清水文雄
表示
清水 文雄︵しみず ふみお、1903年︵明治36年︶6月6日 - 1998年︵平成10年︶2月4日︶は、熊本県出身の国文学者。和泉式部など中古文学・中世文学の研究で有名。作家・三島由紀夫の才能を見出したことで知られる。
経歴[編集]
1932年︵昭和7年︶、広島文理科大学卒業。1933年︵昭和8年︶、蓮田善明や栗山理一、池田勉と共に﹁国文学試論﹂を発行。1938年︵昭和13年︶、蓮田たちと共に﹁文藝文化﹂創刊。 1938年︵昭和13年︶、国語教師として旧制成城高校から学習院に赴任。1939年︵昭和14年︶、当時中等科3年生だった平岡公威︵三島由紀夫︶に、国文法と作文を教える。1940年︵昭和15年︶、寄宿舎の星雲寮舎監。1941年︵昭和16年︶8月上旬、﹁文藝文化﹂編集会議にて、平岡公威が書いた短編﹃花ざかりの森﹄の同誌掲載を推薦。なお三島が共に師事した国文学教師の同僚に松尾聰がいる。 ﹃花ざかりの森﹄を掲載の際、父・平岡梓により文学を厳禁されていた平岡公威のため、筆名︵ペンネーム︶の使用を提案した。修善寺での同人誌﹁文藝文化﹂編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、﹁三島﹂を通ってきたことと、富士を見ての連想から﹁ゆき﹂という名前が浮かんだという。そして、﹁伊藤左千夫︵いとうさちお︶﹂のような万葉風の名を希望した平岡公威本人が提示した﹁三島由紀雄﹂の名に対して、清水は﹁由紀雄﹂は重過ぎると助言し﹁三島由紀夫﹂となった。 第二次世界大戦後に学習院を辞し、戦後復興のため広島に赴任。広島師範学校や新制発足した広島大学に勤務。1966年︵昭和41年︶7月には、三島が﹃豊饒の海 第二巻 奔馬﹄の取材で、神風連の地・熊本市を8月に訪れる際の案内者・荒木精之を紹介した。また熊本に行く前に、広島に訪れた三島を江田島の海上自衛隊第1術科学校や、清水の読書懇談会﹁王朝文学の会﹂にも案内する。 1967年︵昭和42年︶、広島大学退官に際し、三島は﹁広島大学国文学攷 退官記念号﹂に、評論﹃古今集と新古今集﹄を寄稿した[1]。以後は比治山女子短大︵現‥比治山大学︶教授、のち学長[2]に就いた。終生広島に在住した。三島自決後もいくつかの追悼回想を行っている。1993年︵平成5年︶には、大学図書館に﹁三島由紀夫文庫﹂が設置された。 1998年︵平成10年︶2月4日、肺炎で逝去。享年94。 2003年︵平成15年︶8月に、両者の交流を示す書簡集﹃師・清水文雄への手紙﹄が新潮社︵解説宇野憲治︶で出版された[3]。校訂・著書[編集]
- 『和泉式部歌集の研究 (笠間叢書342)』(笠間書院、2002年)
- 『校定本 和泉式部集 正・続 (笠間叢書 160)』(笠間書院、1981年、新装版1994年)
- 『和泉式部研究 (笠間叢書 209)』(笠間書院、1987年)
- 『和泉式部集総索引 (笠間索引叢刊 105)』(笠間書院、1993年)
- 『和泉式部集・和泉式部続集』(岩波文庫、改版 1983年)
- 『和泉式部日記』(岩波文庫、改版 1981年)
- 『和泉式部歌集』(岩波文庫、1956年)、文庫は各校訂
- 『衣通姫の流 (古川叢書)』(古川書房、1978年)
- 『王朝女流文学史 (古川叢書)』(古川書房、1972年、新装版1982年)
- 『清水文雄「戦中日記」 文学・教育・時局』(清水明雄編、笠間書院、2016年)
- 『河の音』(王朝文学の会、私家版、1967年)、※以下は随想集(非売品)
- 『続 河の音』(王朝文学の会、私家版、1984年)
- 『随想集 河の音 抄』(比治山女子短期大学、1986年)
- 『随想集 海』(私家版、1992年)
参考文献[編集]
- 安宗伸郎[4]『清水文雄先生に導かれて・王朝文学の会の軌跡』(広島・溪水社、2004年)
- 三島由紀夫『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)
- 『三島由紀夫文庫目録 ・清水文雄先生旧蔵』(比治山女子短期大学図書館編、1993年)
- 『決定版 三島由紀夫全集 42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)