近藤日出造
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近藤 日出造 | |
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本名 | 近藤 秀蔵[1][2] |
生誕 |
1908年2月15日[1][2]![]() |
死没 |
1979年3月23日(71歳没)[1][2] 東京都中野区[1][2] |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1928年 - 1979年 |
ジャンル | 政治漫画 |
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近藤 日出造︵こんどう ひでぞう、1908年2月15日[1][2] - 1979年3月23日[1][2]︶は日本の漫画家。本名は近藤 秀蔵[1][2]︵読みは同じ︶。
戦中から昭和後期にかけて、政治家の似顔絵を主とする1コマの政治風刺漫画を中心に描いた。似顔絵は手塚治虫が﹁似顔絵の名手[3]﹂と評する腕前だった。
略歴
生い立ち
1908年︵明治41年︶、長野県更級郡稲荷山町︵のちの千曲市稲荷山︶に生まれる[2]。生家は衣料品・雑貨商[2]。尋常小学校を卒業後、東京の日本橋三越の店員や、長野市内の洋服店で仕立職人を経験したのち、家業に専念[2]。この間、雑誌に漫画を投稿し、入選を重ねる[4]。1928年に再度上京し、翌年[4]、岡本一平の﹁一平塾﹂に入門。杉浦幸雄と出会う。同年に近藤秀三の名で第四次﹃東京パック﹄に寄稿して実質的なプロデビューを果たす。すぐに近藤日出造に改名し、﹃東京パック﹄のほか﹃月刊マンガ・マン﹄[2]などで執筆する。 北澤楽天に代表される既成の漫画家が活動の枠を独占していた当時の漫画界で、雑誌連載のチャンスを求め、1932年︵昭和7年︶6月に、杉浦、横山隆一ら若手漫画家たちは、﹁新漫画派集団﹂を結成した[4]。団員が合同で仕事を請け負い、収入を分け合うための事務所を構え、生活を安定させる。近藤は当初、アイディア主体のナンセンス漫画を志向したが、﹁横山のナンセンス漫画はわれわれ凡人の及ぶところではない﹂と感じ、﹁横山が不得意とする分野を開拓しよう﹂[4]と、似顔絵に活路を求め、1933年︵昭和8年︶に読売新聞社の嘱託となって、﹃読売新聞﹄の政治漫画を担当しはじめる[2]。近藤は﹁面倒見のよさ﹂﹁親分肌﹂[4]によって、横山とともに集団のリーダーとして頭角を現していった。雑誌﹃漫画﹄
1938年に読売新聞社を退社。その後1940年︵昭和15年︶に新日本漫画家協会を設立し[2]、自身の主宰で同会の機関誌﹃漫画﹄を創刊する[4]。新日本漫画家協会は事実上、戦争完遂を目的とした国家総動員体制下において、一部の漫画界が政府の体制に組み入れられたものだった。﹃漫画﹄は﹁見る時局雑誌﹂の副題が書かれ、一種のプロパガンダ的役割を帯びていた。﹃漫画﹄誌上で近藤は、得意の似顔絵を用いてルーズベルト、チャーチルなど連合国軍の首脳[4]を徹底的に攻撃する一方、同盟国のドイツのゲッベルスらを賞賛する漫画を描いた。﹃漫画﹄には似顔漫画の他、将校待遇の記者として派遣された漫画家が戦地の様子を描いたルポルタージュ漫画、軍人や高級官僚らとの対談記事などが掲載された。 近藤は1945年︵昭和20年︶に応召。程なく終戦を迎える[2]。第二次世界大戦終結後の1946年︵昭和21年︶1月に復刊した﹃漫画﹄に近藤が最初に描いた似顔漫画は、東條英機が檻に閉じ込められているものであった。復刊後の﹃漫画﹄は加藤芳郎ら、戦後に活動する漫画家たちの登竜門となった[5]のち、1951年︵昭和26年︶に休刊する。戦後
近藤は杉浦、横山らとともに、﹁新漫画派集団﹂の後身である﹁漫画集団﹂を引き続き率いた。そして1947年︵昭和22年︶に読売に復職し、1976年︵昭和51年︶まで﹃読売新聞﹄政治面の政治漫画を描き続けた。 1964年︵昭和39年︶に日本漫画家協会初代理事長に就任[4]。1965年︵昭和40年︶には専修学校・東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する[4]。1972年[2]に代理店﹁漫画社﹂を創業︵もとは﹃漫画﹄誌発行のための任意団体で、この年に法人化した︶。﹁漫画集団﹂のメンバーが取締役となり[6]、政府広報や原子力発電所関係団体の漫画カットを年間150万円の看板料で請け負った[7][8]。 晩年は脳卒中の後遺症のため入退院を繰り返した。1979年︵昭和54年︶、肺炎のため東京・江古田の武蔵野療園病院で死去[4]。71歳没。死後、郷里の稲荷山に﹁更埴ふる里漫画館︵のち、千曲市ふる里漫画館︶﹂が開館し、作品や実際に使用していた机が常設展示されている[9]。受賞歴
●1974年︵昭和49年︶ 紫綬褒章[2] ●1975年︵昭和50年︶ 第23回菊池寛賞[2]人物
●弟子に塩田英二郎[5]、六浦光雄[5]、牧野圭一、境田昭造らがいる。 ●妻は横山隆一の妹[4]。 ●近藤は﹃週刊朝日﹄1949年4月24日号の特集﹁子どもの赤本 俗悪マンガを衝く﹂で横山隆一、清水崑とともにインタビューに答え、当時隆盛だった赤本漫画に対し﹁絵というようなものじゃない﹂と断じ、さらに﹃中央公論﹄1956年7月号では﹁子供漫画を斬る﹂と題するエッセイを発表し、﹁これらの作者と一緒くたにして﹃漫画家﹄と呼ばれることが、腹立たしいほどだ﹂と述べた︵ただし、赤本出身である手塚治虫については﹁さすが格段の腕前﹂とおおむね許容的であった︶。雑賀忠宏は﹁マンガ界における職業位階の正統性の構造が透けて見える﹂と評し、結果的に1950年代の﹁悪書追放運動﹂にいたる、既存メディアによる児童向け漫画バッシングをめぐる、漫画界を含む社会のとまどいの表象ととらえている[10]。評価
大戦中に翼賛体制に協力していながら、主義主張を完全に翻した近藤の態度は、転向であるとして批判を受けた[要出典]。戦後の﹃漫画﹄誌上で近藤は﹁結局我々は生活のために漫画を描く庶民なのだから、時勢に合った漫画を描くのは仕方がない﹂という旨の弁明を度々掲載した。杉浦幸雄は、戦中に﹁役人のいう通りになってはいい漫画は描けない﹂として、﹁大政翼賛会から集団︵=引用者注‥新漫画派集団︶を応援しようと言ってきたのをきっぱり断ったのは近藤だった﹂と証言している[4]。著書
- 単著
- 家庭科学漫画(東栄社 1942)
- 日出造膝栗毛(文藝春秋新社 1954)
- やァこんにちは 第1‐2集(読売新聞社 1954)
- 恐妻会(朋文社 1955)
- 絵のない漫画(鱒書房 1956)
- 海道うらばなし(六月社 1958)
- 孫子の兵法(読売新聞社 サラリーマン・ブックス 1962)
- 金 欲の皮の人間学(読売新聞社 サラリーマン・ブックス 1963)
- にっぽん人物画 正・続(オリオン社 1964)
- 安保がわかる(漫画社 1969) - 自民党や国民協会に80万部を売り上げたことが、体制派漫画家として学生運動家らから非難を浴びた[要出典]。
- 人の顔はなにを語るか(実業之日本社 ホリデー新書 1970)
- 共著編
- 漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論(矢部友衛共著 日本漫画研究会 1935)
- 模範産業戦士訪問記(共著 東京産業報国会編 漫画社 1943)
- わが青春の懺悔録(編 雪華社 1958)
- この道ばかりは(杉浦幸雄共著 実業之日本社 1960)
メディア出演
- テレビ
- 雨・風・曇(日本テレビ 1956) - 司会
- 春夏秋冬(日本テレビ 1959) - 司会
出典
- ^ a b c d e f g 近藤日出造 コトバンク - 典拠は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『デジタル大辞泉』『百科事典マイペディア』『デジタル版 日本人名大辞典+Plu』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 近藤日出造 千曲市ふる里漫画館
- ^ 手塚治虫「マンガの描き方」光文社(1977)131頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』 毎日新聞社、1990年 pp.10-20「新漫画派集団の誕生」
- ^ a b c 『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』pp.35-40「焼け跡から」
- ^ 「マンガ家を原発推進CMにかつぎ出す『漫画社』の正体」『図説危険な話』コミックボックス編集、ふゅーじょんぷろだくと、1989年、p.48
- ^ 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、2004年、p.277
- ^ インタビュアー高瀬毅「まんが家に聞く 原発についてのさまざまな思い」『COMIC BOX』1990年1月号、pp.38-39
- ^ 千曲市ふる里漫画館
- ^ 茨木正治(編)『マンガジャンル・スタディーズ』 臨川書店、2013年 pp.192-219 雑賀忠宏「『マンガ』を描くことと『マンガ家』 ――職業としての『マンガ家』像をめぐって――」