中原呉郎
来歴[編集]
中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。
1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。
1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。
1946年、中原医院の事務員となる。
1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。入所者や職員からは﹁呉郎ちゃん先生﹂と言われ、親しまれていた。
1975年6月12日、肝硬変により南多摩病院で死去︵満58歳没︶。
文筆活動[編集]
呉郎は肋膜炎に罹患していた山口中学校の2年間に文学作品を読みふけり、在校時に雑誌﹃詩園﹄を仲間たちと創刊したり、友人とともに中也の年表を発表している。
長崎医科大学時代には、詩集﹃煙の歌﹄を刊行した。
﹁中也の弟﹂と見られるようになった呉郎はしだいに詩作から離れて、中也や中原一族、種田山頭火の評論やエッセイ、小説などを書くようになった。
家族[編集]
●父 中原謙助 ●母 中原フク ●長兄 中原中也 ●三兄 中原恰三 ●四兄 中原思郎 ●弟 伊藤拾郎 この他に次兄に亜郎がいたが、呉郎が生まれる前に病死している著書[編集]
- 『中原呉郎追悼集』遊学文庫、1976年
- 『海の回路』昭和出版、1976年