大杉栄遺骨奪取事件
大杉栄遺骨奪取事件 | |
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場所 |
日本 東京府本郷駒込片町 労働運動社社屋 |
標的 | 遺骨 |
日付 |
1923年12月16日 午前7時頃 |
概要 | 下鳥ら3名が会社に現れて遺骨を強奪。発砲して逃走を試みるが、警察に投降した。寺田は遺骨を受け取って岩田に渡し、自分も逃走するが後に逮捕。岩田は大化会本部に戻り、遺骨を茂木に託して、北一輝が仲介して遺骨返還するまで隠していた。 |
攻撃手段 | 強奪 |
武器 | ピストル |
死亡者 | なし |
負傷者 | なし |
犯人 | 下鳥繁造、岩田富美夫、寺田稲次郎、他2名 |
動機 | 無政府主義者の告別式の妨害 |
関与者 | 茂木久平(遺骨を預かり隠した) |
対処 | 下鳥、寺田ら4名は逮捕され、強盗罪で有罪。1年後に遺骨を返還した岩田は不起訴であった。 |
謝罪 | なし |
大杉栄遺骨奪取事件(おおすぎさかえいこつだっしゅじけん)は、1923年12月16日、東京谷中斎場にて甘粕事件の被害者3名の告別式が行われる前、無政府主義運動の労働運動社の通夜会場に右翼団体大化会の下鳥繁造らが押しかけて、焼香を装って遺骨を奪い去った事件である。大杉栄遺骨強奪事件とも言う。
静岡市葵区沓谷一丁目の市営沓谷霊園にある墓。︵2019年9月︶
遺骨は奪われたが、もともと無宗教でやる予定であったので、告別式は続行されることになった。遺骨の代わりに3人の遺影を先頭に隊列を組んで、労働運動社から谷中斎場に出発。大杉を悼むために集まった参列者は約700名で、葬儀は盛大に行われたが、﹁無政府主義万歳﹂の大合唱が始まると警察が介入して中止解散を命じて幕切れとなった。他方、大阪と岡山でも同じ日にアナキストや社会主義者が集う追悼集会が催されることになっていて、事前に警察の許可も取り付け、たくさんの特高や制服警察官がいる中で行われた。大阪天王寺区善福寺での追悼集会は200名以上が参列した。しかし黒色戦線社の久保譲の弔辞の文言が過激だということで警察の妨害が入り、こちらも途中で中止となった。
警察が警備するなかで遺骨を堂々と盗まれたことは、たとえアナキストのものであったとしても、警察の面子を潰した。事前に噂もあり、下鳥の逮捕で事件の大化会の関与は明らかであったので、本部の捜索が行われたが、遺骨は見つからなかった。内務省警保局長の岡田忠彦は、猶存社の北一輝を呼び、北に彼の高弟である岩田を説得して遺骨を返還させるように口利きを依頼した[4]。
12月25日、岩田富美夫は警視庁に出頭して遣骨を湯浅倉平警視総監に返還した。しかし岩田は主犯と見なされず、犯行現場にもいなかったので、不起訴になった。2日後に遺族が警視庁を訪れるが、この12月27日に虎の門事件が起きてそれどころではなかったので、遺骨返還は先送りになり、虎の門の事件によって湯浅総監もほどなく罷免されたので、さらに順延になった。一方、下鳥は主犯として起訴され、年を越した1924年1月に懲役6力月を求刑された。
1924年5月17日、大杉勇がようやく3人の遺骨を警視庁より受け取った。︵分骨されたものを除く︶遺骨は、5月25日、大杉栄の妹・柴田菊が当時住んでいた静岡市葵区の市営沓谷霊園に葬られ、現在もそこに墓がある。
ところで、下鳥は大化会の客分の扱いであったというが、出所後、岩田は報酬として3万円もらっていながら下鳥にはたった7千円しかやらなかったことがわかって、二人は大ゲンカになったという[5]。下鳥は大化会を脱会し、刑務所を出たり入ったりで後に︵これとは別件で︶自殺するのだが、和田久太郎は9月2日の福田大将狙撃事件で逮捕された後、刑務所で思いがけず下鳥繁造と再会することになった[6]。