フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
(ホーフマンスタールから転送)
フーゴ・フォン・ホーフマンスタール Hugo von Hofmannsthal | |
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ペンネーム | ロリス(Loris)、テオフィル・モレン(Theophil Morren)など |
誕生 |
1874年2月1日 オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
死没 |
1929年7月15日(55歳没) オーストリア、ウィーン |
職業 | 詩人、小説家、劇作家 |
国籍 | オーストリア |
活動期間 | 1890-1929 |
ジャンル | 詩、小説、脚本、詩論、随筆、批評 |
文学活動 |
青年ウィーン(Jung-Wien) 象徴主義、印象主義 |
代表作 |
『チャンドス卿の手紙』(1902) 『薔薇の騎士』(1911) 『イェーダーマン』(1911) |
配偶者 | ゲルトルート・シュレジンガー |
子供 | フランツ |
影響を受けたもの
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署名 | |
ウィキポータル 文学 |
フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール︵Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal, 1874年2月1日 - 1929年7月15日︶は、オーストリアの詩人・作家・劇作家。ホフマンスタールとも表記される。ウィーン世紀末文化を代表する青年ウィーン︵Jung-Wien︶の一員であり、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家。
ホーフマンスタール家は、チェコ出身のユダヤ系の商人イザーク・レーフ・ホーフマン︵フーゴの曽祖父︶が貴族の称号を受け、地名風の姓︵ホフマンの谷︶を名乗るようになったことに始まる家系なので﹁ホーフマンシュタール﹂は誤り[注釈 1]。
ホーフマンスタール1893年
1891年、芸術至上主義を掲げる5歳年上のシュテファン・ゲオルゲと知り合って、その多大な影響を受け、ゲオルゲの主宰する﹃芸術草紙﹄の寄稿者となった。パリのステファヌ・マラルメの詩のサークル出身であったゲオルゲは彼の同級生たちを喜ばせるために、使いを彼のギムナジウムの教室に派遣して彼に赤いバラの花束を贈った[1][注釈 2]。1892年、彼はウィーン大学に入学し、当初は法律を学んだが、後にロマンシュ諸語、特にその詩法の研究に転じた。彼はドイツ語のほかフランス語、イタリア語、英語を話した[1]。
詩は典雅な形式をもつ象徴主義的で唯美主義的な作品もあれば、精妙な随筆・文芸論を書くエッセイストでもあり、美しい韻文劇の書き手でもあった[2][3]。ことに﹃痴人と死﹄などの世紀末的な雰囲気をたたえた韻文劇で名声を獲得した。また、詩論をなし、古典古代の悲劇や中世の伝説を翻案して現代性を付与するなど、その活躍は多方面にわたった[2]。青年期の彼は、シュニッツラーやゲオルゲ、リヒャルト・ベーア=ホフマンといった人々とカフェ・グリーンシュタイドルに集い、定期的に会合をもった[4][5]。
27歳のときに、世紀転換点における芸術家の精神的な危機を架空の手紙の形で記した﹃チャンドス卿の手紙﹄︵1902年︶を発表、これは近代批評の先駆的作品となった[2][注釈 3]。この頃彼は、銀行の頭取の娘ゲルトルート・シュレジンガーと結婚し、ウィーン南方のローダウンで暮らしはじめた[1]。
﹃チャンドス卿の手紙﹄は彼自身の転機ともなり、これ以降、﹁祝祭﹂としての演劇を唱え、ソフォクレスやエウリピデスなどの古典劇に洗練された美意識にもとづく近代的解釈を加え、優れた翻案・改作の数々を発表していった[2]。代表作にギリシア古典の翻案劇﹃エレクトラ﹄︵1903年︶や﹃戯曲 オイディプスとスフィンクス﹄︵1906年︶、中世宗教劇の﹃イェーダーマン﹄︵1911年︶がある[2]。ホーフマンスタールはまた、1920年にはじめて開催されたザルツブルク音楽祭を発案したことでも知られる[7]。このとき、﹃イェーダーマン﹄︵リヒャルト・シュトラウス音楽、マックス・ラインハルト演出︶がザルツブルク大聖堂正面前を舞台にして上演された[7]。彼はまた、リヒャルト・シュトラウスと協力して﹃薔薇の騎士﹄︵1911年︶、﹃気むずかしい男﹄︵1921年︶などのオペラ創作も手がけた[6]。
彼は、社会や政治に対しては終始一定の距離をとる姿勢を貫いており、当時のウィーンにおいて繰り返し現れる反ユダヤ主義的言説やみずからの出自であるユダヤ性については、それがまるで存在しないかのように行動した[2]。そしてまた、生涯を通じて熱烈な愛国者でもあった[1]。1912年、ホーフマンスタールは一度は称賛していたイタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオがオーストリア=ハンガリー帝国と皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を攻撃したことで、彼と絶交している[1]。
第一次世界大戦後、1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に大きな精神的ショックを受け、晩年は過去の文化や伝統に結びついた文化評論や書物の編集に励んだ。1929年、卒中により死去。息子フランツが拳銃自殺をしたわずか2日後、長男の葬式の日に愛用の肘掛け椅子にすわったまま亡くなったという[3]。