大相撲
歴史[編集]
江戸時代[編集]
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃︵17世紀︶とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを﹁勧進相撲﹂といった。1624年、四谷塩町長禅寺︵笹寺︶において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた[2]。 ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社︵富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など︶で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである[3]。 ﹃相撲傳書﹄によると、この頃は土俵はなく﹁人方屋﹂という見物人が直径7 - 9m︵4 - 5間︶の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m︵13尺︶の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵︵これは﹁蛇の目土俵﹂とも言う︶となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから﹁36俵﹂と呼ばれた。 江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。 しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[4]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、﹁江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士﹂という風潮が生まれた。 各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行︵大場所︶も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。 1827年、江戸幕府が﹁江戸相撲方取締﹂という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。 幕末に﹁相撲VSレスリング﹂や﹁相撲VSボクシング﹂の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日︶に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。 1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組︵後の新選組︶と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎︵肥後出身︶であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。明治・大正[編集]
昭和戦前から戦後初期[編集]
1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月︵両国︶、3月︵関西︶、5月︵両国︶、10月︵関西︶の計4回‥11日間で開催︵1929年は10月でなく9月︶されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。 この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために[8]、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。 1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m︵15尺︶の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。 1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催︵1月、5月︶となった。 69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。 第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場︵後の明治神宮第二球場︶で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。 戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部︵GHQ︶に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺︵約4.84m︶と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所︵11月‥10日間︶が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m︵15尺︶に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所︵13日間︶が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所︵10月‥11日間︶には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。昭和戦後[編集]
1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館︵木造︶を建設し、ようやく1月場所︵13日間︶を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館︵蔵前国技館︶も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。 1950年から1952年は、本場所︵1月、5月、9月︶が各15日間実施︵ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催︶。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波︵現在の大阪府立体育会館所在地︶にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館︵1987年から大阪府立体育会館︶が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。 横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。 栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所︵九州場所、福岡スポーツセンター︶、1958年には7月場所︵名古屋場所、名古屋市金山体育館︶を行うようになり、現在のような6場所︵1月、3月、5月、7月、9月、11月︶、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。 国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと︵1957年3月2日の衆議院予算委員会[9]および4月3日の衆議院文教委員会[10]︶を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた[11]。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。 1961年には年寄の停年制が実施された︵﹁停年﹂の表記については後述︶。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。 1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。 1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた[12][13]。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止︵当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる︶、公傷制度の導入︵2003年11月場所限りで廃止されるまで続く︶、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した[14]︵いずれも1972年1月場所より施行︶。 1985年1月、現在の国技館が両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった[15]。平成[編集]
令和[編集]
2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。 2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催[22]、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した[23][24]。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された[25]。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た[26]。 2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した[27]。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。興行[編集]
大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。本場所[編集]
本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2019年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。本場所#概要を参照)。
開催月 | 正式名称 | 通称 | 開催場所 |
---|---|---|---|
1月 | 一月場所 | 初場所 | 両国国技館 |
3月 | 三月場所 | 春場所 大阪場所 |
エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館) |
5月 | 五月場所 | 夏場所[28] | 両国国技館 |
7月 | 七月場所 | 名古屋場所 | ~2024年:ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館) 2025年~:愛知国際アリーナ[29] |
9月 | 九月場所 | 秋場所 | 両国国技館 |
11月 | 十一月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター |
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両国国技館
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エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)
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ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)
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福岡国際センター
地方巡業[編集]
本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを(相撲・大相撲) 巡業という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。
関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。
花相撲[編集]
勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して花相撲と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。
海外公演[編集]
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
回数 | 開催年月 | 名 称 | 都 市 | 備 考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1965年7月-8月 | ソ連公演 | モスクワ、ハバロフスク | 日ソ復交調印10周年記念 |
第2回 | 1973年4月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中国交正常化記念 |
第3回 | 1981年6月 | メキシコ公演 | メキシコシティ | |
第4回 | 1985年6月 | アメリカ公演 | ニューヨーク | 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念 |
第5回 | 1986年10月 | パリ公演 | パリ | 東京パリ友好都市提携5周年記念 |
第6回 | 1990年6月 | ブラジル公演 | サンパウロ | |
第7回 | 1991年10月 | ロンドン公演 | ロンドン | ロンドン日本協会設立100周年記念 |
第8回 | 1995年10月 | ヨーロッパ公演 | ウィーン、パリ | |
第9回 | 1997年6月 | オーストラリア公演 | メルボルン、シドニー | 日豪外交100周年記念 |
第10回 | 1998年6月 | カナダ公演 | バンクーバー | |
第11回 | 2004年2月 | 韓国公演 | ソウル、釜山 | 日韓共同未来プロジェクト |
第12回 | 2004年6月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中定期航空路線開設30周年記念 |
第13回 | 2005年10月 | ラスベガス公演 | ラスベガス | ラスベガス市制100周年記念 |
第14回 | 2009年10月(中止) | ロンドン公演 | ロンドン | 世界的な不況により中止 |
第15回 | 2013年6月(延期) | モスクワ公演 | モスクワ |
海外巡業[編集]
回数 | 開催年月 | 名称 | 都市 | 備考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1962年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第2回 | 1964年2月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | 角界拳銃密輸事件が起こる |
第3回 | 1966年 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第4回 | 1970年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第5回 | 1972年2月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第6回 | 1974年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第7回 | 1976年6月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | |
第8回 | 1981年6月 | アメリカ巡業 | サンノゼ、ロサンゼルス | |
第9回 | 1992年6月 | スペイン、 ドイツ巡業 | マドリード、デュッセルドルフ | |
第10回 | 1993年2月 | 香港巡業 | 香港 | |
第11回 | 1993年6月 | アメリカ巡業 | ホノルル、サンノゼ | |
第12回 | 2006年8月 | 台湾巡業 | 台北 | 13年ぶりに海外巡業が復活 |
第13回 | 2007年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | 14年ぶりのハワイ巡業 |
第14回 | 2008年6月 | ロサンゼルス巡業 | ロサンゼルス | |
第15回 | 2008年8月 | モンゴル巡業 | ウランバートル | |
第16回 | 2013年8月 | ジャカルタ巡業 | ジャカルタ |
横綱[編集]
代位 | 四股名 | 生年月日(年齢) | 初土俵 | 横綱昇進 | 優勝 | 所属 | 出身 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
73代 | てるのふじ はるお 照ノ富士春雄 |
1991年11月29日(32歳) | 2011年 5月 | 2021年9月 | 9回 | 伊勢ヶ濱部屋 | モンゴル |
番付[編集]
昇進と降格[編集]
番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。 ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは﹁番付は生き物﹂と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。 それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている[32]。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[33]。取組[編集]
優勝制度[編集]
幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。優勝制度の不公平[編集]
力士の条件[編集]
力士の報酬[編集]
関取の報酬[編集]
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金︵給金︶と、いわゆる2階建てになっている。 ︵2019年1月現在︶項目 | 横綱 | 大関 | 三役(関脇・小結) | 平幕(前頭) | 十両 |
---|---|---|---|---|---|
月額給与 | 300万円 | 250万円 | 180万円 | 140万円 | 110万円 |
年額給与 | 3,600万円 | 3,000万円 | 2,160万円 | 1,680万円 | 1,320万円 |
年額賞与 | 600万円 | 500万円 | 360万円 | 280万円 | 220万円 |
特別手当 | 120万円 | 90万円 | 30万円 | ||
出張手当 | 115.5万円 | 99.7万円 | 85万円 | 74.5万円 | 68.2万円 |
力士補助金 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 | 7.5万円 |
力士褒賞金(1場所) | 60万円 | 40万円 | 24万円 | 24万円 | 16万円 |
年額報酬 | 4,803万円 | 3,937.2万円 | 2,786.5万円 | 2,186万円 | 1,711.7万円 |
- 力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。
給与[編集]
賞与[編集]
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。本場所特別手当[編集]
本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休︵不戦敗も含む︶の場合は支給されない。 ●横綱‥200,000円 ●大関‥150,000円 ●関脇・小結‥50,000円出張手当[編集]
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分[注 4]支給される。 ●横綱‥宿泊費8,000円、日当3,000円 ●大関‥宿泊費7,500円、日当2,000円 ●関脇・小結‥宿泊費6,500円、日当1,600円 ●平幕‥宿泊費5,700円、日当1,400円 ●十両‥宿泊費5,300円、日当1,200円力士補助金[編集]
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。 ●横綱から十枚目︵十両︶まで‥一律25,000円力士褒賞金[編集]
場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金︵支給標準額︶の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士(関取)に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され[注 5]、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算︵後述︶があるほか、十両・幕内(関脇と小結を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。番付 | 持ち給金 (最低額) |
最低支給額 (1場所ごと) |
---|---|---|
横綱 | 150円 | 60万円 |
大関 | 100円 | 40万円 |
幕内 | 60円 | 24万円 |
十両 | 40円 | 16万円 |
力士養成員の報酬[編集]
幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。
- 幕下:165,000円
- 三段目:110,000円
- 序二段:88,000円
- 序ノ口:77,000円
(2019年1月現在)
項目 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
---|---|---|---|---|
場所手当 | 165,000円 | 110,000円 | 88,000円 | 77,000円 |
年額報酬 | 990,000円 | 660,000円 | 528,000円 | 462,000円 |
勝星奨励金(1つあたり) | 2,500円 | 2,000円 | 1,500円 | 1,500円 |
勝越金(1つあたり) | 6,000円 | 4,500円 | 3,500円 | 3,500円 |
副業の制約など[編集]
大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長︵当時︶の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル︵後のパナソニック︶乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。各種表彰・昇給・賞金[編集]
各段優勝[編集]
番付の幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口の各階級内での最高成績者が優勝となる。ただし最高成績者が複数いる場合は、優勝決定戦が行われ、それを勝ち抜いた1人のみが優勝となる。力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、優勝者に対して表彰が行われ、以下の賞金が授与される。 ●幕内最高優勝 - 1000万円 ●十両優勝 - 200万円 ●幕下優勝 - 50万円 ●三段目優勝 - 30万円 ●序二段優勝 - 20万円 ●序ノ口優勝 - 10万円 幕内最高優勝の場合、力士褒賞金の加算による昇給もあり、全勝以外の優勝は30円、全勝優勝なら50円が力士褒賞金に加算される。4000倍という倍率からすると、実質ぞれぞれ12万円、20万円の昇給となる。三賞[編集]
千秋楽には、勝ち越した関脇以下の幕内力士に対し、相撲内容等により選考を経て殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞が贈られ、表彰・賞金の対象となる。三賞の賞金としては1つにつき200万円が授与される。金星[編集]
懸賞金[編集]
幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。
名誉賞[編集]
廃止された各種表彰[編集]
優勝旗手[編集]
1909年6月場所から1931年10月場所までと、1940年1月場所から1947年6月場所までの期間には、優勝した片屋の関脇以下の最高成績力士が優勝旗手として表彰されていた。雷電賞[編集]
1955年3月場所から1965年11月場所まで、関脇以下の最高成績者(三賞と異なり機械的に決まる)に与えられる表彰として、雷電賞が行われていた。
二位・三位力士に対する表彰[編集]
1948年10月場所の1場所のみ、幕内から序ノ口までの各段の優勝(一位)力士の他、二位・三位力士に対する表彰が存在した。同場所は優勝が10勝1敗の西関脇増位山大志郎、二位が優勝決定戦敗者の西大関東富士欽壹、三位が9勝2敗の東大関佐賀ノ花勝巳で、佐賀ノ花勝巳は西前頭8枚目高津山芳信との三位決定戦を行って勝利していた。1949年10月場所では、幕内以外で三位まで表彰されている。
力士の退職金[編集]
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。
養老金[編集]
(2006年1月現在、単位:円)
横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
---|---|---|---|---|---|
資格者 | 15,000,000 | 10,000,000 | 7,630,000 | 7,630,000 | 4,750,000 |
非資格者 | -- | -- | 7,630,000 | 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 | 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000 |
勤続加算金[編集]
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。
(2006年1月現在、単位:円)
横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
---|---|---|---|---|---|
横綱 | 500,000 | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
大関 | -- | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
三役 | -- | -- | 250,000 | 200,000 (150,000) | 150,000 |
平幕 | -- | -- | -- | 200,000 (150,000) | 150,000 |
十両 | -- | -- | -- | -- | 150,000 |
特別功労金[編集]
力士の待遇[編集]
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。地位 | 幕内(横綱 - 前頭) | 十両 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
---|---|---|---|---|---|---|
髷 | 大銀杏 | 丁髷 (十両との対戦時および弓取式、巡業中の初切出演、床山の練習台、引退時の断髪式の際は大銀杏容認) | ||||
服 | 紋付羽織袴 | 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) | 着物・羽織 | 着物(浴衣もしくはウール) | ||
帯 | 博多帯 | ベンベルグ | ||||
傘 | 番傘・蛇の目傘 | 洋傘 | ||||
履物 | 足袋に雪駄(畳敷き) | 足袋に雪駄(エナメル製) | 素足に雪駄(エナメル製) | 素足に下駄 | ||
稽古廻し | 白色・木綿 | 黒色・木綿 | ||||
取り廻し | 博多織繻子(色は事実上自由) | 黒色・木綿 | ||||
下がり | 取り廻しの共布 | 紐 | ||||
足袋の色 | 白 | 黒 | ||||
控えの敷物 | 私物の座布団(色・デザインは自由) | 共用の座布団(紫一色) | 畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団) | |||
月ごとの収入 | 月額給与 | - | ||||
場所ごとの収入 | 力士褒賞金 | 場所手当・奨励金 |
待遇の歴史[編集]
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち︵江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の前身︶によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。 三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主︵勧進元︶から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による﹁手相撲﹂で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる﹁力人信仰﹂から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。 本場所で﹁星を売る﹂、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある[40]。 明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年︵昭和33年︶、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、﹁時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手﹂という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。 また、金銭面に関しては、後援者︵タニマチ︶からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。力士の労働契約について[編集]
一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される給与所得者とされており、他のプロスポーツ選手の大半が個人事業主であることに対して労働条件を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に小錦は自身の大関在位時代︵1987年7月場所から1993年11月場所︶の月給について﹁100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円﹂と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に﹁僕の時代は、どんな幕内力士でも︵懸賞は︶必ずあった﹂とも話しており、さらに﹁僕も200万近く貰っていた。一番いいときに﹂と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。[41][42]この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年︵平成13年︶に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が﹁せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ﹂と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる[43]。ただし2015年の冬季ボーナスは﹁もし俺に何かあったら、︵給料の底上げを︶頼むぞ﹂と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという[44]。 とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると﹁労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています﹂とのこと[45]。なお、2011年の大相撲八百長問題で解雇された蒼国来が起こした訴訟における東京地裁の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は﹁準委任契約﹂(=力士は個人事業主である)としている[46]。 一方で、福利厚生や引退時の退職金制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める労働者に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診療も受け付ける診療所︵公益財団法人日本相撲協会診療所。通称﹁相撲診療所﹂[47]︶があること、健康保険組合︵日本相撲協会健康保険組合[48]︶を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達[49]を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。[注 19]収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる[50]。 一般の個人事業主の場合のように相撲部屋が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は12代中立の中立部屋の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった[51]。退職[編集]
力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。区分 | 改称前 | 改称後 |
---|---|---|
力士 | 廃業 | 引退 |
引退 | ||
年寄 | 廃業 | 退職 |
停年、退職 |
因習的な問題[編集]
閉鎖性[編集]
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士︵年寄︶によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き︵額面は9桁、億単位に達している︶、1998年5月には﹁準年寄﹂制度の導入などで対応したが︵2006年末廃止︶、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花︵花田虎上︶、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。 また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に﹁かわいがり﹂と言われる︵稽古名目での︶私刑が横行していた。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長(第55代横綱)が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が12代芝田山︵第62代横綱・大乃国︶から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。 また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。出身地による参加機会の不均等[編集]
理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者︵日本国籍取得者も含む︶の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。年寄の国籍要件[編集]
年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元高見山の12代東関や第67代横綱・武蔵丸の15代武蔵川など日本国籍を取得︵帰化︶して相撲協会に残る者もいる。 その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・曙は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さ[52]を見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという[53]。第68代横綱・朝青龍は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・把瑠都は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという[54]。女人禁制[編集]
日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。 ●2000年に大阪府知事に就任した日本初の女性都道府県知事である太田房江は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。 ●2007年9月19日︵秋場所11日目︶には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは﹁約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた﹂としている[55]。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている[56]。 ●2018年4月4日、巡業先の舞鶴市で多々見良三市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した[57]。これについて八角理事長は﹁人命にかかわる状況には不適切な対応でした﹂と謝罪している︵﹁女性は土俵から降りてください﹂騒動︶[58]。 この女人禁制の風習は明治期の﹁違式詿違条例﹂発令と﹁神道の穢れ感﹂を利用し﹁虚構の伝統﹂が創られたとされる[59]。 日本の相撲の歴史においては室町時代から女相撲も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない[59]。1957年に大相撲の四国巡業において女相撲の大関若緑が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・前田山と第二次世界大戦で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった[60][61]。固辞する若緑に対し、前田山は﹁責任はとるから﹂と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという[62]。志願者の減少と意識の変容[編集]
近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)[注 20]。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、﹁宗教色を帯びた伝統的な儀式﹂よりも﹁一般スポーツ競技の一種﹂と捉えている力士数が増えている。その他[編集]
- 相撲茶屋問題
外資系企業・他国からの表彰[編集]
外資系企業[編集]
1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、﹁ヒョー、ショー、ジョォー﹂という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され︵パンナム自体その約半年後に倒産︶、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。フランス共和国大統領杯・日仏友好杯[編集]
﹁フランス共和国大統領杯﹂は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、﹁坊主憎けりゃ袈裟まで﹂の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは﹁あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません﹂と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。 2011年の名古屋場所から﹁日仏友好杯﹂として復活。副賞としてピエール・エルメ監修の黄金マカロン︵22個︶が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している[63][64]。アメリカ合衆国大統領杯[編集]
﹁アメリカ合衆国大統領杯﹂は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・ドナルド・トランプが令和元年︵2019年︶五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。朝乃山が受賞した[65]。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている[66]。大相撲を主題とした作品[編集]
テレビゲーム[編集]
●大相撲︵データイースト、1984年︶ ●出世大相撲︵テクノスジャパン︵後のアークシステムワークス︵著作権保有および発売︶︶、1984年︶ ●つっぱり大相撲︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1987年︶ ●寺尾のどすこい大相撲︵ジャレコ、1989年︶ ●SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所︵バンプレスト︵後のバンダイナムコゲームス︶、1990年︶ ●千代の富士の大銀杏︵FACE、1990年︶ ●スーパー大相撲熱戦大一番︵ナムコ︵後のバンダイナムコゲームス︶、1992年︶ ●大相撲魂︵タカラ︵後のタカラトミー︶、1992年︶ ●つっぱり大相撲 平成版︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1992年︶ ●つっぱり大相撲 立身出世編︵テクモ︵後のコーエーテクモゲームス︶、1993年︶ ●若貴大相撲 夢の兄弟対決︵イマジニア、1993年︶ ●ああ播磨灘︵1993年︶ ●横綱物語︵KSS︵後のソフトガレージ︶、1994年︶ ●64大相撲︵ボトムアップ、1997年︶ ●64大相撲2︵ボトムアップ、1998年︶ ●どすこい伝説︵ケイエスエス、1999年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲︵コナミ、2000年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編︵コナミ、2001年︶ ●SIMPLE1500シリーズ Vol.58 THE すもう︵D3パブリッシャー、2001年︶ ●日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編︵コナミ、2002年︶ ●つっぱり大相撲 Wii部屋︵テクモ、2009年︶モバイルゲーム[編集]
●みんなで大相撲︵Japan Internet Technologies、2011年︶ ●大相撲カード決戦︵HINATA、2013年︶ ●大相撲ごっつぁんバトル︵HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年︶落語[編集]
●花筏 ●阿武松 ●大安売り ●佐ノ山 ●千早振る雑誌[編集]
現在刊行中[編集]
●相撲︵ベースボール・マガジン社︶ - 日本相撲協会機関誌扱い。 ●NHK G-Media 大相撲中継︵毎日新聞出版︶ ●スポーツ報知 大相撲ジャーナル︵報知新聞社︶かつて刊行していた雑誌[編集]
●大相撲︵読売新聞社︶ - 2010年9月号をもって休刊。 ●VANVAN相撲界︵ベースボール・マガジン社︶ - 1998年終刊。 ●別冊グラフNHK大相撲特集号→NHK大相撲中継︵NHKサービスセンター︶ ●NHK G-Media 大相撲ジャーナル︵イースト・プレス︶小説[編集]
●どすこい。︵京極夏彦︶ ●大相撲殺人事件︵小森健太朗︶ ●雷電本記︵飯嶋和一︶漫画作品[編集]
●ああ播磨灘︵さだやす圭︶ ●両国花錦闘士︵岡野玲子︶ ●のたり松太郎︵ちばてつや︶ ●おかみさん︵一丸︶ ●やぐら嵐︵ビッグ錠︶ ●やぐら太鼓の詩︵琴剣︶ ●ちゃんこ屋虎太郎︵琴剣︶ ●はっけよい︵前川たけし︶ ●巴戦、待ったなし︵岸本景子︶ ●おっとと、お相撲くん︵コンタロウ︶ ●どす恋ジゴロ︵平松伸二︶ ●嗚呼どす恋ジゴロ︵平松伸二︶ ●よりきり君︵平ひさし︶ ●大相撲刑事︵ガチョン太朗︶ ●力人伝説 -鬼を継ぐもの-︵原作‥宮崎まさる、作画‥小畑健︶ ●ももたろう︵小山ゆう︶ ●バチバチ︵佐藤タカヒロ︶ ●バチバチBurst︵佐藤タカヒロ︶ ●鮫島、最後の十五日︵佐藤タカヒロ︶ ●達磨︵木村えいじ︶ ●火ノ丸相撲︵川田︶ ●さくらのはなみち︵原作‥希戸塚一示、作画‥西山田 ︶ ●りきじょ︵歌麿︶ ●ガチンコッ!︵山下てつお︶ ●どすこーい!勝五郎︵柴山みのる︶ ●すもう甲子園︵貝塚ひろし︶ ●すまひとらしむ︵いおり真、取材協力・来未︶映画作品[編集]
●名寄岩 涙の敢闘賞︵小杉勇監督、1956年︶ ●若ノ花物語 土俵の鬼︵森永健次郎監督、1956年︶テレビドラマ[編集]
●千代の富士物語︵関西テレビ、1991年︶ ●まったナシ!︵日本テレビ、1992年︶ ●ひらり︵NHK、1992年︶ ●おかみさんドスコイ!!︵毎日放送、2002年︶ ●サンクチュアリ -聖域-︵Netflix、2023年︶その他[編集]
●﹁鬼無双シリーズ﹂﹁世界最強の国技 SUMOU﹂ ニコニコ動画における相撲の映像にロボットアニメや対戦格闘ゲームのような派手なエフェクトを入れたMADムービーで、単に﹁SUMOU﹂と呼ばれることもある。ニコニコ動画で再生数の多い人気動画のひとつであり、2015年に開催されたニコニコ超会議では、相撲協会協力の下現役の力士がリアルタイムでMADムービーを再現する﹁リアルSUMOU﹂が開催され[67]、同年のACC CM FESTIVALではインタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞した[68]。2017年の超会議でも同様のイベントが開催された。大相撲ファンの著名人[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連書[編集]
- 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。
関連項目[編集]
- 用語・名鑑
- 概論・制度・伝統
- 団体・施設
外部リンク[編集]
- 日本相撲協会公式サイト
- 日本相撲史概略
- 大相撲 記録の玉手箱(2009年2月20日時点のアーカイブ)
- goo 大相撲
- 江戸時代のお相撲さん - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という江戸時代の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ)
- スポーツ文化情報館(2012年2月22日時点のアーカイブ)
- 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―(2010年2月5日時点のアーカイブ)
- 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って
- 大相撲 - スポナビライブ
- 大相撲(生配信) - ABEMA 大相撲チャンネル 音量注意
- 大相撲星取表
- 『大相撲』 - コトバンク