国鉄3900形蒸気機関車
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/JGR-3900SL.jpg/240px-JGR-3900SL.jpg)
3900形は、かつて日本国有鉄道︵国鉄︶の前身である鉄道作業局、鉄道院、鉄道省に在籍したラックレール式︵アプト式︶蒸気機関車である。1892年︵明治25年︶および1908年︵明治41年︶にドイツのエスリンゲン社 (Maschinenfabrik Esslingen) で計7両が製造された。なお、本形式は官設鉄道初のドイツ製蒸気機関車であった。
製造までの経緯[編集]
官設鉄道は当時、高崎 - 直江津間の建設工事を行っていた。しかし、横川 - 軽井沢間︵現在は廃止︶の碓氷峠には、最大66.7‰(1/15)という前例のない急勾配、さらには長短合わせて26ものトンネルが存在するという国内屈指の難所であった。そこで、この急勾配を克服するために、日本初のラック式鉄道を使用することになった。 これにより、この区間専用の蒸気機関車が製造されることになった。その中の最初の形式が、本形式である。 本形式は、まず1892年に4両︵製造番号2502 - 2505︶が製造され、官設鉄道ではAD形︵194, 196, 198, 200︶と付番されたが、1894年︵明治27年︶には日本鉄道分離にともなう改番により、126, 128, 130, 132に改められた。1898年︵明治31年︶の鉄道作業局発足時には、C1形︵500 - 503︶となっている。 これらの後は、イギリスのベイヤー・ピーコック社製のC2形︵後の鉄道院3920形︶、同社および汽車製造製のC3形︵後の鉄道院3950形、3980形︶が増備されていたが、1908年に再びエスリンゲン社に同形車3両︵製造番号3510 - 3512︶が発注され、翌1909年︵明治42年︶に来着、518 - 520と付番された。そして、同年制定された鉄道院の車両称号規程により、C1形は3900形に改められ、番号順に3900 - 3906に改番された。構造[編集]
前述のとおり、アプト式の蒸気機関車のため、通常の粘着運転用のシリンダーを台枠外側に2基設置したほか、ラックレール用の歯車︵ピニオン︶を駆動する専用シリンダーを台枠内側に2基、計4基のシリンダーを装備している。4基のシリンダーに蒸気を供給するため、ボイラー上の蒸気ドームは、非常に大きなものとなっており、特徴的であった。狭軌用である本形式においては、台枠内側に歯車用シリンダを設置する幅員を確保するため、動輪の外側に台枠を設けた外側台枠式とされている。 また、急勾配のため、真空ブレーキ・手ブレーキのほか、シリンダーの反圧ブレーキやバンドブレーキ︵勾配中での停車や非常用︶が設置されている。 このほか、1898年ごろに煤煙防止とボイラー性能向上のため、重油併燃装置が設置され、ボイラー上に箱形の重油タンクが設置された。主要諸元[編集]
●全長‥9,100mm ●全高‥3,835mm ●最大幅‥2,508mm ●軌間‥1,067mm ●車軸配置‥0-6-0(C)︵ピニオンは2軸︶ ●動輪直径‥900mm︵ピニオン直径573mm︶ ●シリンダー︵直径×行程︶‥390mm×500mm︵ラック用‥340mm×400mm︶ ●弁装置‥ワルシャート式ヘルツホルム形︵車輪用︶・ジョイ式︵ラック用︶ ●ボイラー圧力‥12.4kg/cm2 ●火格子面積‥1.73m2 ●全伝熱面積‥74.6m2 ●煙管伝熱面積‥67.1m2 ●火室伝熱面積‥7.5m2 ●ボイラー水容量‥3.2m3 ●小煙管︵直径×長サ×数︶‥44.5mm×2,500mm×192 ●機関車重量︵運転整備︶‥39.56t ●機関車重量︵空車︶‥31.01t ●機関車動輪上重量︵運転整備︶‥39.56t ●最大軸重︵第2動軸︶‥13.78t ●水タンク容量‥3.48m3 ●燃料積載量‥1.02t ●機関車性能‥ ●シリンダ引張力︵0.85P)‥8,620kg ●ブレーキ‥手ブレーキ・真空ブレーキ・反圧ブレーキ・バンドブレーキ運転[編集]
本形式は、官設鉄道初のドイツ製であったためか、輸入後の再組み立ての際にピニオン︵歯車︶の左右を間違えるなどの失敗が相次いだり、イギリス人のお雇い技師が、アプト式の経験がなかったにもかかわらず、エスリンゲン社からの取扱い指導を拒否し、蒸気を浪費しすぎて立往生するなど、試運転が順調に進まず、帝国議会で批判されることもあったが、何とか開業直前に試運転に成功した。 本形式は同区間を通過する列車に貨客問わずに使用され、その期間は20年に及んだ。その間、乗務員、乗客ともに煤煙に悩まされ続け、最悪の場合は死亡する場合があった。1912年︵明治45年︶に同区間は電化されたが、貨物列車用及び予備車として在籍し続け、1922年︵大正11年︶までに全車廃車となった。日本のアプト式蒸気機関車としては最後まで残った形式であった。保存機[編集]
全車廃車解体され、保存機はない。参考文献[編集]
- 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社刊
- 臼井茂信「機関車の系譜図 2」1972年、交友社刊 264-271頁
- 金田茂裕「日本蒸気機関車史 官設鉄道編」1972年、交友社刊
- 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 II」1984年、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン刊
- 川上幸義「私の蒸気機関車史 上」1978年、交友社刊
- 高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊
- 沖田祐作「機関車表 国鉄編」レイルマガジン 2008年9月号(No.300)付録 ネコ・パブリッシング刊