相撲]]の[[白鵬翔|白鵬]]はファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している<ref>『スポーツニッポン』2006年1月14日</ref>。このことを知った本田の所属事務所は2006年(平成18年)の夏場所中に[[宮城野部屋]]を訪れて、この年の4月に朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した<ref>『サンケイスポーツ』2006年5月22日</ref>。



[[井上鑑]]が入院中の本田に復帰第一作としてプレゼントした楽曲は彼女自身が作詞して歌う予定でいたが実現することはなかった。彼女の遺志を叶えるため、本田の書き遺した言葉をもとに一倉宏が歌詞を補作し、井上の呼びかけに応じて集まったミュージシャンが“INOUE AKIRA & M.I.H.BAND”の名義で追悼シングル「[[wish (INOUE AKIRA & M.I.H.BANDの曲)|wish]]」(2006年11月1日発売)を完成させた。

[[井上鑑]]が入院中の本田に復帰第一作としてプレゼントした楽曲は彼女自身が作詞して歌う予定でいたが実現することはなかった。彼女の遺志を叶えるため、本田の書き遺した言葉をもとに一倉宏が歌詞を補作し、井上の呼びかけに応じて集まったミュージシャンが“INOUE AKIRA & M.I.H.BAND”の名義で追悼シングル「[[wish (INOUE AKIRA & M.I.H.BANDの曲)|wish]]」(2006年11月1日発売)を完成させた。



[[ヘイリー・ウェステンラ]]は2008年(平成20年)[[5月21日]]に本田の残された音源との仮想的なデュエットによる「[[アメイジング・グレイス]]」を収録したシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。本田の[[2004年]](平成16年)のライブ映像と並んでヘイリーが歌うプロモーション・ビデオも併せて制作されている<ref>{{YouTube|0__PmSQLlzs|アメイジング・グレイス / ヘイリー duet with 本田美奈子.}}</ref>。ヘイリーは「本田美奈子さんの歌手としての生き方を知り、彼女の歌う“アメイジング・グレイス”は、希望の心を歌っていると私は感じました」と語っている<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/samonblog/42815643.html ヘイリー「アメイジング・グレイス duet with 本田美奈子.」について - サモンプロモーション・スタッフブログ]</ref>。

[[ヘイリー・ウェステンラ]]は2008年(平成20年)5月21日に本田の残された音源との仮想的なデュエットによる「[[アメイジング・グレイス]]」を収録したシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。本田の2004年(平成16年)のライブ映像と並んでヘイリーが歌うプロモーション・ビデオも併せて制作されている<ref>{{YouTube|0__PmSQLlzs|アメイジング・グレイス / ヘイリー duet with 本田美奈子.}}</ref>。ヘイリーは「本田美奈子さんの歌手としての生き方を知り、彼女の歌う“アメイジング・グレイス”は、希望の心を歌っていると私は感じました」と語っている<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/samonblog/42815643.html ヘイリー「アメイジング・グレイス duet with 本田美奈子.」について - サモンプロモーション・スタッフブログ]</ref>。



同年[[11月5日]]には[[太田美知彦]]が「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」の[[セルフカバー]]を発表した。このCDには同時に太田が本田のボーカル・トラックとデュエットしたバージョンと、[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の記念コンサートで本田と共演して以来交流の続いていた愛・地球博記念市民合唱団によるバージョンが併せて収録されている。また翌6日にはクラシック・アルバムの楽曲をボーカル・トラック以外を編曲し直してリミックスしたアルバム『ETERNAL HARMONY』が発売された。このうち「アメイジング・グレイス」は[[ブライアン・メイ]]が編曲・録音を担当した。メイは「すべてのブレスや発音が聴き手に漏らさず届くように完成させました」と述べている<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/081017/gnj0810170504007-n1.htm 本田美奈子.さんブライアンと“共演” - 芸能 - SANSPO.COM]</ref>。

同年11月5日には[[太田美知彦]]が「[[つばさ (本田美奈子の曲)|つばさ]]」の[[セルフカバー]]を発表した。このCDには同時に太田が本田のボーカル・トラックとデュエットしたバージョンと、[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の記念コンサートで本田と共演して以来交流の続いていた愛・地球博記念市民合唱団によるバージョンが併せて収録されている。また翌6日にはクラシック・アルバムの楽曲をボーカル・トラック以外を編曲し直してリミックスしたアルバム『ETERNAL HARMONY』が発売された。このうち「アメイジング・グレイス」は[[ブライアン・メイ]]が編曲・録音を担当した。メイは「すべてのブレスや発音が聴き手に漏らさず届くように完成させました」と述べている<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/081017/gnj0810170504007-n1.htm 本田美奈子.さんブライアンと“共演” - 芸能 - SANSPO.COM]</ref>。



=== 本田を扱った作品 ===

=== 本田を扱った作品 ===

; 舞台

; 舞台

:*'''minako-太陽になった歌姫-'''(2017年5月、[[CBGKシブゲキ!!]])<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/stage/news/211982|title=本田美奈子.の生涯綴る物語「minako-太陽になった歌姫-」上演決定|newspaper=ステージナタリー|date=2016-12-05|accessdate=2016-12-05}}</ref>

:*'''minako-太陽になった歌姫-'''(2017年5月、[[CBGKシブゲキ!!]])<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/211982|title=本田美奈子.の生涯綴る物語「minako-太陽になった歌姫-」上演決定|newspaper=ステージナタリー|date=2016-12-05|accessdate=2016-12-05}}</ref>

::* 総合監修は高杉敬二、作・演出は野沢トオルが担当。主演は[[田村芽実]](元[[アンジュルム]])。

::* 総合監修は高杉敬二、作・演出は野沢トオルが担当。主演は[[田村芽実]](元[[アンジュルム]])。



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=== Vシネマ ===

=== Vシネマ ===

* ダンディーとわたし(1991年)

* ダンディーとわたし(1991年2月1日、[[ダイヤモンド映像|日本ビデオ映画]]) - 大和田モモ子 / 佐久間トモカ 役(二役

* 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年)

* 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年)



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=== ラジオ ===

=== ラジオ ===

* [[KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ]](1985年51日 - 19851031 、[[ニッポン放送]] 竹沢るり子の後任

* [[ジェミニ・ミュジッパートナー]] ときめいて美奈子(1985年1012日 - 198645日、[[TBSラジオ]])<ref name="djmeikan"/>

* [[ラジオDE ME HER ヤングアイドル・ナイトパーティ]](1985年10月11日 - 1986年4月4日、[[文化放送]])

* [[ラジオDE ME HER ヤングアイドル・ナイトパーティ]](1985年10月11日 - 1986年4月4日、[[文化放送]])<ref name="djmeikan"/>

* [[ジェミニ・ミュジッパートナー]] ときめいて美奈子(1985年1012日 - 198645日、[[TBSラジオ]])

* [[KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ]](1985年51日 - 19851031 、[[ニッポン放送]] 竹沢るり子の後任<ref name="djmeikan"/>

* とびだし美奈子とそれゆけおぼっちゃま(ニッポン放送)

* とびだし美奈子とそれゆけおぼっちゃま(ニッポン放送)<ref name="djmeikan"/>

* Spirit of the radio with Minako(1989年4月1日 - 1990年4月1日)

* Spirit of the radio with Minako(1989年4月1日 - 1990年4月1日)

* 本田美奈子 Blue Spring Club(1996年、[[FM新潟]]をキーステーションに[[エフエム秋田|FM秋田]]・[[福井エフエム放送|FM福井]]・[[富山エフエム放送|FMとやま]]・[[エフエム熊本|FM中九州]]・[[エフエム青森|FM青森]]・[[エフエム岩手|FM岩手]]・[[エフエム徳島|FM徳島]]・[[エフエム香川|FM香川]]・[[エフエム鹿児島|FM鹿児島]]をネット)

* 本田美奈子 Blue Spring Club(1996年、[[FM新潟]]をキーステーションに[[エフエム秋田|FM秋田]]・[[福井エフエム放送|FM福井]]・[[富山エフエム放送|FMとやま]]・[[エフエム熊本|FM中九州]]・[[エフエム青森|FM青森]]・[[エフエム岩手|FM岩手]]・[[エフエム徳島|FM徳島]]・[[エフエム香川|FM香川]]・[[エフエム鹿児島|FM鹿児島]]をネット)

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== 書籍 ==

== 書籍 ==

=== エッセイ ===

=== エッセイ ===

* {{Cite book |和書 |title=果汁120パーセント本田美奈子エッセイ集 |publisher=角川書店 |series=角川文庫 緑 648-1 |date=1985-12-10 |isbn=9784041648018}}

* {{Cite book ja |title=果汁120パーセント : 本田美奈子エッセイ集 |url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438721}}|url-access=registration |publisher=角川書店 |series=角川文庫 |date=1985-12-10 |isbn=9784041648018 }}

* {{Cite book |和書 |title=その気になって―カッ飛んじゃおうゼ |publisher=ワニブックス |series=青春ベストセラーズ |date=1986-07-10 |isbn=9784847010361}}

* {{Cite book ja |title=その気になって―カッ飛んじゃおうゼ |publisher=ワニブックス |series=青春ベストセラーズ |date=1986-07-10 |isbn=9784847010361}}

* {{Cite book |和書 |title=天国からのアンコール vol.1 1986年のマリリン |publisher=ゴマブックス |date=2006-04-20 |isbn=9784777103812}}

* {{Cite book ja |title=天国からのアンコール vol.1 1986年のマリリン |publisher=ゴマブックス |date=2006-04-20 |isbn=9784777103812}}

* {{Cite book |和書 |title=天国からのアンコール vol.2 2006年のマリリン |publisher=ゴマブックス |date=2006-04-20 |isbn=9784777103829}}

* {{Cite book ja |title=天国からのアンコール vol.2 2006年のマリリン |publisher=ゴマブックス |date=2006-04-20 |isbn=9784777103829}}



=== 写真集 ===

=== 写真集 ===

* {{Cite book |和書 |author=山岸伸 |title=好きといって… |publisher=講談社 |series=別冊スコラ 27 |date=1985-08-20 |isbn=9784061749276}}

* {{Cite book ja |author=山岸伸 |title=好きといって… |publisher=講談社 |series=別冊スコラ 27 |date=1985-08-20 |isbn=9784061749276}}

* {{Cite book |和書 |author=玉川清 |title=あぶない危ない少女 |publisher=ワニブックス |date=1985-11-05 |isbn=9784847020292}}

* {{Cite book ja |author=玉川清 |title=あぶない危ない少女 |publisher=ワニブックス |date=1985-11-05 |isbn=9784847020292}}

* {{Cite book |和書 |author=玉川清 |title=SPARKLING美奈子 |publisher=日音 |date=1986-03-20 |isbn=9784543025041}}

* {{Cite book ja |author=玉川清 |title=SPARKLING美奈子 |publisher=日音 |date=1986-03-20 |isbn=9784543025041}}

* {{Cite book |和書 |author=玉川清 |title=私・激(シゲキ)して―夏 |publisher=音楽専科社 |date=1986-05-31 |isbn=}}

* {{Cite book ja |author=玉川清 |title=私・激(シゲキ)して―夏 |publisher=音楽専科社 |date=1986-05-31 |isbn=}}

* {{Cite book |和書 |author=玉川清 |title=明星特別編集 美奈子 BATHROOM ANGEL |publisher=集英社 |date=1986-10-05 |isbn= }}

* {{Cite book ja |author=玉川清 |title=明星特別編集 美奈子 BATHROOM ANGEL |publisher=集英社 |date=1986-10-05 |isbn= }}

* {{Cite book |和書 |author=田口顕二 |title=CANCEL |publisher=シンコーミュージック |date=1986-12-15 |isbn=9784401621255}}

* {{Cite book ja |title=美奈子 : キャンセル visual song bookL |url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438798}}|url-access=registration |publisher=シンコーミュージック |date=1986-12-15 |isbn=9784401621255 }}

* {{Cite book |和書 |author=ハービー・山口 |title=WHAT'S |publisher=スコラ |series=別冊スコラ 41 |date=1987-10-26 |isbn=}}

* {{Cite book ja |author=ハービー・山口 |title=WHAT'S |publisher=スコラ |series=別冊スコラ 41 |date=1987-10-26 |isbn=}}

* {{Cite book |和書 |author=薮下修 |title=APPETIZER(アピタイザー) |publisher=ワニブックス |date=1990-07-10 |isbn=9784847021466}}

* {{Cite book ja |author=薮下修 |title=APPETIZER(アピタイザー) |publisher=ワニブックス |date=1990-07-10 |isbn=9784847021466}}

* {{Cite book |和書 |author=薮下修 |title=SAIGON |publisher=大陸書房 |date=1992-05-01 |isbn=9784803341034}}

* {{Cite book ja |author=薮下修 |title=SAIGON |publisher=大陸書房 |date=1992-05-01 |isbn=9784803341034}}

* {{Cite book |和書 |author=田口顕二 |title=時間のない島 |publisher=竹書房 |date=1995-10-20 |isbn=9784812400043}}

* {{Cite book ja |author=田口顕二 |title=時間のない島 |publisher=竹書房 |date=1995-10-20 |isbn=9784812400043}}

* {{Cite book |和書 |title=本田美奈子.メモリアル |publisher=近代映画社 |date=2005-12-10 |isbn=9784764820623}}

* {{Cite book ja |title=本田美奈子.メモリアル |publisher=近代映画社 |date=2005-12-10 |isbn=9784764820623}}

* {{Cite book |和書 |author=スクロール |title=本田美奈子写真集・10年目の「ありがとう」 |editor=アサヒカメラ編集部 |publisher=朝日新聞出版 |date=2015-10-20 |isbn=9784023314603}}

* {{Cite book ja |author=スクロール |title=本田美奈子写真集・10年目の「ありがとう」 |editor=アサヒカメラ編集部 |publisher=朝日新聞出版 |date=2015-10-20 |isbn=9784023314603}}



=== 楽譜 ===

=== 楽譜 ===

* {{Cite book |和書 |title=ボーカルスコア AVE MARIA |publisher=ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス |date=2003-06-12 |isbn=9784636206883}}

* {{Cite book ja |title=ボーカルスコア AVE MARIA |publisher=ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス |date=2003-06-12 |isbn=9784636206883}}

* {{Cite book |和書 |title=ボーカルスコア 時 |publisher=ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス |date=2004-12-18 |isbn=9784636203950}}

* {{Cite book ja |title=ボーカルスコア 時 |publisher=ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス |date=2004-12-18 |isbn=9784636203950}}

* {{Cite book |和書 |title=ボーカルスコア 心を込めて… |publisher=ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス |date=2006-11-09 |isbn=9784636811391}}

* {{Cite book ja |title=ボーカルスコア 心を込めて… |publisher=ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス |date=2006-11-09 |isbn=9784636811391}}



=== 伝記 ===

=== 伝記 ===

* {{Cite book |和書 |title=天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生 |publisher=ワニブックス |date=2007-05-20 |isbn=9784847017230}}

* {{Cite book ja |title=天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生 |publisher=ワニブックス |date=2007-05-20 |isbn=9784847017230}}

* {{Cite book |和書 |author=本田美奈子 |author2=岩谷時子 |title=本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス―歌がつないだ“いのち”の対話 |publisher=日本放送出版協会 |date=2008-10-25 |isbn=9784140394908}}

* {{Cite book ja |author=本田美奈子 |author2=岩谷時子 |title=本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス―歌がつないだ“いのち”の対話 |publisher=日本放送出版協会 |date=2008-10-25 |isbn=9784140394908}}



== 脚注 ==

== 脚注 ==

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* [https://web.archive.org/web/20110719182207/http://www.live-for-life.org/ “LIVE FOR LIFE”公式ページ]

* [https://web.archive.org/web/20110719182207/http://www.live-for-life.org/ “LIVE FOR LIFE”公式ページ]

* [https://www.bmi-inc.jp/artist/#s9 本田美奈子.] - ビーエムアイによるページ

* [https://www.bmi-inc.jp/artist/#s9 本田美奈子.] - ビーエムアイによるページ

* {{NHK人物録|D0009250612_00000}}

* {{NHK人物録|D0009072636_00000}}

* [https://minako-museum.jimdofree.com/ 本田美奈子.ミュージアム]

* [https://minako-museum.jimdofree.com/ 本田美奈子.ミュージアム]

* {{Twitter|MinakoMuseum|本田美奈子.ミュージアム}}

* {{Twitter|MinakoMuseum|本田美奈子.ミュージアム}}

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[[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]]

[[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]]

[[Category:日本コロムビアのアーティスト]]

[[Category:日本コロムビアのアーティスト]]

[[Category:日本の闘病記著者]]

[[Category:堀越高等学校出身の人物]]

[[Category:堀越高等学校出身の人物]]

[[Category:埼玉県出身の人物]]

[[Category:埼玉県出身の人物]]

[[Category:日本の闘病記著者]]

[[Category:白血病で亡くなった人物]]

[[Category:白血病で亡くなった人物]]

[[Category:1967年生]]

[[Category:1967年生]]


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本田 美奈子.
出生名 工藤 美奈子
生誕 (1967-07-31) 1967年7月31日
日本の旗 東京都板橋区[1]
出身地 日本の旗 東京都葛飾区
死没 (2005-11-06) 2005年11月6日(38歳没)
日本の旗 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[2]
学歴 堀越高等学校卒業
ジャンル アイドル歌謡曲J-POPミュージカル声楽曲クラシカル・クロスオーバー
職業 歌手アイドル女優
活動期間 1985年 - 2005年
レーベル 東芝EMI
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
バンダイ・ミュージックエンタテインメント
マーベラスエンターテイメント
コロムビアミュージックエンタテインメント
事務所 ボンド企画(1983年 - 1992年)
トリプルA(旧社名:スリーA、1992年 - 1996年)
BMI(1996年 - 2005年)
共同作業者 岩谷時子井上鑑岡野博行
公式サイト minako-channel
越路吹雪サラ・ブライトマン

 . 1967︿42731[3] - 2005︿17116

   162 cm43 kgB74 cmW56 cmH76 cmO1985198019902000.200411[4][ 1]


19674273111172860g[5]

3!1453151[ 2]

19835847宿!

219845998[1]

198560420EMI[1]西!24Temptation127

198661251986[1]

198863MINAKO with WILD CATS[1]WILD CATS911SHOW-YANAONYAON1989


19902150001992455199230[1]

19946924JUNCTION19957625  

19968

19979[1]

199810200012320619

200012101315

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200315521AVE MARIA



200416829NNHK1125121Act Against AIDS381986


200416[6]111223宿TV200513021 200517112[6] 2[6]5[6]7退98[6]退NPOLive for Life[6]116438[2][7]38[1]

  2011  


[1][5]調

[8] [9]

JUNCTION


1985604209284Temptation251986姿Temptation10[5]10

723HELP:AC使[10]198762Oneway Generation24 9932[11]


[5]1986

198661the Cross --CANCEL[12][ 3]

CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYSEMIEMI[13]CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS19876220[ 4]

198762OVERSEA

7&HEART BREAKEYELONELYMidnight Swing


1988631MINAKO with WILD CATS

SHOW-YANAONYAON


1989[5]

[ 5] 19902115033584203867[14]199131133[5]



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CD2

 (TARGET)5JUNCTION1994924 525

19957  625Fall in love with you --116I love youLIFE


19968[16]

200012200214831

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[5][ 6]100OKAVE MARIA200315521

200416112522[18]


200113NHK西(You Make Me Feel Like) A Natural WomanI Feel the Earth Move西JAZZ BREEZE-SWEET MEMORIES40[19]




[20]JUNCTION



[1]1



[21]  Lullaby

[5]199410

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1989531I love youFall in love with you --19951163


宿

姿[?]

 [20][23]

2000......Blue Spring Club

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AVE MARIA

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[28]姿-forever for ever-

200820NHKCD

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AVE MARIA200416[15] 


退[5]2004514 !

-forever for ever-wish


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1HELPOneway Generation22419863[11]1[ 9]

NHK

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38CD17TOP107AVE MARIA2239TOP10[30]

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YU-KI20041612Act Against AIDS1986[5]

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宿[28]

[ 10] [ 11] 


EMIII



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YU-KIYU-KI


2005YU-KI3200520TV37,500[5]

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DVD[ 13] 


3827003700

2[36]

20051712[37]

2005171216使.姿2121200618

20061871AC[38]2006127.[39]


20200517200618420...1987Golden DaysCD413[40]

126200719417ANGEL VOICE Wild Cats 

使.2008202NHK.  [ 14]20061871AC使2008203242008201025.CD4121019


姿1019LIVE FOR LIFENPOLIVE FOR LIFE

[ 15]2006189使20100[41]

3Dear Friends III20069271PRAHA2007926[42]

[43]2006184[44]

INOUE AKIRA & M.I.H.BANDwish2006111

2008205212008200416[45][46]

115CD6ETERNAL HARMONY[47]





minako--20175CBGK!![48]


.


2018731.

ディスコグラフィ


(一)wish2006111


(一) 1992 - 1993 -  

(二) 19941998 -  

(三) 1996199920002002 -  

(四) 1997 - 2001 -   [ 16]

(五) 20022004 -   [ 17]

(六) 2003 -  

(七) 2004 -   [ 18]


 1987 -  

V


199121 -  /  

 4 2001




198719 - 327TBS
Oneway Generation1

1994113 - 324 -  

199479 - 924 -  

119941010 - 1114

200193 - 115NHK -  [49]



MY LOVE19851118 Temptation()

1987518

(7) 1990109 -  

 19911227

  1994221 -  

TEARS 201999218 -  


 2001105 - 200232926BS - MC30


 使 . 38 20051216


 19851012 - 198645TBS[3]

DE ME HER 19851011 - 198644[3]

KIDS IN TOSHIBA 198551 - 19851031  [3]

[3]

Spirit of the radio with Minako198941 - 199041

 Blue Spring Club1996FMFMFMFMFMFMFMFMFMFM鹿

CM


EMI
2nd  

4th Temptation

5th 1986

7th HELP

8th the Cross --

3rd CANCEL

4th OVERSEA

 




  &










Hi-Brend


 

調

 

Walky







CDV34X

Aurex L200

AUREX CDRT-CDW7X

SUGAR CD

CDSUGAR CDRT-CD1

CMCM












CMCM

AC
19867 - 19876

20067 - 20076

 ! 








 


120 : ︿19851210ISBN 9784041648018

︿1986710ISBN 9784847010361

 vol.1 19862006420ISBN 9784777103812

 vol.2 20062006420ISBN 9784777103829


︿271985820ISBN 9784061749276

1985115ISBN 9784847020292

SPARKLING1986320ISBN 9784543025041

1986531

  BATHROOM ANGEL1986105

 :  visual song bookL19861215ISBN 9784401621255

WHAT'S︿4119871026

APPETIZER1990710ISBN 9784847021466

SAIGON199251ISBN 9784803341034

19951020ISBN 9784812400043

.20051210ISBN 9784764820623

1020151020ISBN 9784023314603


 AVE MARIA2003612ISBN 9784636206883

 20041218ISBN 9784636203950

 2006119ISBN 9784636811391


.2007520ISBN 9784847017230

.20081025ISBN 9784140394908

注釈



(一)^ 12004 31.

(二)^ 

(三)^ [5]

(四)^ GOLDEN DAYSA

(五)^ 

(六)^ 20028稿[17]

(七)^ 

(八)^ TBS

(九)^ 99991

(十)^ 

(11)^ []

(12)^ 120061220

(13)^ 

(14)^ BS hi200822533324NHKBS2017BS

(15)^ 

(16)^ 20047in2005

(17)^ 2005

(18)^ 2005

出典



(一)^ abcdefghij 2017, p. 91.

(二)^ ab調 100 .   (2011817). 20191219

(三)^ abcdeDJ 19871987215138

(四)^ . . (2016117). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1726384.html 

(五)^ abcdefghijklmnopq 2007.

(六)^ abcdef寿   20067201081

(七)^ .   (2016117). 20231024

(八)^ 1990422

(九)^ 1990111

(十)^ 1986AC

(11)^ ab.20!. ORICON NEWS. (2006420). https://www.oricon.co.jp/news/19122/ 

(12)^ 

(13)^ . . (2019116). https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201901160000272.html 

(14)^   20.

(15)^ ab 

(16)^ 1996.   (20121019). 2020419

(17)^  (20028). (15) . (). http://rein2000.c.ooco.jp/2002-08.html#No2 

(18)^ abAVE MARIA

(19)^ .  Re:minder (2017810). 2020419

(20)^ abc 

(21)^   

(22)^ .38AML3.  HEALTH PRESS. 2023915

(23)^  . . (2020418). https://www.iza.ne.jp/article/20200418-IDEXMECS4JPO7LWB6JQMQ4J4HI/2/ 

(24)^ ab2007417

(25)^  .   nana (2016104). 2020419

(26)^    2019822

(27)^ 116.  CHRISTIAN PRESS (2019116). 2020419

(28)^ ab寿

(29)^ 2006122. 

(30)^ .!185TOP10!. ORICON NEWS. (20051122). https://www.oricon.co.jp/news/2765/ 

(31)^ 

(32)^ 2005111410

(33)^  20087252008730

(34)^ ...

(35)^ ... DeView.   (2017216). 2020419

(36)^   

(37)^  - YouTube

(38)^ .

(39)^   

(40)^ .20!.  ORICON (2006420). 2023126

(41)^ 2006916

(42)^ PRAHA

(43)^ 2006114

(44)^ 2006522

(45)^  /  duet with . - YouTube

(46)^  duet with . - 

(47)^  -  - SANSPO.COM

(48)^ .minako--. . (2016125). https://natalie.mu/stage/news/211982 2016125 

(49)^  - TV


.2007520ISBN 9784847017230 

80collection︿ 2611201787ISBN 9784800271228 




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