ドイツの映画
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ドイツ映画の歴史は、19世紀後半、映画史のかなり初期にまで遡ることが出来る。ドイツ映画界からは非常に多くの才能ある映画監督や俳優たちが生み出されてきた。
1918年以前[編集]
1895年11月1日、マックスとエミールのスクラダノウスキー兄弟は、二人が発明した映写機をベルリンで実演した。同年12月28日にパリでリュミエール兄弟がシネマトグラフを上映しており、スクラダノウスキー兄弟は彼らよりも早いことになる。ドイツにおける映画先駆者としては他にOskar MessterやMax Glieweや撮影監督のグイド・シーベルがいる。 初期にはシネマトグラフィは主に裕福な階層で注目を集めたが、その目新しさはすぐに薄れていった。しばらくして労働者や中流下層の人々向けに短編作品が作られるようになり、遊園地などで上映されるようになった。そのような作品が上映されるブースは軽蔑的にKintoppsと呼ばれた。芸術家肌の映画製作者たちはそういった風潮に対抗するように、文学作品をベースとしたより長い作品を制作するようになった。ドイツで初めての“芸術的な”作品は1910年ごろから製作されるようになり、1913年にはパウル・ヴェゲナーとシュテラン・ライの共同監督、グイド・シーベル撮影、マックス・ラインハルトの劇団の俳優たちが出演したエドガー・アラン・ポーの﹃プラークの大学生﹄が製作された。 すでに1914年より前には、多くの外国映画が輸入されるようになっていた。サイレント映画時代には言語の境界がなく、ドイツでは特にデンマーク映画とイタリア映画が人気であった。特定の俳優の姿をもっと見たいという観客の望みが映画スターを生み出していく。ドイツ映画史初期のスターにはヘンニ・ポルテン、デンマーク出身のアスタ・ニールセンなどがいる。また、人気映画の続きが見たいという要望から、連続ものの作品が作られ、特にミステリ映画が人気であった。フリッツ・ラングはこの分野からキャリアをスタートさせた。 第一次世界大戦の勃発に伴いフランス映画などのボイコットがはじまったが、それは市場との大きなギャップを生み出す結果となった。なぜなら1916年当時にはすでに2000以上の映画上映会場がドイツにあり、上映作品の不足からその他の出し物でカバーしなければいけない事態に陥ったからである。1917年、ドイツにおける映画産業の国営化のはじまりとしてウーファが設立され、新しいメディアは連合軍のプロパガンダを推進する効果的な手段として用いられるようになる。軍の保護の下、Vaterland 映画︵祖国映画︶と呼ばれるプロパガンダ映画が製作されるようになる。大衆はそれを受け入れ、ドイツ映画はヨーロッパ最大規模に成長していった。1918年から1933年、ヴァイマル共和政下で[編集]
第一次世界大戦後すぐに、映画は大衆にとってファンタジー世界への逃避の手段となり、映画産業は好況期に入ったが、製作の予算は常に厳しく現場では節約を迫られていた。しかし、そういった状況や、当時ヨーロッパに満ちていた未来に対する期待などがドイツ表現主義の隆盛の要因となったといえる。表現主義映画はストーリーを語る際、写実主義ではなく象徴主義や比喩表現に依存していた。表現主義映画の始まりは、しばしば ロベルト・ヴィーネの﹃カリガリ博士﹄(1920)だといわれる。ドイツ表現主義において重要なその他の作品にはF・W・ムルナウの﹃吸血鬼ノスフェラトゥ﹄(1922)やカール・ベーゼとパウル・ヴェゲナーの﹃巨人ゴーレム﹄(1920)などがある。1920年代中頃に表現主義映画の動きは終焉したが、その後もアメリカのホラー映画やフィルム・ノワール、ヨーロッパのジャン・コクトーやイングマール・ベルイマン作品など、世界中の映画に影響を与え続けた。 ウーファは1921年に民営化され、1920年代には年間600本の映画を製作するなど、ドイツ映画界の大黒柱的存在となる。当時ベルリンには 230もの映画製作会社があった。しかし、もともとヴァイマル共和政下の経済が不安定であったため、映画産業も脆弱であった。映画製作費用はしばしば巨額になり︵フリッツ・ラングの﹃メトロポリス﹄など︶、映画製作会社の倒産や破産を引き起こすことも多かった。ウーファもアメリカのパラマウント映画やメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと不利なパートナーシップを結ぶことを余儀なくされたが、1927年に愛国主義者の実業家アルフレート・フーゲンベルクに買収された。経済的困難があったもののウーファはエルンスト・ルビッチの﹃パッション﹄(1919)、フリッツ・ラングの﹃ニーベルンゲン﹄(1924)、F・W・ムルナウの﹃最後の人﹄など、多くの優れた作品を生み出した。1912年に設立され、後にウーファに吸収された大規模なスタジオFilmstudio Babelsbergでラングは﹃メトロポリス﹄を撮影し、ドイツ映画の基盤を築いた。 ヴァイマル共和政下では映画産業の発達に伴い、映画評論も1つの分野として発達し、ルドルフ・アルンハイムやバラージュ・ベーラ、ロッテ・アイスナーなどが現れた。 1920年代、表現主義の影響が薄れるにつれ、様々なジャンルやスタイルが発達していった。新即物主義に影響された映画は社会的なテーマやリアリズムに戻りはじめ、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープストの﹃喜びなき街﹄(1925)や﹃パンドラの箱﹄(1929)などがヒット。新即物主義は更に堕胎や売春、同性愛、依存症といった当時スキャンダラスな題材を扱った作品を生み出す結果にもなった。対照的にこの時期、アーノルド・ファンクが先駆者となった山岳映画というジャンルが発達した。また、ロッテ・ライニガーやオスカー・フィッシンガー、ワルター・ルットマンといったアニメーターや映画監督は非常に活発に実験的作品を制作していた。ルットマンの実験的ドキュメンタリーBerlin: Die Sinfonie der Großstadt (1927)では、エネルギーに満ちた1920年代のベルリンを見ることが出来る。また、ヴァイマル時代の政治的見解が映画にも影響を与えた。オットー・ゲビュール(Otto Gebühr)がフリードリヒ2世を演じた愛国的な映画シリーズが1920年代を通じて製作され、新即物主義に影響された映画を退廃的だと批判した右翼層に支持された。 1920年代後半には、音声の到来によって、ヴァイマル共和政下での最後のドイツ映画の繁栄が到来した。音声付の作品はすぐにドイツ映画界に浸透し、1932年には音声設備付き映画館が3,800もあった。オーストリア人監督のジョセフ・フォン・スタンバーグの﹃嘆きの天使﹄ (1930) はドイツ映画で初めてのトーキー作品︵ドイツ語と英語の両方で撮影された︶であり、マレーネ・ディートリヒを国際的スターにした。その他の初期のトーキー作品にはパープストの﹃三文オペラ﹄(1931)、ラングの﹃M﹄(1931)などがある。ベルトルト・ブレヒトは共産主義を支持する映画﹃クーレ・ヴァムペ﹄(Kuhle Wampe)(1932)にも関わっているが、この作品は公開後に上映禁止となった。1933年から1945年まで、第三帝国下で[編集]
詳細は「ナチスの映画政策」を参照
ヴァイマル共和制の元の経済的・政治的不安により、多くの映画監督や俳優たちはドイツを離れ、特にアメリカに移っていった。エルンスト・ルビッチは1923年にハリウッドに移り、ハンガリー生まれのマイケル・カーティスは1926年に移った。1933年にナチ党が政権をとってから、流出は更に拡大していく。約1,500人もの映画監督・プロデューサー・俳優・その他の映画製作者たちが移住していったとみられている。その中にはウーファのトップであったプロデューサーのエリッヒ・ポマー、女優のマレーネ・ディートリヒ、俳優のピーター・ローレ、映画監督のフリッツ・ラングなどがいる。ラングのドイツ脱出は有名である。ラングの﹃メトロポリス﹄を見たヨーゼフ・ゲッベルスは自分のプロパガンダ映画製作チームのリーダーに是非なって欲しいとラングに申し入れたと言われ、ユダヤ系だったラングはその日のうちに一人でフランスに逃れたという。多くの将来有望と見られていた若手監督たちもアメリカに逃れ、ハリウッドでその才能を発揮し、アメリカ映画界に大きな影響を及ぼした。1930年代にユニバーサル映画が量産したホラー映画の多くは、そういったドイツ人監督︵カール・フロイント、ヨーエ・マイ、ロバート・シオドマク等︶の作品であった。映画監督のエドガー・ウルマーやダグラス・サーク、オーストリア人脚本家(後に映画監督になった)のビリー・ワイルダーなどもナチ政権を逃れてアメリカに移住し、ハリウッドで成功した。しかしナチに迫害された映画人すべてが逃れた訳ではなく、例えば俳優・映画監督であったクルト・ゲルンは強制収容所で亡くなった。彼はガス室に送られる直前に﹁強制収容所の素晴らしい環境﹂を宣伝する映画を作らされており、それが遺作となった。
ナチが政権を取ってから数週間後の1933年3月、アルフレート・フーゲンベルクはユダヤ系の社員を解雇してウーファを一変させた。同年6月、ナチ党は帝国映画院︵Reichsfilmkammer︶を設立、ユダヤ系や外国人を排除して映画業界をコントロールするようになる。強制的同一化 (Gleichschaltung) のプロセスの一環として、ドイツのすべてのプロダクションはゲッベルス管轄下の国民啓蒙・宣伝省に属する帝国映画院の下に置かれ、映画産業に従事するすべての人々はReichsfachschaft Filmのメンバーでなければならなくなった。アーリア系でない映画人や、政治的また個人的にナチに受け入れられなかった映画人は業界から締め出されることになる。これによって約3,000 名が影響を受けたと見られている。加えて、ジャーナリストたちも宣伝省の下に組織されることになり、結果として1936年には映画批評は禁止され、Filmbeobachtung︵﹁映画報告﹂︶に取って変わられた。ジャーナリストたちは映画の内容をリポートすることだけを認められ、作品にいかなる評価を下すことも出来なくなってしまった。
ドイツ映画産業は全体主義に飲み込まれ、いかなる映画もナチ体制と調和していなければ製作することは出来なくなる。しかしながら、反ユダヤのプロパガンダ作品 - 興行的に失敗した1940年の﹃永遠のユダヤ人﹄や、ドイツだけでなくヨーロッパ中で成功を収めた﹃ユダヤ人ズュース﹄- もあるにはあったが、大半のドイツ映画はエンターテインメントの要素が強かった︵もちろん、国家への服従や総統の理念︵指導者原理、Führerprinzip︶といった﹁ドイツ的価値観﹂を人々に植え付ける工夫はされていた︶。1936年から外国映画の輸入が制限されるようになり、1937年に国営化された業界はその埋め合わせをしなければいけなくなる。第二次世界大戦の末期になるにつれ、次第に濃くなるドイツの敗色から大衆の目をそらせることが出来る映画はヒトラーの政府にとって更に重要になってくる。戦時中に最もヒットした映画﹃Die große Liebe﹄(1942)と﹃希望音楽会﹄(1940)は、両方ともミュージカル要素と愛国的プロパガンダを含んだ戦時中のロマンスものであった。また、初期のカラー作品であったコミカルなミュージカル映画﹃Frauen sind doch bessere Diplomaten﹄ (1941)やヨハン・シュトラウス2世のオペレッタの映画化作品﹃Wiener Blut﹄(1942)なども人気を博した。一般大衆を楽しませ、かつプロパガンダも促進できる映画は国家にとって重要な道具となっていた。
この時代、多くの才能ある映画人の流出や政治的制約にもかかわらず、アグファカラー (Agfacolor)の導入に代表される映画技術や芸術性の進展が見られた。その代表的な人物はレニ・リーフェンシュタールである。リーフェンシュタールの作品 - 1934年にニュルンベルクで開かれた全国党大会を納めたドキュメンタリー﹃意志の勝利﹄(1935)と、1936年夏のベルリンオリンピックに関するドキュメンタリー﹃オリンピア﹄(1938) – はカメラワークが優秀な作品であり、後の世代に大きな影響を与えた。しかし双方の作品、特に﹃意志の勝利﹄はナチを賞賛する作品として、現在でも問題視されている作品である。