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宮崎松記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  190033110 - 197247614[1]

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龍田寮事件[編集]

1954年4月8日に龍田寮の児童の通学をめぐって同盟休校に入った熊本市立黒髪小学校

別名黒髪校事件。国立療養所菊池恵楓園の保育園は、回春病院の閉鎖後の跡地(龍田寮)に1941年(昭和16年)に移動した。菊池恵楓園のハンセン病患者の子供(所謂未感染児童)が58名、(幼児26名、小学生23名、中学生7名、高校生2名)がそこに住むことになった。そこでは学校の教師は僅か一人であり、教育は大変不満足なものがあった。恵楓園園長宮崎松記や、事務長は13年間粘り強く交渉して、学童生徒を一般の小学校中学校へ通学するようにした。1954年(昭和29年)に黒髪小学校に通学できることになったが、同校PTAの一部のものにより、入学が阻止された事件である。小学校新入生4名が熊本大学皮膚科を受診、1名が要観察となった。1年間、同校区内で紛糾を重ね、自主授業や集会などが繰り返された。調停を行い、熊本商大山崎守雄学長が3人の児童を引き取り通学させることになる一応の解決をみた。この事件は黒髪校区PTA会長による政治がらみの事件で、同じ校区の桜山中学ではこういう事件は発生していない。その後龍田寮の児童生徒は、児童養護施設や、親戚に引き取られ一般の小中高校に入学した。熊本地方法務局の調査によると、同じ条件の保育園では、このような事件はおこっていないという。この事件は相当しこりを残した。

インド救らいセンターの経緯[編集]


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Acidomycin 

 Neo-CYANCOR (1957) 30()

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[Antileprosy campaign in India]. Miyazaki M. Nihon Ishikai Zasshi. 1969 Dec 1;62(11):1160-3.

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 1969ASIN B012CEKPQK 

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  1. ^ 宮崎 松記とは”. コトバンク. 2021年1月17日閲覧。
  2. ^ 杉村春三『らいと社会福祉』(2007)
  3. ^ 戦争と癩 レプラ 1948
  4. ^ 林芳信 『回顧50年』 昭和54年 70頁
  5. ^ 桜井方策著 『光田健輔の思い出』 ルガール社 1974,
  6. ^ インド救ライ病院の充実に 宮崎院長が帰国『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月19日朝刊 12版 15面
  7. ^ a b 『インドのおじいちゃん ありがとう』 宮崎松記没後20年記念 1992
  8. ^ 『菊池恵楓園50年史』(1960) 菊池恵楓園 熊本

関連項目[編集]

外部リンク[編集]