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﹃源泉の感情﹄︵げんせんのかんじょう︶は、三島由紀夫の対談集。1952年︵昭和27年︶から1968年︵昭和43年︶にかけて雑誌上で行なわれた小林秀雄、大江健三郎、舟橋聖一、安部公房、石原慎太郎、野坂昭如、福田恆存、大島渚、芥川比呂志、テネシー・ウィリアムズ、千宗室、坂東三津五郎、喜多村緑郎、喜多六平太、杵屋栄蔵、豊竹山城少掾、武原はんとの19話の対談が収録されている。文芸論、演劇論、伝統芸能、茶道談義から政治問題まで幅広い内容となっている。
1970年︵昭和45年︶10月30日に河出書房新社より刊行された[1]。2006年︵平成18年︶2月に河出文庫で収録内容を入れ替え再刊行されている。
書名の︿源泉の感情﹀は、ヘルダーリンの﹃追想﹄の中の﹁多くの者は源泉へ行くことに畏怖の念を抱く﹂から取られたものと推測されるが、三島の﹃愛の疾走﹄の作中には、︿俺の心には、ジイドのいはゆる︿源泉の感情﹀がいつもこんこんと湧き出てゐるのだ﹀ともある[2]。
収録内容[編集]
﹁美のかたち――﹃金閣寺﹄をめぐって﹂ 対‥小林秀雄
1957年︵昭和32年︶、雑誌﹃文藝﹄1月号に掲載されたもの[3]。
※ 本書収録以前に﹃三島由紀夫選集18﹄︵新潮社、1959年︶に初収録されている。
※ 対談実施日は1956年︵昭和31年︶11月頃。
﹁現代作家はかく考える﹂ 対‥大江健三郎●
1964年︵昭和39年︶、雑誌﹃群像﹄9月号に掲載されたもの[3]。
※ 対談実施日は7月13日。
﹁大谷崎の芸術﹂ 対‥舟橋聖一
1965年︵昭和40年︶、雑誌﹃中央公論﹄10月号に掲載されたもの[3]。
﹁二十世紀の文学﹂ 対‥安部公房
1966年︵昭和41年︶、雑誌﹃文藝﹄2月号に掲載されたもの[3]。
﹁新人の季節﹂ 対‥石原慎太郎●
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃文學界﹄4月号に掲載されたもの[3]。
﹁エロチシズムと国家権力﹂ 対‥野坂昭如
1966年︵昭和41年︶、雑誌﹃中央公論﹄11月号に掲載されたもの[3]。
※ 対談実施日は9月。
﹁文武両道と死の哲学﹂ 対‥福田恆存
1967年︵昭和42年︶、雑誌﹃論争ジャーナル﹄11月号に掲載されたもの[3]。
﹁ファシストか革命家か﹂ 対‥大島渚●
1968年︵昭和43年︶、雑誌﹃映画芸術﹄1月号に﹁羽田事件と暴力の構造を追究する﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
司会に小川徹。
﹁七年後の対話﹂ 対‥石原慎太郎
1964年︵昭和39年︶、雑誌﹃風景﹄1月号に掲載されたもの[3]。
﹁演劇と文学﹂ 対‥芥川比呂志
1952年︵昭和27年︶、雑誌﹃文學界﹄2月号に掲載されたもの[3]。
﹁劇作家のみたニッポン﹂ 対‥テネシー・ウィリアムズ●
1959年︵昭和34年︶、雑誌﹃芸術新潮﹄11月号に掲載されたもの[3]。
※ オブザーバーとして、フランク・マーロ、ドナルド・リチー参加。
﹁歌舞伎滅亡論是非﹂ 対‥福田恆存●
1964年︵昭和39年︶、雑誌﹃中央公論﹄7月号に掲載されたもの[3]。
﹁捨身飼虎﹂ 対‥千宗興●
1961年︵昭和36年︶、雑誌﹃淡交﹄8月号に掲載されたもの[3]。
※ 対談実施日は6月19日。実施場所は中洲・其角。
﹁日本の芸術 歌舞伎﹂ 対‥坂東三津五郎
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄1月号に﹁日本の芸術1﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
﹁日本の芸術 新派﹂ 対‥喜多村緑郎
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄2月号に﹁日本の芸術2﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
﹁日本の芸術 能楽﹂ 対‥喜多六平太
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄3月号に﹁日本の芸術3﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
﹁日本の芸術 長唄﹂ 対‥杵屋栄蔵
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄4月号に﹁日本の芸術4﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
﹁日本の芸術 浄瑠璃﹂ 対‥豊竹山城少掾
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄5月号に﹁日本の芸術5﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
﹁日本の芸術 舞踊﹂ 対‥武原はん
1956年︵昭和31年︶、雑誌﹃群像﹄6月号に﹁日本の芸術6﹂のタイトルで掲載されたもの[3]。
※﹁日本の芸術﹂の全話は、本書収録以前に﹃三島由紀夫選集19﹄︵新潮社、1959年7月︶に初収録されている[4]。
初刊本﹃源泉の感情﹄の﹁あとがき﹂で三島は以下のように対談者たちの特徴や感想を語っている。
かうして並べてみると、文壇人はさすがに会話上手である。といふより、こちらも安心してものが言へるので、話が弾むせゐかもしれない。カンで相手の真意をとらへる早さは、いはば文士にとつては表芸に属するものだから、そのせゐかもしれない。そこへ行くと、巻末の﹁日本の芸術﹂対談には参つた。︵中略︶かういふ名人の会話といふものは、いはゆる会話とはちがふのである。言葉で表現する必要のない或るきはめて重大な事柄に関はり合ひ、そのために研鑽してゐるといふ名人の自負こそ、名人をして名人たらしめるものだが、さういふ人に論理的なわかりやすさなどを期待してはいけないのである。今も思ひ出す最大の難物は故山城少掾で、この対談に冷汗を流して格闘した結果、すんだあとで、私は軽い脳貧血を起してしまつた。 — 三島由紀夫﹁あとがき﹂[5]
刊行本[編集]
●﹃源泉の感情 三島由紀夫対談集﹄︵河出書房新社、1970年10月30日︶NCID BN0551922X
●装幀‥秋山正。布装・紫色帯。
●収録内容‥上記19話、﹁あとがき﹂︵三島由紀夫︶
●文庫版﹃源泉の感情 三島由紀夫対談集﹄︵河出文庫、2006年2月20日︶
●解説‥藤田三男
●収録内容‥上記●の対談6話が削られ、武田泰淳との﹁文学は空虚か﹂︵﹁文藝﹂1970年11月号︶を追加した14話。
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